学位論文要旨



No 115273
著者(漢字) 棟方,有宗
著者(英字)
著者(カナ) ムナカタ,アリムネ
標題(和) サケ科魚類の回遊行動における性ホルモンの役割
標題(洋)
報告番号 115273
報告番号 甲15273
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2118号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 会田,勝美
 東京大学 教授 塚本,勝己
 東京大学 助教授 青木,一郎
 東京大学 助教授 小林,牧人
 東京大学 助教授 鈴木,譲
内容要旨

 サケ科魚類は一般に河川上流域で孵化し、銀化変態を行ったのち海洋へと降河する。しかし、サクラマス(Oncorhynchus masou)では雄の一部は生後1年で成熟し(早熟)、これらは銀化変態や降河行動をせず、そのまま河川生活を続けて秋に繁殖に参加することが知られている。一方、海洋に降りた銀化魚はその後一定期間索餌行動を行いながら成長を続け、性成熟が開始されると回帰行動を開始し、母川を遡上したのち産卵を行う。このように、サケ科魚類の回遊は性質が大きく異なる降河・索餌・回帰・遡上・産卵などの行動が、生理状態に応じ、適切な順序で発現されることによって成立する。このことから、サケ科魚類にはこれらの行動の発現を制御する機構が内在することが想定されるが、この機構がどのように一連の行動を組み立てているのかについては明らかにされていない。本研究では、早熟雄が降河行動をせず産卵期まで河川生活を続けること、海洋で性成熟を開始した雌雄が母川を遡上して産卵することから、産卵行動を含めた一連の回遊行動の発現が性成熟に伴う生理変化によって制御されているとの仮説を立て、この機構を特に性ホルモンとの関係から解明することを試みた。

第一章サクラマスおよびヒメマスの降河行動に対する性ホルモンの作用

 サクラマスの降河行動の抑制に関与する性ホルモンの種類と量を調べるため、まず性成熟に伴う血中性ホルモン量の変化をRIA法により調べた。その結果、1+年早熟雄および2+年成熟雄では血中テストステロン(T)、11-ケトテストステロン(11-KT)、17,20ジヒドロキシ-4-プレグネン-3-オン(DHP)量が、また、2+年成熟雌では血中T、エストラジオール-17(E2)、プロゲステロン、17-ヒドロキシプロゲステロン、DHP量が性成熟に伴って増加することが判明した。特にTは雌雄において降河回遊期である5月には既に増加傾向を示したことから、降河行動の抑制に関与する因子であることが示唆された。そこでTの降河行動抑制作用を調べるため、銀化魚にT500g/尾を徐放作用を有する医療用シリコンチューブを用いて投与し、上下二面の池を樋状の水路で連絡した実験水路の上面池に収容して降河行動を観察した。まず、異なる実験群間の相互作用を排除するためT500g投与群40尾と対照群40尾の降河行動を別々の水路で観察した。その結果、対照群は全実験魚が水路を降河したのに対し、T500g投与群の降河行動は有意に抑制された。また、T500g投与群22尾と対照群19尾を同じ上面池に収容して行動を観察した場合もT500g投与群の降河率(31.8%)は銀化魚の降河率(89.5%)よりも低くなった。次に、降河行動に及ぼすT投与量の影響を調べるため、銀化魚にT5g、T50g、またはT500gを投与し、対照群および早熟雄とともに降河行動を観察した。その結果、銀化魚の降河行動はTの投与量に依存して抑制された。早熟雄は降河行動を行わなかった。さらに、降河行動の抑制に他の性ホルモンが関与するか否かを調べた結果、降河行動がTの他にE2および11-KTの投与(投与量はいずれも500g/尾)によっても抑制されることが判明した。

 一方、本来河川残留型すなわち早熟個体を殆ど生じないヒメマス(O.nerka)に関しても、降河行動がTにより抑制されるか否かを調べた。その結果、T500gを投与した銀化魚の降河率が対照群よりも有意に低くなることが判明した。

第二章サクラマスおよびヒメマスの遡上行動における性ホルモンの役割

 まず、性成熟したサクラマスが実験水路内で遡上行動を行うか否かを調べるため、2+年成熟雄15尾および成熟雌15尾の遡上行動を雌雄別々に観察した。また、遡上行動に関与する性ホルモンの種類と量を調べるため、下面池収容時と遡上行動後(非遡上魚は実験終了時)の実験魚の血中性ホルモン量を測定した。遡上率は雄が100%、雌が66.6%であった。雄は実験期間中排精状態を保っていたが、血中T、11-KTおよびDHP量が下面池収容時に高く、遡上後に減少する変化を示したことから、これらのホルモンが遡上行動に関与することが示唆された。一方、雌は下面池収容時、全個体が未排卵であったが水路を遡上した個体は全て排卵していた。遡上行動を行わなかった雌は未排卵のままであった。遡上行動を行った雌の血中TおよびDHP量は遡上行動をしなかった雌よりも高かったことから、これらホルモンの遡上行動への関与が示唆された。一方、この実験水路では1+および0+年早熟雄も遡上行動を行った。これに対し同齢の未成熟魚の殆どは遡上行動を行わなかった。そこで、1+年魚の早熟雄および未成熟魚を用いて、遡上行動に及ぼす去勢、あるいは性ホルモン投与の影響を調べた。まず、早熟雄の遡上行動に及ぼす去勢およびT投与の影響を調べた。その結果、去勢群では遡上行動が見られなかったが、T500g/尾を投与した去勢群では遡上行動が誘起された。次に、去勢早熟雄の遡上行動を引き起こすための臨界血中T量を調べるため、去勢早熟雄に溶媒、T50g、T500gまたはT1000g(T500g封入チューブ2本/尾投与)を投与して行動を観察した。その結果、去勢早熟雄は遡上行動を行わなかったのに対し、Tを投与した3群では遡上行動が誘起された。しかし、T500およびT1000g投与群の血中T量は偽手術群より高かったが、遡上率は偽手術群よりも低かった。そこで、遡上行動が他の性ホルモンにより引き起こされる可能性を検討するため、去勢早熟雄4群にT、E2、11-KTまたはDHPを500g/尾ずつ投与し去勢群と遡上率を比較した。その結果、Tの他に11-KTが去勢早熟雄の遡上行動を引き起こすことが判明した。次に、未成熟魚の遡上行動がTにより引き起こされるか否かを調べたところ、T500g投与群の遡上率が対照群に比して高くなることが判明した。また、T投与量を50、500および1000gと変化させたところ、T1000g投与群が対照群よりも有意に高い遡上率を示した。さらに未成熟魚にT、E2、11-KTまたはDHPを500g/尾ずつ投与して遡上行動を観察した結果、T以外にE2および11-KT投与群の遡上率が高値を示したことから、遡上行動の発現制御には複数の性ホルモンが関与することが明らかとなった。

 一方、ヒメマスの遡上行動に関与する性ホルモンの種類と量を調べるため、中禅寺湖産及び池産ヒメマス成熟魚の遡上行動に伴う血中性ホルモン量の変化を調べた。まず、秋に産卵のため母川である菖蒲清水(本研究に用いた飼育水と同起源)の河口域に集結した排精雄および未排卵雌を捕獲し、採血したのち実験水路の下面池に収容して遡上行動を観察するとともに行動に伴う血中性ホルモン量の変化を調べた。同様に、菖蒲清水河口域で捕獲した成熟魚および池中養成した成熟魚の雌雄を採血後、中禅寺湖内に放流し、遡上行動に伴う血中性ホルモン量の変化を調べた。その結果、いずれの実験群でも雄ではT、11-KT、DHPの、雌ではT、DHPの血中量が実験期間中に高い値を示す傾向が認められた。特にT(雌雄)および11-KT(雄)は遡上前高く、遡上後に減少したことから、遡上行動への関与が考えられた。そこでヒメマス未成熟魚の遡上行動がTにより引き起こされるか否かを調べた。その結果、T500gを投与した銀化魚の遡上率が対照群よりも有意に高くなることが判明した。

第三章サクラマスの性行動における性ホルモンの役割

 サクラマス1+年魚の早熟雄あるいは未成熟雌を材料として、雌雄の性行動に及ぼす性ホルモン投与の影響を調べた。(1)雄:サケ科魚類の排精した成熟雄は、造床(ディギング)行動をする排卵した成熟雌へと泳ぎ寄り(アテンディング)、続けて身震いするように求愛(クイバリング)行動を行う。そこで、まず1+年早熟雄がこれらの性行動を2+年成熟雌に対して行うか否かを、砂利を敷き産卵環境を模した観察水槽を用いて調べたところ、早熟雄の多くは成熟雌に対してアテンディングおよびクイバリング行動を行うことが判明した。これに対し去勢早熟雄は両行動を行わなくなった。一方、去勢早熟雄にT500g/尾を投与したところアテンディングおよびクィバリング行動を行う個体が見られたことから、これらの性行動がTによって引き起こされることが示された。

 (2)雌:次に未成熟雌のディギング行動が性ホルモンにより引き起こされるか否かを調べた。まず、1+年未成熟雌にT500g、T1000gまたは溶媒のみを投与して行動を観察したところ、T1000g投与群の平均ディギング回数(9.9回/90分)がT500g投与群(5.1回/90分)および対照群(1.3回/90分)よりも多くなることが判明した。対照群にもディギング行動を行う雌が見られたことから、未成熟魚であっても産卵環境が引き金となってディギング行動が引き起こされることが示唆された。次に、未成熟雌にT、E2、11-KTまたはDHPをそれぞれ500g/尾ずつ投与して行動を観察した。その結果、ディギング行動はT以外にE2、DHP投与によっても引き起こされたことから、雌の性行動の発現制御に複数の性ホルモンが関与する可能性が示された。

 以上の結果、サケ科魚類では性ホルモンが降河行動の発現を抑制し、遡上行動とそれに続く性行動の発現を促進することが明らかとなった。このことから、性ホルモンはサケ科魚類に淡水域における生息を志向させ、産卵行動を起こさせる生理的背景を形成するホルモンと考えることができる。サケ科魚類の仔魚が淡水域でしか生存できないこと、サケ科魚類が産卵環境が保証されている母川での産卵を志向することをみると、性ホルモンによる行動制御機構は成熟魚を繁殖期に産卵場に居させるための生理的仕掛けであると考えることもできる。また本論文では触れることができなかったが、この観点から考えると遡上行動の前段階である回帰行動の引き金を引くのも性ホルモンである可能性が高い。本研究によりサケ科魚類の回遊行動と性成熟との間には密接な関係があることが判明した。今後は回遊行動を制御する中枢における性ホルモンの作用機構について解明されることが望まれる。

審査要旨

 サケ科魚類の回遊は降河・索餌・回帰・遡上・産卵などの行動が、生理状態に応じ、適切な順序で発現されることによって成立する。このことから、サケ科魚類にはこれらの行動の発現を制御する機構が内在することが想定されるが、この機構がどのように一連の行動を組み立てているのかについては明らかにされていない。本研究は、早熟雄が降河行動をせず産卵期まで河川生活を続けること、海洋で性成熟を開始した雌雄が母川を遡上して産卵することから、産卵行動を含めた一連の回遊行動の発現が性成熟に伴う生理変化によって制御されているとの仮説を立て、この機構を特に性ホルモンとの関係から解明することを試みたものである。

1.サクラマスおよびヒメマスの降河行動に対する性ホルモンの作用

 サクラマスの降河行動の抑制に関与する性ホルモンの種類と量を調べるため、性成熟に伴う血中性ホルモン量の変化を調べたところ、雌雄においてテストステロン(T)が降河回遊期である5月には既に増加傾向を示したことから、降河行動の抑制に関与する因子であることが示唆された。そこでTの降河行動抑制作用を調べるため、銀化魚にT500g/尾を投与し、上下二面の池を樋状の水路で連絡した実験水路の上面池に収容して降河行動を観察した。その結果、T投与群の降河行動は有意に抑制された。次に、T投与量の影響を調べたところ、降河行動はTの投与量に依存して抑制された。また早熟雄は降河行動を行わなかった。さらに降河行動はエストラジオール(E2)および11-ケトテストステロン(11-KT)の投与によっても抑制されることが判明した。一方、本来河川残留型すなわち早熟個体を殆ど生じないヒメマスに関しても、T500gを投与した銀化魚の降河率が対照群よりも有意に低くなることが判明した。

2.サクラマスおよびヒメマスの遡上行動における性ホルモンの役割

 まず、性成熟したサクラマスが実験水路内で遡上行動を行うか否かを調べたところ、遡上率は雄が100%、雌が66.6%であった。雄は実験期間中排精状態を保っていた。雌は収容時全個体が未排卵であったが水路を遡上した個体は全て排卵していた。早熟雄および未成熟魚を用いて、遡上行動に及ぼす去勢あるいは性ホルモン投与の影響を調べたところ、去勢群では遡上行動が見られなかったが、T500g/尾を投与した去勢群では遡上行動が誘起された。次に、去勢早熟雄に溶媒、T50g、T500gまたはT1000gを投与して行動を観察したところ、去勢早熟雄は遡上行動を行わなかったのに対し、Tを投与した3群では遡上行動が誘起された。去勢早熟雄4群にT、E2、11-KTまたは17,20ジヒドロキシ-4-プレグネン-3-オン(DHP)を500g/尾ずつ投与し去勢群と遡上率を比較したところ、Tの他に11-KTが去勢早熟雄の遡上行動を引き起こすことが判明した。未成熟魚の遡上率もT、E2および11-KTによって高値を示したことから、遡上行動の発現制御には複数の性ホルモンが関与することが明らかとなった。

 一方、ヒメマスの遡上行動に伴う性ホルモンの変化を調べたところ、T(雌雄)および11-KT(雄)は遡上前高く、遡上後に減少したことから、遡上行動への関与が考えられた。またT500g投与したヒメマス未成熟魚の遡上率は対照群よりも有意に高くなることが判明した。

3.サクラマスの性行動における性ホルモンの役割

 サクラマス1+年早熟雄が性行動を2+年成熟雌に対して行うか否かを、産卵観察水槽を用いて調べたところ、早熟雄の多くは成熟雌に対してアテンディンクおよびクイバリング行動を行うことが判明した。これに対し去勢早熟雄は両行動を行わなくなった。一方、去勢早熟雄にT500g/尾を投与したところアテンディングおよびクイバリング行動を行う個体が見られたことから、これらの性行動がTによって引き起こされることが示された。

 次に1+年未成熟雌にT500g、T1000gまたは溶媒のみを投与して行動を観察したところ、T1000g投与群の平均ディギング回数(9.9回/90分)がT500g投与群(5.1回/90分)および対照群(1.3回/90分)よりも多くなることが判明した。次に、未成熟雌にT、E2、11-KTまたはDHPをそれぞれ500g/尾ずつ投与して行動を観察した。その結果、ディギング行動はT以外にE2、DHP投与によっても引き起こされたことから、雌の性行動の発現制御に複数の性ホルモンが関与する可能性が示された。

 以上、本研究は性ホルモンがサケ科魚の降河行動の発現を抑制し、遡上行動とそれに続く性行動の発現を促進することが明らかにしたもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)として価値あるものと認めた。

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