学位論文要旨



No 115270
著者(漢字) 林,雅人
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,マサト
標題(和) 北太平洋における植物プランクトン群集動態およびその消費過程に関する研究
標題(洋)
報告番号 115270
報告番号 甲15270
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2115号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 助教授 福代,康夫
 東京大学 教授 川口,弘一
 東京大学 教授 寺崎,誠
 東京大学 助教授 西田,周平
内容要旨

 海洋では植食者の摂餌は、餌のサイズや種類に依存するため、植物プランクトンの群集組成は食物連鎖の構造や物質の転送効率を決める重要な要因となっている。しかし、海洋にはピコ、ナノサイズの微細な種から大型種まで多様な植物プランクトンが出現し、このうち微細藻類には顕微鏡による同定や計数が困難な種が多い。このため、これらを含めた群集組成に関する知見は乏しく、これが各海域の生態系解析の障害となっている。そこで本研究では、北太平洋亜熱帯域以北の海域で、形態の観察によるのではなく、植物プランクトンが分類群ごとにもつ固有の色素を定量する方法で、綱レベルの植物プランクトン群集組成の解明を試みた。

 また、クロロフィル(以下Chl)aは主に植食者の摂餌により分解されるため、海水中のChl a分解物を摂餌の指標として、植食者の摂餌過程の解明を試みた。しかし、常法である蛍光法ではChl a分解物はフェオ色素として一括して測定され、またChl bやChl cなどの夾雑物の影響を受けて定量性が低下することから、分解物の組成の解析ができない。そこで本研究ではChla分解物を高速液体クロマトグラフィー(HPLC)で分離、定量して、それらの組成と空間分布を明らかにするとともに、Chl a分解物の生成過程と植食者の摂餌の関係を実験的に解析した。

1.植物プランクトン群集組成

 ビコおよびナノプランクトンが卓越する成層海域である、夏季、秋季の本州南方亜熱帯海域、夏季の北太平洋亜寒帯海域、春季および夏季の東シナ海を研究対象海域とした。各海域から採集した懸濁粒子中の各分類群に特有の植物色素をHPLCで定量し、これをもとに綱レベルの現存量、すなわち珪藻類、ハプト藻類、ペラゴ藻類、緑藻類(プラシノ藻類を含む)、クリプト藻類、渦鞭毛藻類、ラン藻類、原核緑藻類のChl a量を見積もった。

 夏季の本州南方亜熱帯海域は水柱の成層が発達し、表層の硝酸塩は枯渇していた。水深75〜100mに顕著な硝酸塩躍層が存在し、この躍層に沿って亜表層Chl a極大層が形成されていた。植物プランクトン群集組成は水平的にはほぼ一様であったが、鉛直的な変化が顕著で、硝酸塩躍層を境に異なる群集が層状に分布する2層構造を示した。すなわち、表層はラン藻類および原核緑藻類が全Chl a量の平均55%を占める原核藻類主体の群集、亜表層は、ペラゴ藻類、原核緑藻類、ハプト藻類、緑藻類からなる真核藻類主体の群集であった。珪藻類の寄与は表層、亜表層ともに低かった。このような、植物プランクトン群集の2層構造は秋季においても認められ、成層期を通した特徴であることが示唆された。

 亜寒帯海域は上記海域に比べると水柱の成層が弱く、植物プランクトン群集組成の鉛直的な変化は小さかったが、水平方向の変化が認められた。当該海域では北西から南東に向かい、表面水温の上昇、硝酸塩濃度の低下、Chl a濃度の低下が認められ、植物プランクトン群集は表面水温13℃の等水温線を境に異なる2群集が分布した。北西群集は西部循環域およびベーリング海に分布し、珪藻類、ハプト藻類、ペラゴ藻類および緑藻類から構成されていた。一方、南東群集は、アラスカ湾およびアリューシャン南方海域に分布し、北西群集に比べ、珪藻類の寄与が低く、ハプト藻類、ペラゴ藻類、緑藻類から主に構成されていた。従来、北太平洋亜寒帯海域の植物プランクトン群集は珪藻が主体であると考えられていたが、ハプト藻類、ペラゴ藻類、緑藻類が全域に普遍的に分布し、これに加え南東から北西に向かい増加する珪藻類により構成されることが明らかとなった。

 夏季の東シナ海は発達した成層と表層の硝酸塩の枯渇で特徴づけられ、植物プランクトン群集は、亜熱帯海域同様に陸棚および沖合ともに硝酸塩躍層を境にした2層構造を示した。表層群集は原核藻類主体で構成され、亜表層群集は原核緑藻類、ペラゴ藻類、珪藻類、ハプト藻類から構成された。しかしながら、本州南方亜熱帯海域に比べると、亜表層における珪藻類の寄与が高い傾向が認められた。これは、有光層以深の硝酸塩濃度が本州南方亜熱帯海域に比べ東シナ海で高いことから、有光層底部への下層からの硝酸塩の供給速度が早いためと考えられた。長江河口付近では、長江からの硝酸塩供給に対応した珪藻類主体の濃密群集が形成され、栄養塩供給に依存した珪藻類の消長が認められた。

 春季の東シナ海は、高水温で貧栄養な沖合水塊と低水温で高硝酸塩の陸棚水塊が存在し、これと対応し、異なる植物プランクトン群集が陸棚縁辺部を境に分布した。陸棚上の植物プランクトンは、珪藻類主体であり、これに緑藻類、ハプト藻類、ペラゴ藻類が次ぐ群集で構成されていた。沖合域の植物プランクトン群集はペラゴ藻類、緑藻類、ハプト藻類、珪藻類、原核緑藻類から構成されており、陸棚群集に比べ珪藻類の寄与は著しく低かった。

 以上をまとめると、成層期の北太平洋では、亜熱帯海域から亜寒帯海域にかけてハプト藻類、ペラゴ藻類、緑藻類が普遍的に出現し、全Chl a量の51±16%(平均±標準偏差)を占め、これらに加えて陸域付近や亜寒帯北西海域では珪藻類が、亜熱帯海域では原核藻類の重要性が増すことが明らかとなった。

2.Chl a分解物の分布と組成

 春季と夏季の東シナ海、および夏季の亜寒帯海域において、Chl a分解物の組成と分布を解析した。Chl a分解物として、フェオフォルビドa(以下、Phide a)、ピロフェオフォルビドa(以下Pyrophide a)およびフェオフィチンa(以下、Phytin a)が同定、定量された。さらに未同定ながら極性の異なる4種類以上のPhide a様色素およびPhytin a様色素が検出された。Chl a分解物は種類により鉛直分布様式が異なった。すなわち、有光層上部ではPhide a主体であったのに対し、有光層底部向かい、Pyrophide aおよびPhytin aの寄与が増加した。このような鉛直分布の違いは、分解物を含む粒子のサイズや密度などの性状が違うこと、すなわち各分解物が異なる生成過程を経た可能性を強く示唆した。

 このことは、植食者の変化によって、Chl a分解物の組成が変わったことからも支持された。すなわち、岩手県大槌湾では1999年5月から6月にかけて水温上昇に伴い、植食者がPseudocalanus spp.やAcartia spp.などのカイアシ類から、尾虫類や枝角類へ遷移したが、それに伴い懸濁粒子および沈降粒子中のChl a分解物組成はPyrophide aからPhide aに明瞭に変化した。

3.植食者の摂餌とChl a分解物の生成

 植食者や餌の違いが、Chl a分解物の生成におよぼす影響を解析するために摂餌実験を行った。その結果、植食者に応じて、生成されるChl a分解物の組成が異なった。すなわち、カイアシ類Neocalanus cristatusは餌の種類(珪藻Thalassiosira wessflogii、Phaeodactylum tricornutum、ハプト藻Pleurochrysis carterac、クリプト藻Chroomonas salina、緑藻Dunaliella tertiolecta各培養株)によらず常にPyrophide aを主要なChl a分解物として排出したのに対し、サルパ類、繊毛虫の摂餌ではPyrophide aは生成されなかった。サルパ類では主にPhytin aが作られたが、餌の種類によりその分解効率、生産されるChl a分解物の組成が変化した。珪藻および緑藻を餌とした場合、Chl aのほとんどは分解されず糞粒内に残り、これら藻類群に対する色素の分解効率が低いことを示した。一方、繊毛虫Euplotes sp.ではChl a分解物は検出されず、Chl aは無色の物質まで分解されていた。これは、繊毛虫の摂餌が食胞形成に伴う細胞内消化であるため、Chl aの分解が十分に進行するためと考えられる。

4.Chl a分解物を指標とした植食性カイアシ類の摂餌量の見積もり

 植食性カイアシ類がPyrophide aを主に排出することから、摂餌されたChl a量とPyrophide aとの関係を大槌湾において解析した。実験には、Pseudocalanus spp.とAcartia spp.が主体の群集を用いた。その結果、摂餌により減少したChl aの40±16%はPyrophide aとして回収された。カイアシ類の摂餌により生産された、Pyrophide aの安定性や分解速度を解析するため、25時間の明および暗分解実験を行った。その結果、Pyrophide aは、暗環境では分解されず、光分解が主要な分解要因であることが示唆された、Pyrophide aの光分解量は総受光量の指数関数として表された。

 海洋におけるPyrophide aの生産が全てカイアシ類の摂餌によると仮定すると、水中のPyrophide a量から、カイアシ類の摂餌量を見積もることができる。すなわち、カイアシ類に摂餌されたChl a量は、水柱のPyrophide aの変化量と、光分解されたPyrophide a量、沈降により表層から除去されたPyrophide a量およびその回収率で求まる。これをもとに5〜6月の大槌湾において、沈降粒子および懸濁粒子中のChl a分解物の連続観測を行い、Pyrophidea量からカイアシ類の摂餌量を見積もった。この結果、カイアシ類に摂餌されたChl a量は1.4〜11.1mgm-2day-1であり、摂餌量は植食性カイアシ類の個体数と有意な相関を示した。また、炭素:Chl a比を30と仮定し、見積もられたChl a摂餌量からカイアシ類1個体あたりの日間炭素摂餌量を見積もると0.8〜2.8gC day-1ind-1となり、この結果はPseudocalanus minutusで得られた既往知見からも支持された。

 以上まとめると、海水中のChl a分解物の組成は、植食者の組成を反映しており、異なった植食者の摂餌の指標となりうることが示唆され、特に植食性カイアシ類の摂餌では常にPyrophide aが生成されており、これを指標としたカイアシ類の摂餌量推定の新しい方法が開発された。

審査要旨

 外洋域の植物プランクトン群集組成や動態に関しては、これまでに様々な海域で研究が進み、珪藻類や渦鞭毛藻類、円石藻類、ラン藻類については多くの知見が得られた。しかし、これら以外の分類群ではほとんど不明である。これは、従来の顕微鏡観察では脆弱で固定が不可能な種が欠落するため研究対象になりにくかったためである。本研究は、検鏡によるのではなく、植物プランクトンが分類群ごとにもつ固有の色素を定量する方法で、綱レベルの植物プランクトン群集組成の解明を行なったものである。また、クロロフィル(Chl)aは主に植食者の摂餌により分解されるため、Chl a分解物を指標として植物プランクトンの消費過程を解明することが第2の目的である。本研究によって明らかになった内容は次の諸点である。

1.植物プランクトン群集組成

 夏季、秋季の本州南方亜熱帯海域、夏季の北太平洋亜寒帯海域、春季および夏季の東シナ海を研究対象海域として、各海域から採集した懸濁粒子中の植物色素を高速液体クロマトグラフィーで定量し、これをもとに綱レベルのChl a量を見積もった。

 夏季の本州南方亜熱帯海域は成層が発達した貧栄養海域特有の海洋構造を示し、硝酸塩躍層に沿って亜表層Chl a極大層が形成された。植物プランクトン群集組成は鉛直的な変化が顕著であった。すなわち、表層は原核藻類主体、亜表層は原核緑藻類とペラゴ藻類、ハプト藻類、緑藻類からなる真核藻類主体の群集であった。珪藻類の寄与は表層、亜表層ともに低かった。このような植物プランクトン群集の2層構造を秋季の当該海域および夏季の東シナ海においても認め、貧栄養海域に共通する特徴であることを明らかにした。

 亜寒帯海域では、植物プランクトン群集組成の鉛直変化は小さかったが、水平方向の変化は顕著であった。即ち、北西の西部循環域およびベーリング海には珪藻類、ハプト藻類、ペラゴ藻類および緑藻類主体の群集が、南東のアラスカ湾およびアリューシャン南方海域にはハプト藻類、ペラゴ藻類、緑藻類主体の群集が分布し、この水平分布の違いを増殖律速要因としての鉄供給量の差異から説明した。

 東シナ海での結果も含めると、北太平洋では亜熱帯海域から亜寒帯海域にわたりハプト藻類、ペラゴ藻類、緑藻類が普遍的に出現し、これらの分類群が平均で全Chl a量の51%を占めることが明らかになった。また、これらの分類群に加えて原核緑藻類およびラン藻類が亜熱帯海域で、陸域周辺など栄養塩供給の豊富な海域では珪藻類が相対的に重要であることを明らかにした。

2.Chl a分解物の分布と組成

 Chl a分解物として、フェオフォルビドa(Phide a)、ピロフェオフォルビドa(Pyrophide a)およびフェオフィチンaを同定・定量した。東シナ海および北太平洋亜寒帯域にわたる調査から、Chl a分解物が種類により空間分布様式が異なること、水中粒子のサイズや密度などの性状に応じて含まれる分解物が一様ではないことを見いだした。さらに、岩手県大槌湾では5月から6月にかけての水温上昇期に、植食者がカイアシ類から、尾虫類や枝角類へ遷移し、それに伴い懸濁粒子および沈降粒子中の主要Chl a分解物がPyrophide aからPhide aに明瞭に変化することを認め、植食者によって生成する分解物が異なることを明らかにした。さらに、北太平洋に卓越する植物プランクトン分類群の培養株を用いた実験的解析により、餌の種類が異なると生成されるChl a分解物の組成が変化することを明らかにした。

3.Pyrophide aを指標とした植食性カイアシ類の摂餌量の見積り

 飼育実験の結果Pyrophide aがカイアシ類の摂餌の指標となることが明らかになったので、水中のPyrophide aの収支からカイアシ類の摂餌速度を推定する手法を開発した。5月の大槌湾群集を使った検討の結果、Pyrophide aの収支から見積もった摂餌速度は、従来法による結果と良く一致し、簡便さと再現性の高さから今後有望な方法であると認められた。新手法を北太平洋各海域に適用して、カイアシ類の摂餌圧を推定し,それをもとに微生物食物連鎖の重要性を指摘した。

 以上、本論文は植物プランクトン色素を北太平洋の広範な海域で定量し、それをもとに従来不明であった真核藻類の地理分布や生物量を綱レベルで明かにしたものである。また、これらの藻類が植食者により消費される過程をChl a分解物を指標として精細に明らかにし、カイアシ類について摂餌速度推定手法を開発した。本研究は植物プランクトン群集の動態解明に植物色素とその分解物が有効であることを示し、上記の新知見を得たもので、学術的価値の極めて高いものと考えられた。よって、本論文は博士(農学)の学位論文として価値あるものと審査委員一同認めた。

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