内容要旨 | | 渦鞭毛藻類には遊泳性の植物性プランクトンとして日周鉛直移動を行う種が多く,昼は光エネルギーを求めて表層へ遊泳して光合成を行い,夜は下層へ遊泳して栄養物質を取り込むと考えられている.また,遊泳によって生じる細胞表層の水流は細胞内外の物質交換を加速するなど,遊泳は渦鞭毛藻類の生態において重要な役割を担っている.では,遊泳のために消費されるエネルギーはその利益に見合うのだろうか.これまで渦鞭毛藻類の遊泳速度や個体群レベルでの移動の様態についての研究は行われてきたが,遊泳運動のコストを評価するために必要な細胞個々の遊泳のメカニズムに関する知見は乏しい.渦鞭毛藻類は縦鞭毛及び横鞭毛の二種類の鞭毛で遊泳するが,遊泳運動を生じるメカニズムは鞭毛の起こす水流の定性的な観察から推察されているのみであり,各鞭毛が遊泳においてどのような働きをしているかは不明である.そこで以下の三点を目的として本研究を行った.第一に渦鞭毛藻類の遊泳と鞭毛運動を観察し,それに基づいて鞭毛運動を数式で表現したモデルを作成すること,第二に流体力学から鞭毛の生じる推進力を定量化し,遊泳のメカニズムを明らかにすること,第三に弾性体の力学に基づいて鞭毛の変形に必要なエネルギーを求め,各鞭毛が遊泳のために消費するエネルギーを細胞レベルで明らかにし,日周鉛直移動の意義をエネルギー収支から解明することである. 1.遊泳運動と鞭毛運動の観察 鞭毛運動の定量化には遊泳運動と鞭毛運動の詳細な記述が必要である.しかしこれまでの研究では渦鞭毛藻類の鞭毛の周波数を測定した例は少なく,特に横鞭毛については全くない.この理由として,鞭毛運動の周波数が数十Hzであるのに対し,肉眼や,毎秒30フレームのノーマルビデオによる観察では時間分解能が不十分であったこと,また横鞭毛が横溝の中の細胞表面付近で運動している種が観察対象とされてきたため,明瞭な横鞭毛像を得られなかったことがあげられる.本研究ではこれらの問題点を克服するために,横溝を持たない渦鞭毛藻Prorocentrum minimum(Pavillard)Schillerを対象生物に選び,その遊泳,及び鞭毛運動を約20度の室温で倒立顕微鏡と高速度撮影ビデオカメラを用いて毎秒250フレームで撮影・観察した. 得られた画像上の細胞の位置と鞭毛上の点をフレームごとにプロットし,以下の観察結果,及び測定値±標準偏差(n=標本数)を得た.P.minimumは,螺旋型の遊泳軌跡に沿って毎秒107±55m(n=7)で遊泳し,1.1±0.2Hz(n=7)で自転していた.細胞の自転と螺旋型の遊泳軌跡の周期が一致していたため,常に細胞の同じ面が螺旋型の遊泳軌跡の軸に向けられていた.縦鞭毛は振幅1.3±0.2m(n=6),波長12.2±0.8m(n=6),周波数66±9.4Hz(n=6),波数1.3±0.1(n=6)の正弦波様の平面波を,細胞の前後軸に対して0.92±0.5rad(n=6)傾いた線に沿って細胞の前端から後方へ,即ち鞭毛基部から先端へ伝播させていた.横鞭毛は,細胞の前端を環状に取り巻き,振幅1.1±0.1m(n=8),波長6.5±0.5m(n=5),周波数36±15Hz(n=7),波数4.4±0.9(n=9)の螺旋型の波動を鞭毛基部から先端に向かって伝播させていた.横鞭毛の波形は波長の異なる二種類の螺旋を半波長ずつ交互につなぎ合わせた不均一な形の螺旋波であった.二種類の螺旋は細胞の前後軸に近い側と遠い側とで交代し,軸から離れた側の半波長が一波長に占める割合は0.33±0.05(n=7)であった. 細胞は時折,螺旋型の遊泳を中断して方向転換を行った.この時,横鞭毛の運動は停止し,縦鞭毛は繊毛の回復打と類似した運動によって細胞前端から前方にのばされた後,正弦波様の運動を行った.その後横鞭毛が通常遊泳と同じ鞭毛運動を再開すると,縦鞭毛は波動運動をしながら通常遊泳と同じ位置に戻り,新たな方向へと通常遊泳が再開された. 2.鞭毛運動のモデル 観察をもとにP.minimumの鞭毛運動をモデル化した.細胞は実際に観察された細胞と同体積の球とし,縦鞭毛は細胞の前後軸から傾いた軸に沿って進行する正弦波とした.また横鞭毛は,細胞前端を取り巻く円周上を進行する,二種類の螺旋波を半波長ずつ交互につなぎ合わせた螺旋波とした.これに前節で得た測定値を適用し,二本の鞭毛が生じる粘性力,及びモーメントがそれそれ細胞の遊泳,及び自転運動による粘性抵抗と釣り合っているとの条件のもとで細胞の遊泳と自転の速度を得た.細胞と鞭毛に働く慣性力,重力,及び浮力は,細胞運動のレイノルズ数が10-2以下であること,また生物と流体の比重の差が0.05と小さいことから無視した. 計算の結果,モデル細胞は遊泳速度毎秒129m,及び自転周波数1.4Hzを示し,観察された細胞の遊泳運動とよく一致した.再現性の良いモデルを得るためには,流れ場における細胞表面の粘着条件と横鞭毛上の鞭毛小毛を考慮することが不可欠であり,これらがP.minimumの遊泳に対して重要な働きをしていることが明らかになった.シミュレーションの結果,両鞭毛は異なる機能を持つこと,即ち,横鞭毛は細胞の遊泳を起こす推進力の96%と自転を起こすモーメントの100%を生じる推進機関の役割を,一方,縦鞭毛は細胞の推進力への寄与は小さいが,細胞の遊泳軌跡を螺旋型にし,遊泳方向を変える時に働く舵の役割を果たしていることが明らかになった.鞭毛運動から細胞の遊泳と自転運動への力学的転換効率は3.5%であった. 3.鞭毛を駆動するエネルギーの見積もり 前節のモデルは細胞運動の再現には十分であり,かつモデル計算に必要なデータの取得が容易であったが,二次微分が不可能であるため,鞭毛の駆動エネルギーを見積もることができなかった.そこで横鞭毛の波形を三角関数の重ね合わせで記述するモデルを新たに作成した.ビデオ撮影により得られるのは,本来三次元波動である横鞭毛を顕微鏡の焦点面に投影した二次元像であるため,従来の平面的な鞭毛運動に用いられる解析法では波動成分を抽出することができない.そこで最小二乗法により三次元座標をフレームごとに推定し,得られた鞭毛波動に対しフーリエ解析を行うことで波動の各周波成分を求め,第二ハーモニクスまでの値を用いて横鞭毛を表現した.縦鞭毛と細胞については前節と同様の式を用いた.このモデルから,鞭毛の生じる推進力及びモーメントがそれぞれ細胞の遊泳と自転による粘性抵抗と釣り合う条件のもとで細胞の遊泳と自転の速度を得た.ここでも前節と同様に細胞表面の粘着条件,及び横鞭毛上の鞭毛小毛を考慮して解析を行った. その結果,遊泳速度は毎秒109m,自転周波数は2.3Hzを示し,自転周波数が若干高く見積もられるものの,観察された遊泳運動が再現された.鞭毛運動から細胞の遊泳と自転運動への力学的転換効率は1.9%であった.この時,流体の粘性に対する横鞭毛及び縦鞭毛の仕事率はそれぞれ6.9x10-14W,1.3x10-14Wであった.また両鞭毛の変形に必要な仕事率はそれぞれ4.7x10-12W,1.3x10-13Wであった.鞭毛運動に必要なエネルギーはこれらの和で与えられ,横鞭毛,及び縦鞭毛についてそれぞれ4.7x10-12W,1.4x10-13Wであった. 得られたモデルをもとにP.minimumの日周鉛直運動に必要なエネルギーを推定した.メソコスムを用いた実験では,P.minimumは一日に1.5mの深度を往復する能力があるとされている.P.minimumが往復3mの日周鉛直移動を行なうためには,毎秒100mで8.3時間の遊泳を要し,従って鞭毛を駆動するために1.5xl0-7Jのエネルギーが消費される.一方で,文献値をもとに飽和光量下におけるP.minimumの最大光合成速度から計算すると,一細胞のP.minimumが一日に行う総光合成量は1.4x10-6Jのエネルギーに相当する.従ってP.minimumの日周鉛直移動によるコストは日間総光合成量の11%程度に相当する.以上のエネルギー収支と,遊泳によって細胞内外の物質交換が促進されることから考えて,鉛直移動能力を持つことは生態学的に有利であるということが示唆された.また,珪藻類など他の植物プランクトンでは総光合成量に対する呼吸のロスが10%程度であるのに対し,渦鞭毛藻類のそれは30〜50%であることが知られている.これまでその差は遊泳によるエネルギー消費で説明されてきた.今回の結果はその差の約半分を説明するものであり,本種では日周鉛直移動以外にも代謝によるエネルギー消費を高くしている要因があることが示唆された. |