学位論文要旨



No 115286
著者(漢字) 西山,義春
著者(英字)
著者(カナ) ニシヤマ,ヨシハル
標題(和) セルロースの結晶構造とマーセル化の機構
標題(洋) The Crystal Structure of Cellulose and the Mechanism of Mercerization
報告番号 115286
報告番号 甲15286
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2131号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物材料科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 空閑,重則
 東京大学 教授 小野,拡邦
 東京大学 助教授 竹村,彰夫
 東京大学 助教授 磯貝,明
 東京大学 助教授 鮫島,正浩
内容要旨 1.緒言

 天然に生産されるセルロースが一般に結晶として存在することは良く知られ、古くは1913年に西川・小野らがX線繊維回折を発表している。一旦溶媒に溶解し再生したセルロースの多くや、12%以上の水酸化ナトリウム水溶液などアルカリに膨潤し水洗・乾燥したセルロースも結晶性だが、その構造は天然のセルロースIと異なる結晶形セルロースIIとなる。-1,4結合によりグルコース残基が分子軸周りに180゜回転しながらつながるセルロース分子のおよその形状とその配置はすでに1920年代に、X線構造解析により明らかにされた。1970年代にはコンピュータによる系統的な検討によりセルロースIは分子鎖の還元末端が常に一方向を向く平行構造をとり、セルロースIIはこれが交互に反対側を向く逆平行鎖構造であると結論された。一方セルロースはグルコース残基当たり3つの水酸基をもつことから、その物性発現には水素結合が重要な役割を担っている。赤外線吸収スペクトル測定やX線構造解析によりその結合様式の解明が試みられてきたが、これを確定する十分なデータは得られていない。中性子線は水素との相互作用が強いため水素結合の構造解析に適している。1990年代からは繊維状の試料に対しても中性子線による構造解析が行われるようになってきた。そこで本研究では水素結合様式を含めた構造解析の精密化のため、新たな試料調整法を開発しX線回折および赤外線吸収(IR)スペクトルのデータ精度を高めるとともに、中性子線繊維回折を用いて水素結合に関わる水素の位置を検討した。またマーセル化はアルカリ膨潤により繊維としての形態を保ちながらセルロースIからセルロースIIに変態することから、平行鎖/逆平行鎖構造の当否や変態の機構が問題とされてきた。その解明のため本研究では膨潤に伴う形態変化の再検討、X線回折により膨潤-再生過程の分子秩序の変化を追い、結晶変態の駆動力を提案した。

2.一軸配向試料の作製

 高結晶性セルロースを含むシオグサの細胞壁を用いてセルロース微結晶の一軸配向試料の調整法を確立した。シオグサセルロースを常法で精製後、60%硫酸で加水分解して得られた微結晶分散液をバイアル瓶に入れた。このバイアル瓶を水平に保ち、かつその中心を軸に回転させることにより分散液と瓶の壁面の間に剪断流動を発生させたところ、数時間後に瓶の表面に白いゲル状物の堆積が観測された。ゲル状物質をエタノールで洗浄して乾かすことによって一軸に配向したフィルムが得られた。またバイアル瓶を回転させる時間や分散液の固形分濃度を変化させることによってフィルムの厚さを調整することができた。

3.二軸配向性試料からの回折強度抽出法の検討

 上の方法で得られる試料は一般的に高度に配向した繊維軸以外の結晶軸も緩やかな配向性を持つ。このような二軸配向性試料から得られる回折データは3次元的性格をもち、通常の繊維回折より情報に富むが、そこから正確に各回折強度を抽出する方法は確立していない。限られたコンピュータ資源で高分解能の3次元X線データを解析する方法を検討した。

4.結晶内水酸基の重水素化

 上の方法で得られた配向フィルムを0.1Nの水酸化ナトリウム重水溶液に浸漬し、耐圧容器中210℃で30分間熱処理したところ、結晶内の水酸基が全て重水素化された。IRスペクトルの-OH伸縮振動が微細構造を保存したまま-OD伸縮振動の領域に移動すること、X線回折パターンが影響を受けないことから、この処理により結晶性や配向性を損なうことなく重水素化できることが分かった。またより高温ではセルロースに転移するセルロースもこの条件では完全に結晶形が保存されていた。

5.偏光赤外吸収スペクトルの測定と解析

 上の方法で厚さ1m程度に調整したシオグサ(Cladophora wrightiana)およびホヤ(Halocynthia roretzi)由来の高結晶性セルロースIとその重水素化試料、およびセルロースIから超臨界アンモニア処理により結晶性を損なわずに得られるセルロースIIIと重アンモニア処理によるセルロースIIIの重水素化試料について偏光赤外線吸収スペクトル測定を行い検討した。これまでCH2の対称および逆対称伸縮と考えられていたバンドは重水素化によって大きくシフトしたため、改めて検討し直したところ、繊維軸に直行する2869cm-1と繊維軸となす角の小さい2969cm-1が対称および逆対称伸縮バンドと考えられた。この2色比からセルロースIにおいてO6が理想的なtgからずれていることが示された。セルロースのスペクトルの間ではOH伸縮振動、CH伸縮振動および700cm-1以下の低エネルギー領域全体に渡ってピーク位置の違いが確認できた。4000から400cm-1の測定領域内のほとんどのバンドは水素の振動とカップルしており重水素化によりシフトするが、シフトしない1162cm-1および1057cm-1は重水素化により変化せず、それぞれO1およびO5を挟む純粋なCOC逆対称伸縮であることが確認できた。OH伸縮振動のピーク幅は、同様の結晶性でも結晶形およびバンドによって異なることから、緩和過程を反映したものと考えられる。セルロースIはすべてのOH伸縮バンドがほぼ同じピーク幅をもつのが特徴的である。

6.セルロースIのX線および中性子線構造解析

 シオグサとホヤ、およびほぼ純粋なセルロースからなるGlaucocystis nostochinearumの細胞壁由来の一軸配向セルロース試料から1Åまでの高分解能X線回折データを0.72Åの高輝度X線とイメージングプレートを用いて測定した。中性子線回折は原子炉型中性子線施設の単結晶構造解析用ビームラインで1.33Åに単色化した熱中性子線と位置感度検出器を用いて測定した。これまで構造解析に使われていた回折データは2.5Å程度までであったが、これにより1Åまで拡張することができ、回折強度データの数も従来の40程度から一桁増やすことができた。X線データからLAISプログラムにより分子鎖骨格を精密化したのち、骨格のモデルから得られる位相と中性子線回折強度から得られる振幅を用いてフーリエ合成を行い水素結合に関わる水素を可視化した。

7.セルロースIIの中性子線繊維図構造解析

 精製した亜麻繊維束を0℃下、3.0NのNaOH/H2OないしNaOD/D2O溶液でくり返し膨潤および水洗(H2OないしD2O)を行い、水洗時に適度な緊張力を掛けることにより高結晶性・高配向度のセルロースIIおよびその重水素化試料を得た。この2つの試料についてセルロースIと同様に中性子線繊維回折図を測定し、Fourier合成によって水素の位置を可視化するとともに、その座標を精密化し、セルロースIIの結晶構造および水素結合様式を明らかにした。

8.マーセル化による単繊維の形態変化

 ラミーは単純で通直な繊維構造を持つにも関わらず、単繊維は外的な拘束力がない条件ではアルカリ膨潤によってねじれ、形態が大きく変化することが確認された。繊維のねじれはラミ一繊維が3゜程度のミクロフィブリル傾角をもつこと、アルカリ膨潤により分子鎖に直行する方向に最大30倍程度まで拡大することから幾何的に説明できた。一方、2N(8%)の水酸化ナトリウム水溶液では温度を下げていくと0℃付近で劇的に収縮が始まり、繊維軸方向に50%程度まで収縮するが、結晶の配向度はそれほど変化しない。この繊維の収縮の始まる温度は水酸化ナトリウムの濃度が高くなるほど高温側に移行した。また繊維の収縮が起きる温度は結晶の崩壊する温度と一致することから、繊維の収縮は、結晶状態から解放されたセルロース分子が一時的にゴム弾性を示すために生じるものと考えられた。これはマーセル化において分子鎖が孤立に近い状態を経ることを示唆している。

9.X線回折によるマーセル化機構の解明

 アルカリ膨潤状態においてセルロースはアルカリとの複合結晶をつくることが古くから知られている。このアルカリセルロース結晶の生成過程およびそこからセルロースIIへ再生する過程をX線回折により追跡したところ、膨潤初期のアルカリ濃度等の条件により繊維周期が10ÅのNa-セルロースIまたは15ÅのNa-セルロースIIが生じ、これらの結晶形は一旦形成した後は周囲のアルカリ濃度を変化させても相互に転移しないことが明かとなった。このことはアルカリセルロース結晶においても分子が動力学的に束縛されていることを示す。またアルカリ濃度を下げてゆくと室温で約1N、0℃では約0.5Nでアルカリ結晶の回折が消え、4.3Åの赤道回折のみを与えた。水洗に従って他の回折ピークに先行してこの4.3Åのピークの強度が上がるのが観測された。43Åはピラノース環が重なる距離に相当することから、上の結果はセルロースIIの再生において疎水的なピラノース面のスタッキングが先行することを示す。さらにこのセルロース分子の表面形状を検討したところ、この疎水的スタッキングは逆平行鎖に配置した場合のみCH同士の衝突を回避し得ることから、平行鎖から逆平行鎖への駆動力として疎水的な結合の安定性が大きく寄与していることが示された。

審査要旨

 本論文は地球上のバイオマスの圧倒的多量を占めるセルロースの結晶構造とその物理化学的転換の機構の解明を目指したものである。論文は第1〜9章からなる。1章はセルロースの構造研究の歴史を概説し、現在までに明らかになった点となお解明されていない点を整理している。5〜7章はX線および中性子線回折、赤外分光法によるセルロース結晶構造の精密化の試みであるが、2〜4章ではそのための方法論の改善および確立について述べている。8、9章はセルロースIからIIへの転換の機構を論じている。

 セルロースの構造解析においては高結晶性の試料を用いることが望ましいが、高結晶性セルロース試料は一般に巨視的に配向していない。本論文第2章では、これを克服するため高結晶性セルロースの微粒子を配向させる方法を述べている。申請者はセルロース微結晶の懸濁液をガラスビンに入れて回転すると棒状微結晶が配向し、かつゲル化しつつ壁面に付着するという特異な現象を見出した。この方法は独創的なものであり、セルロース結晶構造の精密決定の手段として大きな意義をもつ。またセルロース以外の棒状コロイド系にも適用できる可能性がある点で注目される。

 3章では上記の配向試料の中でなお徴結晶が特定の格子面がフィルム面に対して配向する問題を取上げ、これが回折強度に二次的な影響を及ぼすことから、その影響を除去するための方法を考察している。この部分は今後の最終解析のための基礎であり、実際のデータへの適用は今後の課題である。

 第4章ではセルロース水酸基の水素原子を重水素に置換した試料を調整する方法について述べている。重水素置換の技法は新しいものではないが、その適用を各種高結晶性セルロースへ広げ、新たに高温水蒸気処理を用いて元の結晶構造を保ちつつ迅速に重水素置換する方法を確立した。

 4〜7章では上記の配向試料と重水素置換の技法を用いて、X線回折、中性子線回折、赤外スペクトルから、従来不明確であったセルロース結晶内の水素原子の位置および振動スペクトルの帰属のいくつかを確定した。これらの結果セルロースIの平行鎖構造とセルロースIIの逆平行鎖構造はさらに確実なものとなった。とくにセルロースIIの構造は近年報告されたセロオリゴ糖の構造に近いことが確認された。

 セルロースIとIIの関係がこのように確認されると、濃厚アルカリ処理によるセルロースIからIIへの結晶変態の機構をより堅固な基礎の上に考察することが可能となる。8、9章はその具体化である。8章では配向した天然セルロース(ラミー)繊維を用いてアルカリ処理における巨視的な形態変化の挙動を調べた。この処理において繊維が強く膨潤し繊維軸方向に収縮することは以前から知られていたが、本研究ではこれを再生するときに顕著な振れが生じることに着目し、その機構を考察した。その結果、元の繊維が待つ性かなフィブリル傾角を考慮すると、幅方向の膨張と再生時の収縮の結果として捩れが生じるという機構を提案した。

 9章ではラミー繊維を用いて、X線回折図を記録しながらアルカリの濃度を変えるという新しい方法でセルロース結晶の変態の挙動を解析した。その結果、結晶構造をもつアルカリセルロースの種類は最初に乾燥繊維に接触するアルカリ液の濃度で決まり、その後異なる濃度の液に交換しても構造は変化しないことを明らかにした。このことからアルカリセルロースは高度に膨潤しているにもかかわらず液体様の流動性を持たないこと、したがって平行鎖から逆平行鎖への転換はアルカリセルロースの生成時ではなく、その後の水洗・再生時に起こると考えるべきであると結諭している。そして水洗・再生時に逆平行鎖構造ができる理由を、LX線回折図の変化とセルロース分子鎖の形状から図式的に説明した。結論としてセルロース再生時の分子会合はグルコピラノース環の上下面の疎水結合が駆動力であり、分子の形を考慮すると逆平行の方がエネルギー的に有利であることが要因であるとした。

 上記のごとく本論文はセルロースの結晶構造において従来不明であった水素原子の位置の精密決定へ向かって重要な知見を与えた点、およびそれに基づいて確定された平行鎖セルロースIと逆平行鎖セルロースIIというスキームの中でアルカリによるセルロースIからIIへの転換における逆平行鎖構造の生成の理由について明快な説明を与えた点で、実験的にも理論的にも重要な貢献をしたものと言える。

 以上を総合して本論文は学位授与の要件を満たすと判定される。また本論文内容の大部分は既に専門学術誌に発表されている。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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