学位論文要旨



No 115282
著者(漢字) 井上,広喜
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,ヒロキ
標題(和) イチョウ培養系における細胞分化と二次代謝発現に関する研究
標題(洋)
報告番号 115282
報告番号 甲15282
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2127号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物材料科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐分,義正
 東京大学 教授 飯塚,堯介
 東京大学 教授 谷田貝,光克
 東京大学 助教授 鮫島,正浩
 東京大学 助教授 松本,雄二
内容要旨

 本研究では、イチョウ培養細胞及び原植物を対象とし、in vitroにおける細胞の分化誘導、イチョウに特異的な二次代謝産物であるginkgolide類の分析、植物体の分化や生存に不可欠な事象である細胞死の誘導及びその解析を行った。本文は内容から3つの章に分けられている。以下にそれぞれの内容について要約して記した。

 はじめに、イチョウ細胞の分化誘導の試みについて述べた。イチョウを材料として過去に種々の分化誘導実験が試みられているが、成功例は知られておらず、イチョウの分化誘導自体が研究対象として興味深い。また、一般に二次代謝は器官分化に伴って発現する場合が多いため、in vitroでの器官分化誘導系を確立することにより、均一な材料、培養条件での二次代謝研究が可能になると考えられる。二次代謝研究に使用可能な、in vitroでの器官分化誘導系を確立することを最終的な目的として実験を行った。

 胚、葉柄、葉身、幼根を外植体として用い、Linsmaier & Skoog(LS)培地を基本培地としてその無機成分特に窒素成分濃度の改変、さらに種々の植物ホルモンを組み合わせて添加することによる器官分化の誘導を試みた。オーキシンとして2、4-ジクロロフェノキシ酢酸、ナフタレン酢酸(NAA)、インドール酢酸、インドール酪酸(IBA)、サイトカイニンとしてカイネチン(K)、ベンジルアデニン(BA)を種々組み合わせて添加した。培養の結果、器官分化は全く観察されず、数種のカルスのみが得られた。そこで、得られたカルスからの再分化を目的とした実験を続けて行うこととした。培地の窒素成分の改変や、種々の植物ホルモン(様)物質の器官分化誘導に対する効果を調べた。NAA、IBA、K、BA、ゼアチン、アブシシン酸、ジベレリンを適当な濃度で組み合わせて添加した。さらに、抗オーキシンとしてトリヨード安息香酸の効果も検討した。主に不定芽の分化誘導を目的として行ったものであるが、器官の再分化は全く認められず、培地毎にカルスの成長に差が見られたのみだった。

 今回の実験で調べた限りでは、通常用いられることの多い葉、胚、等の外植体、培地、植物成長調節物質等の種々の組み合わせでは、器官分化は観察されなかった。その一方でカルスの誘導はいずれの外植体でもかなり容易であり、そのまま継代培養できるものも多いことが分かった。カルスの再分化は誘導できなかった。

 次に、成木の各部位、幼植物、各種培養細胞におけるginkgolide類の含有量についての分析結果を記した。ginkgolide類の生成と成長、分化との関連、さらに培養条件との関連を考察した。

 まず、イチョウ植物体の種々の部位におけるginkgolide類(ginkgolide A、B、C;以下G-A、G-B、G-Cと記す)の含有量を調べ、成長や季節による変動とginkgolide類代謝との関連を考察した。緑葉(8月)、落葉(11月)、根(実生2年生より、10月)、木部、内樹皮及び外樹皮(いずれも4月)、胚乳(落果後3月まで冷蔵保存した種子より)、幼根及び胚軸(6月の発芽直後の実生)、以上を試料として分析を行ったところ、全ての試料でginkgolide類の存在が確認された。実生2年生の根、幼根、胚軸とも成木の緑葉と比べてかなり多量に含まれていた。落葉、内・外樹皮、木部での含有量は少なかった。種子の胚乳部分ではG-Bのみが多く、G-A、G-Cは少ないという偏った割合であることが分かった。

 次に、種子の段階から発芽成長の初期までのginkgolide類の挙動を調べ、成長との関連や、光条件をはじめとする種々の因子がginkgolide類の生合成に与える影響などについて調べた。4月まで冷蔵保存した種子を用いて、播種および試験管内での胚培養を行いそれぞれ幼植物を得て、分析に供した。その結果、発芽直後の幼植物におけるginkgolide類の生成には光が重要な役割を持たないことが明らかになった。暗所培養の幼植物は全く葉が展開しないが、一個体あたりのginkgolide含有量は、数枚の緑葉が展開している明所培養の場合と殆ど同じだった。このことから、ginkgolide類の生合成部位は葉のみではない、もしくは葉ではないことが示唆される。また、イチョウ幼植物におけるginkgolide類の生合成は、葉緑体の分化とは無関係に行われると考えられる。ginkgolide総量(G-A+G-B+G-C)で見る限りは、その生成と光とは深い関連がないように思われたが、実生での結果からは、光がG-AとG-Bの量比には何らかの影響をおよぼしていると考えられた。胚乳では、貯蔵の間に種子内部でG-Aが酸化され、G-BさらにG-Cへと変換される反応がおこっていることを示唆する分析結果が得られた。

 培養細胞については、いずれも原植物と比較にならない少量が検出されたにすぎなかった。緑化との関連、誘導部位の違いによる相違、培地成分の影響等についても、それを確認するに足る量は検出できなかった。

 最後に、イチョウ培養細胞に人為的な細胞死を誘導した際の、種々の変化について述べた。細胞死の研究は動物では極めて急速な進展を示しているが、植物での研究は未だに断片的で、かなり遅れを取っている。とりわけ、樹木は非常に多くの細胞死を包含する生物であるにも拘らず、樹木を対象とした細胞死研究は現状では極めて少ない。そこで、実験的な細胞死誘導系を確立し、樹木細胞での細胞死制御機構を解明することを目的とした実験を試みた。また、細胞死に伴う細胞抽出成分の変化についても調べた。

 イチョウ懸濁培養細胞に、各種試薬を添加してその細胞死や二次代謝発現に対する影響を評価した。試薬は、動物細胞でのアポトーシス誘導効果を参考に、シトシンアラビノシド、アフィディコリン(DNA合成阻害剤)、コルジセピン(RNA合成阻害剤)、シクロヘキシミド(蛋白質合成阻害剤)を用いた。また、植物細胞でのファイトアレキシン産生促進効果および細胞死誘導効果を参考にして、クロロホルム、硫酸銅を用いた。培養の結果、シクロヘキシミド以外で試薬添加量に応じて細胞死誘導が確認され、クロロホルム、硫酸銅では酢酸エチル抽出成分の変化が顕著であることが、ガスクロマトグラフィー(GC)を用いた分析から明らかになった。

 次に、上記のように細胞死誘導効果が認められたシトシンアラビノシドによる細胞死誘導系を用いて細胞の種々の変化を調べた。アポトーシスに関与することが知られるプロテアーゼ、ヌクレアーゼの活性変化を調べたところ、ヌクレアーゼ(DNase)活性の上昇と細胞死の相関が認められた。また、核DNAを抽出、電気泳動による分析を行ったところ、核DNAの断片化が確認された。さらに死細胞では核の凝縮が認められた。種々の基質を用いてプロテアーゼ活性を測定したが、細胞死との関連は見出せなかった。GCによる分析で、細胞および培養液の酢酸エチル抽出物の変化は質的、量的にも少ないことが分かった。

 クロロホルム、硫酸銅添加の系について改めて詳細に検討したところ、両者とも、2日後までに全ての細胞が死ぬ添加量では酢酸エチル抽出成分の変化が認められたが、細胞死があまり大規模に誘導されない添加量では、同成分変化は殆ど見られなかった。また、両者GCクロマトグラム上で似通った物質パターンを呈した。この結果から、これらの系での成分変化は、細胞が新規に物質を生成したためではなく、むしろ細胞が急速かつ大規模に死んだ結果として生じた可能性が高いように思われた。

審査要旨

 イチョウは、雌雄異株の落葉高木でイチョウ綱に属する唯一の現存種である。また、進化的にみて大変古い樹種で、病虫害に対する抵抗性がきわめて強く、生育旺盛で大気汚染にも感受性が低いことから、日本、中国はもとより、欧米各地でも街路樹・庭層樹として広く植栽されている。材は、緻密でやや柔らかく狂いが少ないことから、そろばん珠・碁盤・床板・まな板などに広く使用されている。種子は、ギンナンとして食用され、漢方薬としても利用され鎮咳効果があるとされている。イチョウの葉は、老人性痴呆の予防、症状の改善、脳血管障害の改善などの効果があるとして、ヨーロッパ、特に、ドイツ・フランスにおいて医薬品として用いられ大きな需要がある。ヨーロッパでは、EGb761と名付けられたイチョウ葉抽出物が有名で、臨床的に脳血管障害の治療に用いられている。EGb761は、24%のフラボノイド配糖体、6%のテルペンラクトン(ginkgolides,bilobalide)を含むものとして規格化されており、末梢神経の損傷や、酸欠・虚血などの条件下で、神経保護作用を持つことが報告されている。EGb761には、各種活性酸素種の除去作用も認められている。このような医薬品としての大きな需要を支える目的で、葉の収穫のために各地でイチョウの栽培が現在行われている。

 申請者は、このような背景の元に、イチョウ原植物、培養細胞を用いてin vitroにおける器官分化誘導系確立、イチョウに特異的な二次代謝産物であるginkgolides類の定量分析、細胞培養系における細胞死と二次代謝発現との関連性について、検討考察を加えた。

 論文は、5章より構成されており、第1章は序論、第5章は総括で、第2章から第4章が本論である。

 第2章では、イチョウを材料として過去に種々の分化誘導実験が試みられているが、未だ、成功していないことを鑑み、in vitroでの器官分化誘導系確立を試みている。実験は、各種外殖体として胚・葉柄・葉身・幼根、更には、本実験で得られたカルスを用いて、LS培地を基本培地として、無機成分特に窒素成分の改変、各種植物ホルモンの組み合わせなどを変えて、不定芽分化誘導を中心に検討した結果、いずれの外殖体からもカルス誘導は、容易に進行することが認められたものの、器官分化には至らなかった。しかし、得られたカルスは、継代が容易で増殖も旺盛で、懸濁細胞培養系も確立でき、明暗の条件を変えることで、容易に緑色・白色の細胞培養系が得られることを見出した。

 第3章では、イチョウ植物体の種々の部位におけるginkgolides類の含有量を分析し、成長や季節による変動を中心に検討している。ginkgolides類は、若木の根、幼植物体いずれでも成木の緑葉と比べてかなり多量に含まれていることを見出した。更に、落葉、内・外樹皮、木部にも量的には少ないが含まれていることも判明した。種子の段階から発芽成長の初期まで、明暗両条件下で育ててginkgolides類の量的変動を調べ、暗所培養の幼植物は全く葉が展開していないにも拘わらず、個体当たりの含有量は、数枚の葉が展開している明所培養の場合と、殆ど、同じであることを見出し、ginkgolides類の生合成部位は、葉のみではない、もしくは、葉ではないことを示唆するものであると考察している。

 尚、カルス並びに懸濁細胞培養系で明暗両条件下、生成量を検討していずれの場合も微量しか含有しないことも見出している。

 第4章では、得られた懸濁細胞培養系を用いて、動物細胞でのアポトーシス誘導試薬、並びに、植物細胞でのファイトアレキシン誘導試薬を各種添加して、細胞死と二次代謝発現との関連性について検討している。その結果、アポトーシス誘導試薬のシクロヘキシミド以外の添加系で細胞死が誘導できることを見出した。また、二次代謝発現として酢酸エチル抽出物を中心に検討した結果、ファイトアレキシン誘導試薬添加系でのみ顕著な変動を示すこと見出している。アポトーシス誘導試薬のシトシンアラビノシド添加系で、細胞死がヌクレアーゼ活性の増加と相関することを明らかにしている。

 以上要するに、本論文は、イチョウの特異的成分であるginkgolides類の生成に対して興味ある知見を与えるとともに、細胞培養系において細胞死と二次代謝発現との関連性について考察して学術的に大変貴重な貢献を与えた論文で、審査委員一同は、博士(農学)の学位に値するものであることを認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54748