学位論文要旨



No 115283
著者(漢字) 幸田,圭一
著者(英字) KODA,KEIICHI
著者(カナ) コウダ,ケイイチ
標題(和) クラフトパルプの塩素漂白過程における酸化的反応のリグニン分解反応及び脱リグニン反応への影響
標題(洋) Effect of Oxidative Reactions on the Lignin Degradation and Delignification during Chlorine Bleaching of Kraft Pulp
報告番号 115283
報告番号 甲15283
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2128号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物材料科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 飯塚,堯介
 東京大学 教授 佐分,義正
 東京大学 教授 尾鍋,史彦
 東京大学 教授 飯山,賢治
 東京大学 助教授 松本,雄二
内容要旨 1.序論

 製紙用クラフトパルプの塩素漂白は木材成分であるリグニンを分解・除去する過程で種々の有機塩素化合物の生成が避けられないため、欧米各国では近年、環境への配慮から非塩素系の漂白薬剤を用いる漂白法へと移行しつつある。しかし日本では現在でも塩素を用いた漂白シークエンスが採用されており、パルプ工場から膨大な量(数万トン/年)の有機塩素化合物が環境中へと放出されている。従って現在、これらの化合物の生成挙動や環境中での動態を把握するための評価法の確立が切実に求められている。一方、反応性に限って言えば塩素は極めて有効な漂白薬剤であるものの、漂白中に起きる主要な反応は何かという点に関する体系的な知見は得られていない。こうした反応論的知見を豊かにすることは学問的に意義があるばかりでなく、環境中に蓄積した有機塩素化合物の性状を明らかにしていく上でも重要な基礎となると考えられる。また、そうした基礎的な知見の蓄積は、新世代の非塩素系漂白試薬を開発する場合にも重要なヒントを提供することにつながると考えられる。そうした背景の下で学位申請者の研究では塩素による酸化反応の役割を定量的に検討し、次に塩素処理条件の相違がリグニンの変質や脱離挙動に及ぼす影響を検討して、塩素とリグニンとの反応に関する基礎的な知見を得た。次に漂白過程を履歴したパルプ及びリグニン試料に由来する高分子並びに低分子の有機塩素化合物の分析に関する検討に進み、検出物の生成機構や起源構造について、塩素や他の漂白薬剤による酸化反応の役割という視点から反応論的な考察を展開した。

2.クラフトパルプの塩素漂白過程における酸化反応の定量的評価

 パルプの塩素漂白過程においては分子状塩素(Cl2)による置換反応、酸化反応、加水分解反応等がリグニンの構造変化に深く関与していることが古くから知られている。しかしその中の酸化反応の意義に注目し、この反応が塩素漂白過程で寄与する割合を正確に検討した研究はほとんど皆無であった。学位申請者はクラフトパルプを低pH条件(酸化反応抑制系)及び高pH条件(酸化反応促進系)でそれぞれ塩素漂白し、得られた漂白排液中の無機塩素イオン(Cl-)をイオンクロマトグラフィーによって定量した結果から、漂白過程での酸化反応率及び置換反応率を計算した。同時にカッパー価測定法により求めた脱リグニン度との相関を検討した。その結果、酸化反応抑制系と促進系とでリグニン構成単位あたり、それぞれ3.0電子分及び4.4電子分の酸化反応が起きており、これが酸化反応促進系における脱リグニン優位性を説明していること、及び従来は置換反応が主要な反応様式と見られていた反応系でも、予想以上に酸化反応が進んでいることが明らかにされた。リグニン構成単位あたり4.4電子分の酸化反応は現在主流になりつつある非塩素系漂白試薬(酸素、オゾン、過酸化水素など)では達成できないものであり、リグニンの芳香核構造を(フェノリック構造、ノンフェノリック構造を問わず)全て開裂分解させるのに十分な酸化力である。他方、塩素は炭水化物を攻撃する活性種をほとんど生成しないため、パルプ強度の低下を招きにくいが、この点でも塩素は非塩素系薬剤にない優れた特性を持っていることがわかる。すなわち環境上の問題を別にすれば、塩素はリグニンとの反応性の点では極めて高い優位性を持つが、その中でも塩素漂白過程における酸化反応がリグニンの溶出挙動を決定する上で極めて大きな寄与をしていることが、学位申請者らの研究によって初めて定量的に明らかにされた

3.クラフトパルプの塩素漂白過程におけるリグニン芳香の酸化的開裂

 漂白過程で塩素がパルプ残存リグニンと反応する結果、著量のメタノールが生成する。これはリグニン芳香核が有するメトキシル基に由来し、メトキシル基を失ったリグニンの芳香核構造は速やかに酸化を受けるが、このため塩素漂白によって減少した残存リグニン中のメトキシル基量や漂白排液中へ遊離したメタノール量は、パルプ残存リグニンの酸化的変質を示す一つの有力な指標になり得ると考えられる。学位申請者らはクラフトパルプを低pH条件(酸化反応抑制系)及び高pH条件(酸化反応促進系)でそれぞれ塩素漂白し、塩素化条件の違い(pH及び塩素比)によってリグニン芳香核の構造変化及び脱リグニン効率にどのような違いが現れるか検討した。低pH条件と比較すると高pH条件で塩素化を行った場合、塩素比が一定ならばメトキシル基からのメタノールの遊離が促進され、同時に脱リグニン効率も上昇することが観察された。一定の脱リグニン度(カッパー価減少度)で比較した場合には、両条件で顕著な違いは見られなかった。メタノール遊離量と脱リグニン度とは単純な直線関係では示されなかったが、強い相関関係があることが示唆された。一方、塩素化パルプ(CW-NKP)及び塩素化-アルカリ抽出パルプ(CE-NKP)について、それぞれのメトキシル基量並びにカッパー価を測定し、パルプに残存するリグニンの変質の度合いに関する考察を進めた。CE-NKP中のメトキシル基量はCW-NKP中のメトキシル基量とほぼ等しいが、カッパー価に関しては著しい減少が見られた。すなわち塩素処理ではリグニン芳香核の一部が酸化され、水洗後もCW-NKP中にとどまるが、アルカリ処理を履歴した場合に酸化を受けた部分がほぼ定量的、かつ選択的に除去されることが示唆された。塩素による酸化反応が効率的な脱リグニンを達成する上で鍵となる反応であることが、ここでも示された。

4.クラフトパルプの塩素漂白過程におけるクロロホルムの可能生成量について

 低分子有機塩素化合物であるクロロホルムの排出削減が、塩素系漂白を採用している日本の製紙業界で近年、焦眉の課題になっている。クロロホルムの排出削減に向けてその生成量の適切な評価が必要であるが、クロロホルムは揮発性が高く水に難溶な物質であるため正確な定量が極めて困難である。そこで学位申請者らは気密性の反応容器中でパルプの塩素化並びに温アルカリ処理を行い、生成したクロロホルムを定量的に気相中に移行させた後、気相部(ヘッドスペースガス)に含まれるクロロホルムをガスクロマトグラフ/質量分析計で正確に定量し、クロロホルムの可能生成量を推定した。その際、選択イオン検出法(single ion monitoring)を用いた。塩素比が一定の場合、MWLを用いた対照実験からも、リグニン(カッパー価)あたりのクロロホルムの可能生成量は一定であることが明らかとなった。またクラフトパルプについて、カッパー価あたりのクロロホルム生成量は酸素脱リグニン工程の履歴の有無に関わらず、同一塩素比では一定であることも示された。さらにクラフトパルプを低pH条件(酸化反応抑制系)及び高pH条件(酸化反応促進系)でそれぞれ塩素漂白した実験から、クロロホルムの生成にはある程度の酸化反応が必要であること、及びpH条件によらずクロロホルム生成量が激増する閾値が存在することが示唆された。次亜塩素酸塩漂白段からのクロロホルムの生成が依然として重大な問題ではあるが、塩素段及びアルカリ抽出段においても無視できない量のクロロホルムが生成する可能性が示された。

5.酸化リグニンの分析的熱分解によって検出されるアルカンタイプ構造の起源について

 パルプ漂白排水のうち低分子成分は比較的分析が容易であるが、高分子成分については分析法が未確立であるといえる。これらはその多くがリグニンに由来する成分であっても、酸化などの変質を受けておりもはや芳香属性を失っているため、木材化学分野において常用されるリグニン構造分析法は、パルプ漂白排水中の高分子成分の分析にそのままの形では適用することはできない。熱分解ガスクロマトグラフィー(Py-GC)は、高分子の化学結合のうち比較的弱い結合点を一定の条件の下で熱エネルギーによって瞬時に切断し、単離された低分子成分から元の高分子に関する情報を追跡する分析手法である。学位申請者らはPy-GCを用いて、塩素漂白パルプから単離された塩素化リグニン等の種々の酸化的な変質を受けたリグニン試料、並びに木材抽出成分を分析し、パルプ工場から排出される高分子有機塩素化合物等の排水成分の追跡に対するこの手法の有効性について検討した。この手法によりMWLなどの芳香核構造が比較的保持されているリグニン試料からは低分子芳香核成分(AR)が多数検出されたのに対し、酸化的な変質を受けたリグニン試料からはそうした芳香核成分はごくわずかに検出されるにとどまった。一方、これらの酸化的変質を受けたリグニンはクロマトグラム上に極めて特徴的なピークパターンを与えることが観察され、これらはアルカン型の構造を有する化合物(AL)であることが判明した。そうした試料が受けた酸化の度合いとピーク面積比(AL/AR)との間には強い相関関係が認められたため、AL/AR値は試料の酸化的変質を示す指標として有効であると言える。その後の研究から(AL)の起源構造は酸化リグニンそのものではなく、酸化に対して抵抗性を示すある種の抽出成分であることが判明した。Py-GCは抽出成分の簡易分析にも応用可能であると考えられる。

審査要旨

 製紙用クラフトパルプの塩素漂白では木材成分であるリグニンを分解・除去する過程で種々の有機塩素化合物の生成が避けられないため、欧米各国では非塩素系漂白法へと移行しつつある。しかし我が国では現在でも塩素を用いた漂白シークェンスが採用されており、これらの化合物の生成挙動や環境中での動態を把握するための評価法の確立が求められている。一方、反応性に限れば塩素は極めて有効な漂白薬剤であるものの、漂白反応中の脱リグニン反応についての体系的な知見は得られていない。そうした背景の下で進められた本研究の内容は5章にわたって取りまとめられている。

 第1章において、上記の研究の背景、目的および関連する既往の研究について述べたのち、第2章においてはクラフトパルプの塩素漂白過程における酸化反応の定量的評価について論じている。パルプの塩素漂白過程においては分子状塩素(Cl2)による置換反応、酸化反応、加水分解反応等がリグニンの構造変化に深く関与している。しかし酸化反応の意義に注目し、この反応の漂白に対する寄与を正確に検討した研究は従来認められない。申請者はクラフトパルプを低pH条件(酸化反応抑制系)及び高pH条件(酸化反応促進系)でそれぞれ塩素漂白し、得られた漂白排液中の無機塩素イオン(Cl-)の定量結果から、漂白過程での酸化反応率及び置換反応率を求めた。また、酸化反応抑制系と促進系ではリグニン構成単位あたり、それぞれ3.0電子分及び4.4電子分の酸化反応が起きており、これが酸化反応促進系における脱リグニン優位性を説明していること、及び従来は置換反応が主要な反応様式と見られていた反応系でも、予想以上に酸化反応が進んでいることを明らかにした。他方、塩素は炭水化物を攻撃する活性種をほとんど生成しないため、パルプ強度の低下を招きにくいが、この点でも塩素は非塩素系薬剤にない優れた特性を持っていることがわかる。すなわち環境上の問題を別にすれば、塩素はリグニンとの反応性の点では極めて高い優位性を持つこと、なかでも酸化反応が塩素漂白過程における脱リグニンに対し極めて大きな寄与をしていることを、初めて定量的に明らかにした。

 第3章においては、クラフトパルプの塩素漂白過程におけるリグニン芳香核の酸化的開裂について検討している。漂白過程で塩素がパルプ残存リグニンと反応する結果、著量のメタノールが生成する。これはリグニン芳香核が有するメトキシル基に由来し、メトキシル基を失ったリグニンの芳香核構造は速やかに酸化を受けるが、このため塩素漂白によって減少した残存リグニン中のメトキシル基量や漂白排液中へ遊離したメタノール量は、パルプ残存リグニンの酸化的変質を示す一つの有力な指標になり得ると考えられる。低pH条件と比較すると高pH条件で塩素化を行った場合、塩素比が一定ならばメトキシル基からのメタノールの遊離が促進され、同時に脱リグニン効率も上昇することが観察された。一方、一定の脱リグニン度(カッパー価減少度)で比較した場合には、両条件で顕著な違いは見られず、また、メタノール遊離量と脱リグニン度との間には強い相関関係があることが示された。塩素-アルカリ処理パルプ中のメトキシル基量は塩素処理パルプ中のメトキシル基量とほぼ等しいが、カッパー価に関しては著しい減少が見られたことから、塩素処理で芳香核の一部が酸化されたリグニン部分は、水洗後もパルプ中にとどまるが、アルカリ処理によってほぼ定量的、かつ選択的に除去されることが示唆された。

 第4章においては、クラフトパルプの塩素漂白過程におけるクロロホルムの可能生成量について論じている。低分子有機塩素化合物であるクロロホルムの排出削減のためには、その生成量の適切な評価が必要である。本研究では気密性の反応容器とガスクロマトグラフ/質量分析計を使用して、従来困難であったクロロホルムの正確な定量に成功するとともに、塩素比が一定の場合、リグニン(カッパー価)あたりのクロロホルムの可能生成量は一定であることを明らかにした。また、カッパー価あたりのクロロホルム生成量は酸素脱リグニン工程の有無に関わらず、同一塩素比では一定であること、クロロホルムの生成にはある程度の酸化反応が必要であること、及びpH条件によらずクロロホルム生成量が激増する閾値が存在することを示した。次亜塩素酸塩漂白段からのクロロホルムの生成が依然として重大な問題ではあるが、塩素段及びアルカリ抽出段においても無視できない量のクロロホルムが生成する可能性が示された。

 第5章においては、酸化リグニンの分析的熱分解によって検出されるアルカンタイプ構造の起源について論じている。塩素漂白パルプから単離された塩素化リグニン等の種々の酸化的な変質を受けたリグニン試料を分析的熱分解法によって分析し、クロマトグラム上にアルカン型構造に特徴的なピークパターンを与えること、そのようなピークの相対的強度が試料の酸化的変質を示すこと、その起源が酸化に抵抗性を有するある種の抽出成分であることを見出すとともに、このピークがパルプの酸化的履歴の程度を知る上で有用であることを示した。

 以上要するに、本研究はパルプの塩素漂白過程における酸化反応の寄与を、詳細かつ定量的に明らかにしたものであり、この成果が産業界に及ぼす寄与はもちろん、学問分野の今後の研究の進展に寄与するところも非常に大である。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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