本論文は地球上のバイオマスの圧倒的多量を占めるセルロースの結晶構造とその物理化学的転換の機構の解明を目指したものである。論文は第1〜9章からなる。1章はセルロースの構造研究の歴史を概説し、現在までに明らかになった点となお解明されていない点を整理している。5〜7章はX線および中性子線回折、赤外分光法によるセルロース結晶構造の精密化の試みであるが、2〜4章ではそのための方法論の改善および確立について述べている。8、9章はセルロースIからIIへの転換の機構を論じている。 セルロースの構造解析においては高結晶性の試料を用いることが望ましいが、高結晶性セルロース試料は一般に巨視的に配向していない。本論文第2章では、これを克服するため高結晶性セルロースの微粒子を配向させる方法を述べている。申請者はセルロース微結晶の懸濁液をガラスビンに入れて回転すると棒状微結晶が配向し、かつゲル化しつつ壁面に付着するという特異な現象を見出した。この方法は独創的なものであり、セルロース結晶構造の精密決定の手段として大きな意義をもつ。またセルロース以外の棒状コロイド系にも適用できる可能性がある点で注目される。 3章では上記の配向試料の中でなお徴結晶が特定の格子面がフィルム面に対して配向する問題を取上げ、これが回折強度に二次的な影響を及ぼすことから、その影響を除去するための方法を考察している。この部分は今後の最終解析のための基礎であり、実際のデータへの適用は今後の課題である。 第4章ではセルロース水酸基の水素原子を重水素に置換した試料を調整する方法について述べている。重水素置換の技法は新しいものではないが、その適用を各種高結晶性セルロースへ広げ、新たに高温水蒸気処理を用いて元の結晶構造を保ちつつ迅速に重水素置換する方法を確立した。 4〜7章では上記の配向試料と重水素置換の技法を用いて、X線回折、中性子線回折、赤外スペクトルから、従来不明確であったセルロース結晶内の水素原子の位置および振動スペクトルの帰属のいくつかを確定した。これらの結果セルロースIの平行鎖構造とセルロースIIの逆平行鎖構造はさらに確実なものとなった。とくにセルロースIIの構造は近年報告されたセロオリゴ糖の構造に近いことが確認された。 セルロースIとIIの関係がこのように確認されると、濃厚アルカリ処理によるセルロースIからIIへの結晶変態の機構をより堅固な基礎の上に考察することが可能となる。8、9章はその具体化である。8章では配向した天然セルロース(ラミー)繊維を用いてアルカリ処理における巨視的な形態変化の挙動を調べた。この処理において繊維が強く膨潤し繊維軸方向に収縮することは以前から知られていたが、本研究ではこれを再生するときに顕著な振れが生じることに着目し、その機構を考察した。その結果、元の繊維が待つ性かなフィブリル傾角を考慮すると、幅方向の膨張と再生時の収縮の結果として捩れが生じるという機構を提案した。 9章ではラミー繊維を用いて、X線回折図を記録しながらアルカリの濃度を変えるという新しい方法でセルロース結晶の変態の挙動を解析した。その結果、結晶構造をもつアルカリセルロースの種類は最初に乾燥繊維に接触するアルカリ液の濃度で決まり、その後異なる濃度の液に交換しても構造は変化しないことを明らかにした。このことからアルカリセルロースは高度に膨潤しているにもかかわらず液体様の流動性を持たないこと、したがって平行鎖から逆平行鎖への転換はアルカリセルロースの生成時ではなく、その後の水洗・再生時に起こると考えるべきであると結諭している。そして水洗・再生時に逆平行鎖構造ができる理由を、LX線回折図の変化とセルロース分子鎖の形状から図式的に説明した。結論としてセルロース再生時の分子会合はグルコピラノース環の上下面の疎水結合が駆動力であり、分子の形を考慮すると逆平行の方がエネルギー的に有利であることが要因であるとした。 上記のごとく本論文はセルロースの結晶構造において従来不明であった水素原子の位置の精密決定へ向かって重要な知見を与えた点、およびそれに基づいて確定された平行鎖セルロースIと逆平行鎖セルロースIIというスキームの中でアルカリによるセルロースIからIIへの転換における逆平行鎖構造の生成の理由について明快な説明を与えた点で、実験的にも理論的にも重要な貢献をしたものと言える。 以上を総合して本論文は学位授与の要件を満たすと判定される。また本論文内容の大部分は既に専門学術誌に発表されている。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。 |