学位論文要旨



No 115271
著者(漢字) 日高,清隆
著者(英字)
著者(カナ) ヒダカ,キヨタカ
標題(和) 西部熱帯太平洋有光層内の動物プランクトン・マイクロネクトン食物網の構造と機能に関する研究
標題(洋)
報告番号 115271
報告番号 甲15271
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2116号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川口,弘一
 東京大学 教授 渡邊,良朗
 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 助教授 中田,英昭
 東京大学 助教授 西田,周平
内容要旨

 世界の大洋の外洋域には、マイクロネクトンと総称されるハダカイワシ科の魚類や小型のイカ類、あるいは小型のエビ類などが普遍的に分布している。これらの動物群はその生物量も多く、外洋生態系において動物プランクトンの捕食者、大型のネクトンの餌生物として重要な役割を果たしているにもかかわらず、採集に設備と労力を要すること、直接漁業の対象になっていないなどの理由により、その生態に関する知見が非常に限られている。その結果、外洋生態系の構造や機能を理解する上でマイクロネクトンが関与する部分の多くがブラックボックスとなっている。1980年代以降の生物海洋学においては、炭素循環や資源生物の動態の解明といった枠組に沿った知見の蓄積が進んでおり、マイクロネクトンに関する基礎的な生物学的、生態学的知見の充実とともに、他の海洋生物、あるいは海洋学的過程との関わりを明らかにすることは緊急の課題である。

 本研究では、西部熱帯太平洋を研究海域とし、その有光層内における、マイクロネクトンの水平分布と群集組成を明らかにした。また、マイクロネクトン・動物プランクトン食物網の鉛直構造とそれを支える低次生産過程の関係、マイクロネクトンの中で優占したハダカイワシ科魚類の摂餌選択性と感覚器官の関係をそれぞれ議論し、有光層から中層への物質の鉛直輸送(生物ポンプ)におけるマイクロネクトンの役割を明らかにした。本研究の概要は以下の通りである。

1.西部熱帯・亜熱帯太平洋におけるマイクロネクトンの水平分布と群集組成

 北緯3度から30度、東経125度から160度の海域で中層トロールにより総計121回の採集を行った。1994年の40-60m層および80-100m層の採集調査により、80-120m層のハダカイワシ科魚類、40-60m層と80-100m層のイカ類の生物量に顕著な南北差が見られ、北緯9度以南の北赤道反流域の生物量が、それ以北の北赤道海流域に比べて有意に高かった。1998年の調査でも、同様に生物量は北赤道反流域で高くなる傾向を示したが、東経130度以西では南北の違いは小さかった。マイクロネクトン生物量の水平分布の傾向は、餌生物である動物プランクトンの生物量を反映していた。夜間採集では常に1時間曳網あたり7kgを超えたのに対し、昼間の観測では一部の測点を除いて採集量は1kg以下だった。夜間は常にハダカイワシ科魚類が総マイクロネクトン生物量の70%以上を占め、その他イカ類・エビ類・オキアミ類が出現した。昼間採集量が多かった測点ではカタクチイワシ類やサルパ類などの単一の動物群が生物量の95%以上を占め、しかもその動物群は測点間で異なっていたことから、調査海域の基本的なマイクロネクトン相は、昼間は生物量が少なくパッチ状分布を示す表層性の非日周鉛直移動者、夜間はそれらより2桁ほど生物量の大きいハダカイワシ科魚類などの日周鉛直移動者によって構成されていることが明らかとなった。ハダカイワシ科魚類は11属42種が出現し、そのうち優占したのはCeratoscoperus warmingii、Diaphus splendidusおよびDiaphus fragilisであった。イカ類では18属34種が出現し、Abralia trigonuraおよびAbraliopsis lineataが優占した。このうち、新種1種を合むAbralia属5種について記載を行った。エビ類では10属27が出現し、Oplophorus typusおよびJanicella spinicaudaが優占した。オキアミ類では2属6種が出現し、Thysanopoda tricuspidataが優占した。クラスター解析の結果、ハダカイワシ類・イカ類・エビ類について、北緯20度付近の亜熱帯収束線の南北に異なる群集が分布していることが示唆された。

2.マイクロネクトン・動物プランクトン食物網の鉛直構造と低次生産過程

 マイクロネクトン・動物プランクトン食物網:北赤道反流域の3測点で中層トロールによる有光層内(0-160m)の昼夜各層採集を行い、マイクロネクトンの生物量・種組成を調べた。さらに、夜間有光層内に浮上出現したマイクロネクトンの主要種(ハダカイワシ科魚類5種、オキアミ類・イカ類・エビ類各1種)の胃内容物組成と、深度別に採集した現場環境中の動物プランクトン組成との比較を行った。夜間のマイクロネクトン生物量は水温躍層の上部にあたる80-120mで最も大きく、有光層内の総生物量の50-65%以上がこの層に分布していた。マイクロネクトンのうち、オキアミ類は懸濁物食性を示し、それ以外の動物群はいずれも甲殻類プランクトンを主な餌にしていた。ハダカイワシ科魚類についてはオキアミ類やカイアシ類を中心とした体長2mm以上の甲殻類を主に捕食していた。マイクロネクトン生物量が80-120m層で極大を示したのに対し、餌生物である動物プランクトンの鉛直分布にはそれと一致する傾向は見られず、夜間の有光層内におけるマイクロネクトンの鉛直分布様式を餌生物の分布から説明することはできなかった。昼間、有光層内に存在するマイクロネクトンの生物量の鉛直分布の極大は各測点で異なり、一貫した傾向はなかった。

 低次生産過程と食物網の構造:北赤道反流域において、有光層内のクロロフィル量、基礎生産量および動物プランクトン組成の鉛直分布の関係を調査した。クロロフィルは水温躍層上部に当たる水深100m付近に極大を示し、基礎生産量はそれよりも浅い混合層内(0-100m)で高かった。動物プランクトンについては、水温躍層内では混合層内に比べてカイアシ類のEuchaetidae、Candaciidaeやヤムシ類などの肉食性の動物プランクトンの割合が少なくなる傾向を示した。マイクロネクトン類が水温躍層上部に生物量のピークを持つことと合わせ、水温躍層内では、動物プランクトンの捕食者としてのマイクロネクトンの重要性が混合層におけるよりも大きいことが示唆された。

3.ハダカイワシ科魚類の摂餌選択性と感覚器官の関係

 マイクロネクトンの中で最も優占したハダカイワシ科魚類のうち、採集層および食性が異なる4種(Symbolophorus evermanni(0-40m層),Lampanyctus nobilis(0-40m層),Diaphus jenseni(80-120m層),Ceratoscoperus warmingii(80-120m層))について、眼および頭部側線管系の解析を行い、餌生物に対するサイズ選択性との関連を検討した。眼については視神経細胞の密度分布および眼の解像度を形態学的に求めた。採集深度が同じ種間で比較した場合、大型の餌に対する選択性が強い種(L.nobilis・C.warmingii)の方が眼の解像度は高く、眼の解像度の低いS.evermanniとD.jenseniは小型の餌を多く捕食していた。つまり、眼の解像度が高いからといって小さな餌をとるわけではなく、眼の解像度と餌サイズは無関係であり、運動能力などの他の要因が重要であると考えられた。頭部側線管系については、外部形態および感覚器官である感丘の数と位置を観察した。頭部側線管系はいずれの種においてもよく発達し、上側頭管・後耳管・耳管・眼上管・眼下管・前鰓蓋管・下顎管を備えていた。側線管内の感丘の数では、C.warmingiiが眼下管・下顎管・前鰓外管について他種より3-5個多く、それ以外の種間の違いは小さかった。C.warmingiiは80-120m層で大型の餌生物に強い摂餌選択性を示しており、他種に比べて感覚器官数が多いことは、その摂餌生態に役立っているものと考えられた。

4.物質の鉛直輸送にはたすマイクロネクトンの役割

 有機炭素の鉛直輸送:調査海域内での2測点間でのセディメントトラップによる沈降粒子の採集、2測点でのネットを用いた動物プランクトンおよびマイクロネクトンの昼夜採集を行い、沈降粒子、日周鉛直移動性動物プランクトンおよびマイクロネクトンによる有光層から中層への有機物の輸送過程を定量的に評価した。動物プランクトンについては採集物のサイズ分布と既存の経験式を元に、日周鉛直移動者の中層での呼吸量と死亡率を求めた。マイクロネクトンについては、各動物群について既存の経験式から中層での呼吸量を求め、消化管内容物として運ばれる量についてはハダカイワシ科魚類の消化管内容物量から単位生物量あたりの輸送量を求めた。またこの値を他の全マイクロネクトンにも適用し、全マイクロネクトンによる輸送量を見積もった。有光層内の有機炭素は、沈降粒子によって54.8mg C m-2day-1、動物プランクトンの鉛直移動による過程によって2つの測点で15.96および10.87mg C m-2day-1の速度で中層へ輸送されていると計算された。さらにマイクロネクトンの鉛直移動による有機炭素の輸送速度は2測点で4.19および2.12mg C m-2day-1と推定されたが、中層トロールによるマイクロネクトンの採集効率を考慮すると推定値は31.42および16.13mg C m-2day-1となり、沈降粒子による輸送量の57.4%および29.4%に相当することになった。従って、マイクロネクトンの日周鉛直移動は調査海域の有光層からの有機炭素の鉛直輸送において重要な過程の1つであることが明らかになった。そのうち消化管内容物として運ばれる量の推定値は、呼吸によって排出される量より1桁小さく、量的な寄与は小さかった。

 ハダカイワシ排泄物の栄養価:有光層と中層の食物網をつなぐものとしてハダカイワシ科魚類の排泄物に注目し、そのアミノ酸組成および脂肪酸組成を分析し餌料としての価値を評価した。ハダカイワシ科魚類の排泄物中、アミノ酸は全有機炭素の36.7-42.0%を占め、アスパラギン酸・スレオニン・セリン・グルタミン酸・グリシン・アラニン・ロイシンおよびリジンが主要成分だった。脂肪酸は全有機炭素の11.5-13.6%を占め、16:0、18:0、18:1、20:5、22:6が主要な脂肪酸だった。これらのアミノ酸・脂肪酸には海洋生物の必須成分が充分濃度含まれており、ハダカイワシ科魚類の排泄物は中層生物のアミノ酸源・脂肪酸源になりうるものと考えられた。特に脂肪酸については、中層における沈降粒子についての既報値よりも高濃度の高度不飽和脂肪酸を含んでおり、優れた脂肪酸源であると考えられた。

審査要旨

 西部熱帯太平洋海域は、カツオ・マグロ類やウナギが産卵し、初期生活史を送る海域として重要な海域であるにも拘わらず、その生物海洋学的知見の極めて限られた海域である。本研究は、この点に注目して本海域の低次生産の構造とくに有光層内の動物プランクトン・マイクロネクトンの分布と食物網の鉛直構造およびその物質鉛直輸送に果たす役割について明らかにしたもので、その概要は以下の通りである。

 第1章で既知見の総括をした後、第2章において西部熱帯・亜熱帯太平洋におけるマイクロネクトンの水平分布について記述している。北緯9度以南の北赤道反流域の生物量が、それ以北の北赤道海流城に比べて有意に高いこと、東経130度以西では南北の違いは小さいことを示している。中層性マイクロネクトン生物量の水平分布は、その餌となる動物プランクトンの生物量と対応していた。マイクロネクトンの群集組成は、夜間に中層から上昇してくるハダカイワシ科魚類などの日周鉛直移動者によって構成されていた。中でもハダカイワシ科魚類が総マイクロネクトン生物量の70%以上を占めること、その他ではイカ類・エビ類・オキアミ類が出現することを示した。

 第3章では、西部熱帯太平洋有光層内の動物プランクトン・マイクロネクトン食物網の鉛直構造と低次生産過程の関係を明らかにしている。マイクロネクトンの鉛直分布と食性を調べ、環境中の動物プランクトン組成と比較している。夜間のマイクロネクトン生物量は水温躍層の上部にあたる80-120m層で最も大きく、有光層内の総生物量の50-65%以上がこの層に分布していた。マイクロネクトンのうち、オキアミ類は懸濁物食性を示し、それ以外の動物群はいずれも甲殻類プランクトンを主な餌にしていた。餌生物である動物プランクトンの生物量の鉛直分布には強い極大は見られなかった。さらに北赤道反流域の低次生産過程と食物網の構造を、有光層内のクロロフィル量、基礎生産量、細菌数および動物プランクトン組成の鉛直分布の関係から調べ、クロロフィルは水温躍層上部に当たる水深100m付近に極大を示すこと、基礎生産量は表層混合層内で高いこと、水温躍層内の動物プランクトンには混合層内に比べてユーキータ科などのカイアシ類やヤムシ類などの肉食性の動物プランクトンの割合が少なくなる傾向のあることを示した。マイクロネクトンが水温躍層上部に生物量の極大を持つことと合わせ、水温躍層内では、動物プランクトンの捕食者としてのマイクロネクトンの重要性が混合層におけるよりも大きいことを明らかにしている。

 第4章では、マイクロネクトンの中で最も優占したハダカイワシ科魚類の摂餌選択性と感覚器官の関係を記述している。

 第5章では、有光層からの物質の鉛直輸送におけるマイクロネクトンの役割について述べている。北赤道反流域の2測点間でのセディメントトラップによる沈降粒子の採集、2測点でのネットを用いた動物プランクトンおよびマイクロネクトンの昼夜採集を行い、沈降粒子、日周鉛直移動性動物プランクトンおよびマイクロネクトンによる有光層から中層への有機物の輪送過程を定量的に評価した。有光層内の有機炭素は、沈降粒子によって54.8mg C m-2day-1、動物プランクトンの鉛直移動による過程によって2つの測点で15.96および10.87mg C m-2day-1の速度で中層へ輸送されていると推定している。さらにマイクロネクトンの鉛直移動による有機炭素の輸送速度は、31.42および16.13mg C m-2day-1と推定され、これは沈降粒子による輸送量の57.4%および29.4%に相当すると結論している。また有光層と中層の食物網をつなぐものとしてハダカイワシ科魚類の排泄物の栄養価に注目し、そのアミノ酸組成および脂肪酸組成を分析し、これらの排泄物は中層生物のアミノ酸源・脂肪酸源になりうるものと結論している。特に脂肪酸については中層における沈降粒子についての既報値よりも高濃度の高度不飽和脂肪酸を含んでおり、優れた脂肪酸源であることを明らかにした。

 以上本論文は、西部熱帯太平洋海域の低次生産過程を生物海洋学的見地から明らかにしたものである。これらの基礎知見は、カツオ・マグロ類、ウナギ等の有用魚の産卵場および初期生活場としての当海域の特性を明らかにしただけでなく、近年注目されている温暖化気体としての炭酸ガスの海洋による取り込みに密接に関係する生物の日周鉛直移動による深海への炭素輸送"生物ポンプ"という未知の過程の重要性を指摘した点でも高く評価される。よってこれらの成果は学術上、応用上十分価値のあるものと認め、審査委員一同は申請者が博士(農学)に値するものと判断した。

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