製紙用クラフトパルプの塩素漂白では木材成分であるリグニンを分解・除去する過程で種々の有機塩素化合物の生成が避けられないため、欧米各国では非塩素系漂白法へと移行しつつある。しかし我が国では現在でも塩素を用いた漂白シークェンスが採用されており、これらの化合物の生成挙動や環境中での動態を把握するための評価法の確立が求められている。一方、反応性に限れば塩素は極めて有効な漂白薬剤であるものの、漂白反応中の脱リグニン反応についての体系的な知見は得られていない。そうした背景の下で進められた本研究の内容は5章にわたって取りまとめられている。 第1章において、上記の研究の背景、目的および関連する既往の研究について述べたのち、第2章においてはクラフトパルプの塩素漂白過程における酸化反応の定量的評価について論じている。パルプの塩素漂白過程においては分子状塩素(Cl2)による置換反応、酸化反応、加水分解反応等がリグニンの構造変化に深く関与している。しかし酸化反応の意義に注目し、この反応の漂白に対する寄与を正確に検討した研究は従来認められない。申請者はクラフトパルプを低pH条件(酸化反応抑制系)及び高pH条件(酸化反応促進系)でそれぞれ塩素漂白し、得られた漂白排液中の無機塩素イオン(Cl-)の定量結果から、漂白過程での酸化反応率及び置換反応率を求めた。また、酸化反応抑制系と促進系ではリグニン構成単位あたり、それぞれ3.0電子分及び4.4電子分の酸化反応が起きており、これが酸化反応促進系における脱リグニン優位性を説明していること、及び従来は置換反応が主要な反応様式と見られていた反応系でも、予想以上に酸化反応が進んでいることを明らかにした。他方、塩素は炭水化物を攻撃する活性種をほとんど生成しないため、パルプ強度の低下を招きにくいが、この点でも塩素は非塩素系薬剤にない優れた特性を持っていることがわかる。すなわち環境上の問題を別にすれば、塩素はリグニンとの反応性の点では極めて高い優位性を持つこと、なかでも酸化反応が塩素漂白過程における脱リグニンに対し極めて大きな寄与をしていることを、初めて定量的に明らかにした。 第3章においては、クラフトパルプの塩素漂白過程におけるリグニン芳香核の酸化的開裂について検討している。漂白過程で塩素がパルプ残存リグニンと反応する結果、著量のメタノールが生成する。これはリグニン芳香核が有するメトキシル基に由来し、メトキシル基を失ったリグニンの芳香核構造は速やかに酸化を受けるが、このため塩素漂白によって減少した残存リグニン中のメトキシル基量や漂白排液中へ遊離したメタノール量は、パルプ残存リグニンの酸化的変質を示す一つの有力な指標になり得ると考えられる。低pH条件と比較すると高pH条件で塩素化を行った場合、塩素比が一定ならばメトキシル基からのメタノールの遊離が促進され、同時に脱リグニン効率も上昇することが観察された。一方、一定の脱リグニン度(カッパー価減少度)で比較した場合には、両条件で顕著な違いは見られず、また、メタノール遊離量と脱リグニン度との間には強い相関関係があることが示された。塩素-アルカリ処理パルプ中のメトキシル基量は塩素処理パルプ中のメトキシル基量とほぼ等しいが、カッパー価に関しては著しい減少が見られたことから、塩素処理で芳香核の一部が酸化されたリグニン部分は、水洗後もパルプ中にとどまるが、アルカリ処理によってほぼ定量的、かつ選択的に除去されることが示唆された。 第4章においては、クラフトパルプの塩素漂白過程におけるクロロホルムの可能生成量について論じている。低分子有機塩素化合物であるクロロホルムの排出削減のためには、その生成量の適切な評価が必要である。本研究では気密性の反応容器とガスクロマトグラフ/質量分析計を使用して、従来困難であったクロロホルムの正確な定量に成功するとともに、塩素比が一定の場合、リグニン(カッパー価)あたりのクロロホルムの可能生成量は一定であることを明らかにした。また、カッパー価あたりのクロロホルム生成量は酸素脱リグニン工程の有無に関わらず、同一塩素比では一定であること、クロロホルムの生成にはある程度の酸化反応が必要であること、及びpH条件によらずクロロホルム生成量が激増する閾値が存在することを示した。次亜塩素酸塩漂白段からのクロロホルムの生成が依然として重大な問題ではあるが、塩素段及びアルカリ抽出段においても無視できない量のクロロホルムが生成する可能性が示された。 第5章においては、酸化リグニンの分析的熱分解によって検出されるアルカンタイプ構造の起源について論じている。塩素漂白パルプから単離された塩素化リグニン等の種々の酸化的な変質を受けたリグニン試料を分析的熱分解法によって分析し、クロマトグラム上にアルカン型構造に特徴的なピークパターンを与えること、そのようなピークの相対的強度が試料の酸化的変質を示すこと、その起源が酸化に抵抗性を有するある種の抽出成分であることを見出すとともに、このピークがパルプの酸化的履歴の程度を知る上で有用であることを示した。 以上要するに、本研究はパルプの塩素漂白過程における酸化反応の寄与を、詳細かつ定量的に明らかにしたものであり、この成果が産業界に及ぼす寄与はもちろん、学問分野の今後の研究の進展に寄与するところも非常に大である。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。 |