学位論文要旨



No 115268
著者(漢字) 大平,剛
著者(英字)
著者(カナ) オオヒラ,ツヨシ
標題(和) クルマエビの血糖上昇ホルモン族ペプチドに関する分子生物学的研究
標題(洋)
報告番号 115268
報告番号 甲15268
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2113号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 会田,勝美
 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 教授 長澤,寛道
 東京大学 助教授 渡邉,俊樹
 東京大学 助教授 鈴木,譲
内容要旨

 通常、甲殻類では複眼が頭部から突出しており、その複眼を支えている柄の部分を眼柄と呼ぶ。この眼柄を切除することにより、体色変化を起こしたり、血糖値が低下したり、脱皮周期が早まったり、雌では卵黄形成が早まることが古くから知られており、このことから、眼柄内にはこれらの変化を制御する神経ペプチド(因子)が存在することが推定されていた。その後、組織形態学的研究から、眼柄内には神経ペプチドを合成しているX器官と呼ばれる神経分泌細胞群が存在し、そこから伸びる軸索の末端にはサイナス腺と呼ばれる神経血液器官があり、そこから神経ペプチドが血リンパ中へ放出されることが明らかにされた。研究の進展に伴い、これまでに多くの神経ペプチドがサイナス腺から精製され、アミノ酸配列が明らかにされた。その中には血糖上昇ホルモン(CHH)、脱皮抑制ホルモン(MIH)、卵黄形成抑制ホルモン(VIH)、大顎器官抑制ホルモン(MOIH)が含まれ、それらホルモンの作用は大きく異なるものの、お互いに類似のアミノ酸配列を有することから1つの族(CHH族)を形成していることが明らかとなった。また、CHH族ペプチドはアミノ酸配列の比較から、さらに2つのグループ、タイプIとIIに分類できることも判明した。これまでに6種類のCHH族ペプチド(3種のCHH、2種のMIH、1種のVIH)の前駆体をコードするcDNAが単離され、その結果からタイプIとIIでは前駆体の構造も異なっていることが指摘されている。

 高級水産物として盛んに養殖が行われているエビ類では、CHH族ペプチドの研究は皆無であったが、最近、クルマエビ(Penaeus japonicus)から初めて7種類のCHH族ペプチド(Pej-SGP-I〜Pej-SGP-VII)が単離、構造決定された。そのうち6種類(Pej-SGP-I,II,III,V,VI,VII)はタイプIに属し、血糖上昇活性と卵巣におけるタンパク合成阻害活性を示すのに対して、1種類(Pej-SGP-IV)はタイプIIに属し、強い脱皮抑制活性を示すことがわかった。また、これらのペプチドはすべて1個体で合成されることも確認された。本研究ではこれらのペプチドをコードする遺伝子の構造の特徴を明らかにすること、それらの遺伝子発現を調べること、および大腸菌発現系を用いた大量生産系を確立し、活性を有するCHH族ペプチドの絹み換え体を大量に得て、生理作用の解明に役立てることを目的とした。

第一章クルマエビ血糖上昇ホルモン族ペプチドのcDNAの構造解析

 クルマエビのCHH族ペプチドのアミノ酸配列を基にしてプライマーを作製し、それらを用いてPCRを行い、cDNA断片を増幅した。それらをプローブとして眼柄がら調製したcDNAライブラリーのスクリーニングを行い、Pej-SGP-I,III,IV,V,VIIをコードするcDNAを単離した。また、Pej-SGP-11をコードするcDNAは3’および5’-RACE PCR法により単離した。配列解析の結果、タイプIに属するPej-SGP-I,II,III,V,VIIの前駆体はいずれもN末端側からシグナルペプチド、CPRPと呼ばれる機能不明のペプチド、プロセシングシグナル、ホルモン本体、アミド化シグナルにより構成されていることがわかった。これは既に3種の甲殻類で報告されているタイプIに属するCHHの前駆体の構造と基本的に一致した。しかし、これまでの3種の甲殻類のCPRPが33〜38残基の長さであるのに対し、クルマエビの推定CPRPはいずれも15〜20残基と極端に短く、3種で保存されている配列が欠失しているという特徴を示した。また、Pej-SGP-I,II,III,V,VIIと他種の甲殻類のCHHのホルモン部分の相同性が約50%であるのに対して、CPRPでは約20%の相同性しか示さなかった。3種の甲殻類のCPRPは互いに高い配列の相同性を示していたので、これまでこの部分も何らかの生理的役割をもつと推定されていたが、今回のクルマエビの分析からCPRPは本来、生体内で重要な役割をしていないか、あるいは、クルマエビのCPRPは他の3種の甲殻類のCPRPとは全く別の役割をもつ可能性が示された。

 一方、タイプIIに属するPej-SGP-IVの前駆体はシグナルペプチドとホルモン本体のみから構成され、タイプIの前駆体の構造とは明らかに異なっていた。これは既に3種の甲殻類で報告されているタイプIIのCHH族ペプチドの前駆体の構造の特徴と一致した。このように、クルマエビにおいてもペプチド側の解析から分類された2つのタイプは、遺伝子構造における2つのタイプとよく対応することが確かめられた。

第二章クルマエビ血糖上昇ホルモン族ペプチドの遺伝子発現の解析

 得られたcDNAをプローブに用いて、血糖上昇ホルモシPej-SGP-IIIと脱皮抑制ホルモンPej-SGP-IVの遺伝子発現の組織特異性をノーザンブロットにより調べた。その結果、これら2つのペプチドをコードするmRNAは、調べた組織のうちでは眼柄でのみ検出され、肝膵臓、腹部の筋肉、脳、胸部神経節、腹部神経節では検出されなかったことから、これらのペプチドは眼柄でのみ合成されると推定された。また、脱皮周期におけるCHH族ペプチドの遺伝子発現レベルの変動はこれまで全く調べられていない。これらのペプチドは糖代謝や脱皮に関係することから、それらの遺伝子発現は脱皮周期に伴って変動することが予想された。そこで、脱皮周期を5段階に分け、それぞれの時期の眼柄におけるPej-SGP-IIIとPej-SGP-IVの遺伝子発現レベルをノーザンブロットにより比較した。その結果、これら2つの遺伝子の発現レベルには、いずれも脱皮ステージを通じて大きな変動はみられなかった。このことから、Pej-SGP-IIIとPej-SGP-IV遺伝子は脱皮周期と関係なく、X器官でほぼ一定量発現しており、翻訳、分泌などの転写以降の過程の調節が重要であることが推定された。

第三章活性を有する組み換えクルマエビ脱皮抑制ホルモン(Pej-SGP-IV)の大量生産系の確立とその利用

 第一章でクローン化したPej-SGP-IVのcDNAをPCR法を用いて加工した後、発現ベクターに組み込んだ。それを用いて大腸菌を形質転換し、組み換えPej-SGP-IVを直接発現させた。発現させた組み換えPej-SGP-IVは大腸菌内で封入体を形成し不溶化した。そこで、組み換えPej-SGP-IVを含む封入体を6M塩酸グアニジンを含む溶液で可溶化させ、その溶液を直接逆相系のHPLCに供した。その結果、近接する4つの主要ピークにペプチドが回収された。それぞれのピークについてTOF-MSを用いた質量分析と、N末端アミノ酸配列分析を行った結果、4つのピーク物質は全て天然Pej-SGP-IVのアミノ酸配列を有していることが判明した。4つのピーク物質は同一のアミノ酸配列であるにも関わらず逆相系のHPLCで異なった溶出時間に溶出されたことから、分子内の3対のジスルフィド結合の様式がそれぞれ異なっている可能性が示唆された。そこで、これらのジスルフィド結合様式を天然型に導くために1.3mM尿素、1mM酸化型グルタチオン、1mM還元型グルタチオンを含む溶液中で再酸化させた。再酸化産物を再度逆相系のHPLCで分離した結果、単一のピークのみが得られた。この単一ピークも天然Pej-SGP-IVのアミノ酸配列を有していることを同様に質量分析とN末端アミノ酸配列分析で確認した。再酸化後の組み換えPej-SGP-IVの収量は大腸菌培養液量1lあたり約1mgであった。

 再酸化後の組み換えPej-SGP-IVの脱皮抑制活性をアメリカザリガニのY器官を用いたin vitroの生物検定系で調べた。その結果、2.0×10-10-1.0×10-9Mの濃度から脱皮ホルモン(エクジステロイド)の産生・分泌を抑制する活性がみられ、濃度依存的にその活性は上昇し、1.0×10-8-2.0×10-8Mで抑制活性は最大となった。この結果はサイナス腺から精製した天然Pej-SGP-IVの生物検定の結果とよく一致していた。

 さらに、大量に得た組み換えPej-SGP-IVをウサギに免疫し、Pej-SGP-IVに対するポリクローナル抗体を作製した。得られた抗体を用いて免疫組織化学染色を行ったところ、クルマエビ眼柄内の約15個の神経分泌細胞とサイナス腺が免疫陽性反応を示した。隣接切片を以前に作成されたPej-SGP-IVのC末端部分を特異的に詔識する抗体で免疫組織化学染色を行ったところ、全く同じ神経分泌細胞が免疫陽性反応を示した。このことから、今回新たに作製したPej-SGP-IVに対する抗体も同様に高い特異性を有すると考えられた。

 以上、本研究により、クルマエビのCHH族ペプチドの遺伝子構造の特徴、および、それらの遺伝子発現を明らかにすることができた。また、大腸菌発現系を用いて、活性を有する組み換え脱皮抑制ホルモンの大量生産系の確立に世界に先駆けて成功し、さらに特異性の高い脱皮抑制ホルモンに対する抗体を得ることができた。これらの成果は、今後発展していくと思われる甲殻類の内分泌学に多くの情報を与えるだけでなく、養殖という応用分野へ基礎的データを提供する点で大きく貢献するものである。

審査要旨

 甲殻類の眼柄に存在するX器官-サイナス腺系で産生される血糖上昇ホルモン族(CHH族)ペプチドは甲殻類の成長や生殖等を制御している重要な神経ペプチドである.水産上重要なエビ類では,CHH族ペプチドの研究は皆無であったが,最近,クルマエビから初めて7種類のCHH族ペプチド(Pej-SGP-I〜VII)が単離,構造決定された.そのうち6種類(Pej-SGP-I,II,III,V,VI,VII)は血糖上昇活性を示すのに対して,1種類(Pej-SGP-IV)は強い脱皮抑制活性を示すことがわかった.しかし,これらのホルモンの遺伝子構造,発現に関する研究は無く,生理作用についても不明な点が多く残されている.そこで本研究ではこれらのペプチドをコードする遺伝子の構造の特徴を明らかにすること,それらの遺伝子発現を調べること,および大腸菌発現系を用いた大量生産系を確立し,活性を有するCHH族ペプチドの組み換え体を大量に得て,生理作用の解明に役立てることを目的とした.その大要は以下の通りである.

1.クルマエビ血糖上昇ホルモン族ペプチドのcDNAの構造解析

 クルマエビの眼柄から調製したcDNAライブラリーのスクリーニングあるいはRACE-PCR法により6種類のCHH族ペプチド(Pej-SGP-I,II,III,IV,V,VII)をコードするcDNAを単離した.配列解析の結果,Pej-SGP-I,II,III,V,VIIの前駆体はいずれもN末端側からシグナルペプチド,CPRPと呼ばれる機能不明のペプチド,プロセシングシグナル,ホルモン本体,アミド化シグナルにより構成されていることがわかった.一方,Pej-SGP-IVの前駆体はシグナルペプチドとホルモン本体のみから構成され,Pej-SGP-I,II,III,V,VIIの前駆体の構造とは明らかに異なっていた.

2.クルマエビ血糖上昇ホルモン族ペプチドの遺伝子発現の解析

 得られたcDNAをプローブに用いて,血糖上昇ホルモンPej-SGP-IIIと脱皮抑制ホルモンPej-SGP-IVの遺伝子発現の組織特異性をノーザンブロットにより調べた.その結果,これら2つのペプチドをコードするmRNAは,調べた組織のうちでは眼柄でのみ検出され,肝膵臓,腹部の筋肉,脳,胸部神経節,腹部神経節では検出されなかったことから,これらのペプチドは眼柄でのみ合成されると推定された.また,脱皮周期におけるCHH族ペプチドの遺伝子発現レベルの変動はこれまで全く調られていない.これらのペプチドは糖代謝や脱皮に関係することから,それらの遺伝子発現は脱皮周期に伴って変動することが予想された.そこで,脱皮周期を5段階に分け,それぞれの時期の眼柄におけるPej-SGP-IIIとPej-SGP-IVの遺伝子発現レベルをノーザンブロットにより比較した.その結果,これら2つの遺伝子の発現レベルには,いずれも脱皮ステージを通じて大きな変動はみられなかった.このことから,Pej-SGP-IIIとPej-SGP-IVの遺伝子は脱皮周期と関係なく,X器官でほぼ一定量発現しており,翻訳,分泌などの転写以降の過程の調節が重要であることが推定された.

3.活性を有する組み換えクルマエビ脱皮抑制ホルモン(Pej-SGP-IV)の大量生産系の確立とその利用

 Pej-SGP-IVのcDNAをPCR法を用いて加工し,発現ベクターに組み込んだ,それを用いて大腸菌を形質転換し,組み換えPej-SGP-IVを発現させ,逆相HPLCで精製し,組み換えPej-SGP-IVを得た.得られた組み換えPej-SGP-IVのN末端5残基のアミノ酸配列を解析したところ天然物の配列と一致していた.さらに,TOF-MSを用いた質量分析の結果,組み換えPej-SGP-IVは天然物の分子量とほぼ一致していた.このことから,組み換えPej-SGP-IVは天然物と同じアミノ酸配列を有すると考えられた.

 組み換えPej-SGP-IVの脱皮抑制活性をアメリカザリガニのY器官を用いたin vitroの生物検定系で調べた結果,0.2nMの濃度からエクジステロイドの合成を抑制する活性がみられ,濃度依存的にその活性は上昇し,10nMで活性は最大となった.この結果は天然Pej-SGP-IVの生物検定の結果とよく一致していた.

 以上,本研究では.クルマエビのCHH族ペプチドの遺伝子の構造およびそれらの発現状況を明らかにするとともに,大腸菌発現系を用いて活性を有する組み換え脱皮抑制ホルモンの大量生産系の確立に世界に先駆けて成功した.これらの成果は,今後の甲殻類の内分泌学および水産増養殖の発展に大きく貢献するものである.よって,審査委員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた.

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