西部熱帯太平洋海域は、カツオ・マグロ類やウナギが産卵し、初期生活史を送る海域として重要な海域であるにも拘わらず、その生物海洋学的知見の極めて限られた海域である。本研究は、この点に注目して本海域の低次生産の構造とくに有光層内の動物プランクトン・マイクロネクトンの分布と食物網の鉛直構造およびその物質鉛直輸送に果たす役割について明らかにしたもので、その概要は以下の通りである。 第1章で既知見の総括をした後、第2章において西部熱帯・亜熱帯太平洋におけるマイクロネクトンの水平分布について記述している。北緯9度以南の北赤道反流域の生物量が、それ以北の北赤道海流城に比べて有意に高いこと、東経130度以西では南北の違いは小さいことを示している。中層性マイクロネクトン生物量の水平分布は、その餌となる動物プランクトンの生物量と対応していた。マイクロネクトンの群集組成は、夜間に中層から上昇してくるハダカイワシ科魚類などの日周鉛直移動者によって構成されていた。中でもハダカイワシ科魚類が総マイクロネクトン生物量の70%以上を占めること、その他ではイカ類・エビ類・オキアミ類が出現することを示した。 第3章では、西部熱帯太平洋有光層内の動物プランクトン・マイクロネクトン食物網の鉛直構造と低次生産過程の関係を明らかにしている。マイクロネクトンの鉛直分布と食性を調べ、環境中の動物プランクトン組成と比較している。夜間のマイクロネクトン生物量は水温躍層の上部にあたる80-120m層で最も大きく、有光層内の総生物量の50-65%以上がこの層に分布していた。マイクロネクトンのうち、オキアミ類は懸濁物食性を示し、それ以外の動物群はいずれも甲殻類プランクトンを主な餌にしていた。餌生物である動物プランクトンの生物量の鉛直分布には強い極大は見られなかった。さらに北赤道反流域の低次生産過程と食物網の構造を、有光層内のクロロフィル量、基礎生産量、細菌数および動物プランクトン組成の鉛直分布の関係から調べ、クロロフィルは水温躍層上部に当たる水深100m付近に極大を示すこと、基礎生産量は表層混合層内で高いこと、水温躍層内の動物プランクトンには混合層内に比べてユーキータ科などのカイアシ類やヤムシ類などの肉食性の動物プランクトンの割合が少なくなる傾向のあることを示した。マイクロネクトンが水温躍層上部に生物量の極大を持つことと合わせ、水温躍層内では、動物プランクトンの捕食者としてのマイクロネクトンの重要性が混合層におけるよりも大きいことを明らかにしている。 第4章では、マイクロネクトンの中で最も優占したハダカイワシ科魚類の摂餌選択性と感覚器官の関係を記述している。 第5章では、有光層からの物質の鉛直輸送におけるマイクロネクトンの役割について述べている。北赤道反流域の2測点間でのセディメントトラップによる沈降粒子の採集、2測点でのネットを用いた動物プランクトンおよびマイクロネクトンの昼夜採集を行い、沈降粒子、日周鉛直移動性動物プランクトンおよびマイクロネクトンによる有光層から中層への有機物の輪送過程を定量的に評価した。有光層内の有機炭素は、沈降粒子によって54.8mg C m-2day-1、動物プランクトンの鉛直移動による過程によって2つの測点で15.96および10.87mg C m-2day-1の速度で中層へ輸送されていると推定している。さらにマイクロネクトンの鉛直移動による有機炭素の輸送速度は、31.42および16.13mg C m-2day-1と推定され、これは沈降粒子による輸送量の57.4%および29.4%に相当すると結論している。また有光層と中層の食物網をつなぐものとしてハダカイワシ科魚類の排泄物の栄養価に注目し、そのアミノ酸組成および脂肪酸組成を分析し、これらの排泄物は中層生物のアミノ酸源・脂肪酸源になりうるものと結論している。特に脂肪酸については中層における沈降粒子についての既報値よりも高濃度の高度不飽和脂肪酸を含んでおり、優れた脂肪酸源であることを明らかにした。 以上本論文は、西部熱帯太平洋海域の低次生産過程を生物海洋学的見地から明らかにしたものである。これらの基礎知見は、カツオ・マグロ類、ウナギ等の有用魚の産卵場および初期生活場としての当海域の特性を明らかにしただけでなく、近年注目されている温暖化気体としての炭酸ガスの海洋による取り込みに密接に関係する生物の日周鉛直移動による深海への炭素輸送"生物ポンプ"という未知の過程の重要性を指摘した点でも高く評価される。よってこれらの成果は学術上、応用上十分価値のあるものと認め、審査委員一同は申請者が博士(農学)に値するものと判断した。 |