学位論文要旨



No 115297
著者(漢字) 小池,恒
著者(英字)
著者(カナ) コイケ,ヒサシ
標題(和) アミロイド前駆体タンパク質の代謝・分泌機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 115297
報告番号 甲15297
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2142号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,紘一
 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 福井,泰久
 東京大学 教授 石浦,章一
 東京大学 助教授 前田,達哉
内容要旨 背景:アルツハイマー病について

 アミロイド前駆体タンパク質(APP)はアルツハイマー病(AD)の責任遺伝子産物群の一つである。その他の責任遺伝子にはプレセニリンI、II(PS I,II)があり、現在までの家族性ADの研究結果より、APP、PS I、PS IIの病原性突然変異がAD脳に老人斑(senile plaque)を蓄積させていると考えられている。老人斑の主成分は、分子量約4,000のアミロイドペプチド(A)である。すなわち、Aの蓄積が神経細胞死を引き起こし、結果として脳の萎縮により痴呆にいたるという、いわゆる"アミロイド仮説"が提唱されている。ちなみに、60-65歳以前の初老期に発症するものを狭義の"アルツハイマー病"と呼び、それ以降に発症するものを"アルツハイマー型老年痴呆症(SDAT:senile dementia of Alzheimer type)と厳密に区別することがある。頻度はSDATが圧倒的に多いが、病理学的には共通点が多いことから一括してADと呼ばれている。

 APPはヒトでは21番染色体長腕21領域(21q21)に存在し、選択的スプライシングによりいくつかのアイソフォームが作られている。その主なものは、695個のアミノ酸からなるAPP695、そして751個ならびに770個のアミノ酸からなるAPP751とAPP770である。後の2種はKunitz型プロテアーゼインヒビター(KPI:Kunitz protease inhibitor)ドメインをもち、実際にプロテアーゼ阻害作用が報告されている。また3つのアイソフォームは全身の細胞で発現しているが、ニューロンではAPP695が比較的特異的に発現している。

 Aは、APPの膜貫通ドメインの中ほどからルーメン側に突き出た部分までの、約40アミノ酸ほどがセクレターゼと呼ばれるプロテアーゼによって切断・分泌されたペプチドである。AのN末端側を切断するものが-セクレターゼ、C末端側を切断するものが-セクレターゼと呼ばれている。またAPPの大部分は、Aの16番目のリジンと17番目のロイシンの間を切断するプロテアーゼ、-セクレターゼによって切断され、A非産生型の代謝・分泌経路を通過している。-セクレターゼによって切断されたAPPのN末端断片はsAPP(secreted form APP by -secretase)と呼ばれ、特にKPIドメインを持つものは神経栄養因子としての作用があるとの報告もある。

 AはAD脳だけでなく正常脳にも見られることから、A産生はAPPの代謝・分泌過程の経路の一つであり、若年者では分泌されたAは分解除去されるが、加齢とともにA分解能の低下が生じて脳に沈着する様になり、ADにおいてはA産生経路が相対的に促進しているか、または分解能の低下が生じている、と考えられている。Aにはアミノ酸残基数が40残基のもの(A40)と42/43残基のもの(A42/43)が知られており、A42/43は凝集性や神経毒性が高く、初期のA凝集を引き起こし、主としてびまん性老人斑や老人斑の周辺部に沈着している。一方、A40は比較的可溶性が高いが凝集したA42/43を核として周囲に沈着するとされ、主として血管壁や老人斑の芯の部分に沈着している。以上のことよりADの発生機序には-セクレターゼによる切断が非常に重要であることが考えられる。また、ADにおいては-セクレターゼの活性の上昇とともに-セクレターゼの活性低下も認められるので、-セクレターゼの探索もAD治療において非常に重要だと考えられる。

研究結果1.-セクレターゼについて

 当研究室では以前よりAPPの分泌・代謝機構について研究をすすめており、-セクレターゼについても、切断部位周辺のアミノ酸配列をモチーフとしたペプチド基質(KM基質、正常APP由来:MOCAc-SEVKMDAEFR-K(RR-NH2)-DNPとNL基質、Swedish型APP由来:MOCAc-SEVNLDAEFR-K(RR-NH2)-DNP)を用いてウシ脳から精製が行われてきた。その結果、一つの候補が同定され、このタンパク質のN末端アミノ酸配列を決定したところ、thimet oligopeptidase(TOP:EC 3.4.24.15,thimet:thiol-,metallo-dependent)と呼ばれるSH依存性のメタロプロテアーゼであることが判明した。TOPはこれまでにも-セクレターゼの候補として報告されていたことから、実際に-セクレターゼとしての性質を持つかどうかを検討することとした。

 結果:まずTOPの性質を調べるに当たって、COS細胞(アフリカミドリザル腎由来線維芽細胞)や大腸菌等での発現、そしてヒトのTOPの性質を検討すべく遺伝子の単離を行った。方法はPCRによるクローニングであり、ライブラリーとしてはhuman brain cDNA libraryを用いた。まず、N末端からメタロプロテアーゼとしての活性中心を含まない、372アミノ酸残基の部分タンパク質を大腸菌で発現させ、これを抗原としてウサギ(New Zealand White種)に注射して抗TOP抗体を作成した。作成した抗体はCOS細胞で発現させたヒトTOPを認識するとともに、内在性のTOPも検出することが出来た。また、COS細胞で発現するに当たって、ヒトTOPの精製を試みることも考慮し、C末端にHis-tagを導入するとともに、その直前にMyc-tagを導入することとした。COS細胞で発現したヒトTOPについて先ほどのKM、NL基質でその活性を検討したところ、KM、NL基質に特異的にその切断活性が見られた。またその切断活性については2価金属イオンとSH試薬に依存的であった。

 次に、COS細胞に発現したヒトTOPのさらなる解析を行うために、C末端に導入したHis-tagを利用し、ヒトTOPを一過性に導入したCOS細胞15cmディッシュ25枚分より精製を行った。精製したヒトTOPについてKM、NL基質とともに、その他いくつかの人工基質(プロテアソーム、カルパイン、プロリルオリゴペプチダーゼなど)を用いて活性を測定したところ、精製したヒトTOPは-セクレターゼ切断部位をモチーフとしたKM、NL基質のみで活性が認められた。さらに、この二つの基質の切断活性を指標として種々の阻害剤の影響を検討した結果、メタロプロテアーゼ阻害剤でのみ阻害活性が見られた。以上のことからCOS細胞に発現したヒトTOPは-セクレターゼとして非常に有力な候補の一つと考えられる結果となった。

 最後にヒトTOPをAPP695とCOS細胞に共発現させ、培地中に分泌されるAPPのN末端分泌産物(sAPP:secreted form of APP)について検討した。その結果、APP695はヒトTOPと共発現したときに、APP単独時に比べsAPPの分泌量が1.3倍程度の増加が見られた。このときCOS細胞では通常優位に見られる-セクレターゼによる分泌産物(sAPP)の増加は認められず、APP単独時には検出されなかった-セクレターゼによる分泌産物(sAPP)が検出されてきた。さらにこのsAPPの分泌増加については、Aそのものの増加が見られるSwedish型APP変異体を用いたときには、野生型APPの時よりもさらに増加する結果(約1.5倍)となった。また、ヒトTOPを単独でCOS細胞に導入したときの局在は、免疫染色の結果から大部分が核に存在し、少量がゴルジ様の構造体に局在する結果となったが、APPと共発現させたときには核に局在する量が減少してAPPの局在と重複してゴルジ様の構造体に多く局在する結果となった。

2.-セクレターゼについて

 -セクレターゼについても、-セクレターゼ同様に候補遺伝子産物が報告されているが、今のところ確実な報告は無い。最近一群のプロテアーゼとして細胞膜、ないし内膜系に存在する膜結合型プロテアーゼ:ADAM(a disintegrin and metalloprotease)ファミリーがAPPをはじめとした膜タンパク質の分泌に関与しているとの報告が続いている。ADAMファミリーには受精時の膜融合に関与するとされるfertilin 、筋融合に関与するmeltrin など知られている。APPにたいしてはTNF-を前駆体フォームから成熟型に変換するTACE(TNF converting enzyme;ADAM 17)がすでに-セクレターゼ様活性を持つことが報告されている。しかしながら、TACEをknockoutしてもAPPの分泌が完全には抑制出来ないことから、他にも-セクレターゼ様活性を示すプロテアーゼが存在するのではないかと考え、比較的TACEよりも脳での発現が多くみとめられるMDC9(meltrin ;ADAM 9)に注目し研究を行った。MDC9についてはHB-EGF(heparin-binding EGF-like growth factor)をPKC依存的に切断・分泌することが報告されており、以前よりsAPPの分泌がホルボールエステルによって増加することとも一致する。

 結果:MDC9の全長(MDC9-FL)ならびにメタロプロテアーゼドメインの欠失変異体(MDC9-MP)、そしてMDC9の細胞外領域のみの変異体(MDC9-EX)を作成し、さらにそれぞれのC末端に検出・精製用にMyc-tagとHis-tagを導入したコンストラクトを作成した。これらのコンストラクトをCOS細胞に発現させたところ、MDC9-EX、MDC9-FL、MDC9-MPのいずれも糖鎖修飾を予想した分子量どおり、順に90kDa、108kDa、92kDaに検出されたが、MDC9-FLのみ予想分子量よりも25kDa程小さい83kDaのタンパク質も検出された。この83kDaタンパク質がMDC9-FLに由来するものなのかどうかを、COS細胞より部分精製し、そのN末端アミノ酸配列を決定したところ、ADAMに共通に見られる前駆体部分が切断されたメタロプロテアーゼドメインから始まるタンパク質であることが判明した。これはMDC9がCOS細胞内で糖鎖修飾をうけ、さらに全長型のみが自己消化もしくは他のプロテアーゼによって活性化型に変換されたことを示している。

 この活性化型MDC9-FL(MDC9-Pro)を用いてCOS細胞に発現させた全長APP695を切断するかを検討した結果、全長APP695はMDC9-Proによって2価金属イオン依存的に消失し、sAPPと思われる断片が生じてきた。これはin vitroで全長APPが-セクレターゼ部位で切断された初めての結果である。

 次にCOS細胞にAPP695とMDC9-FLを共発現させると、さらにTPA処理を行ったところ、sAPPの分泌増加が認められ、APP695単独発現かつTPA無処理時に比べ約10倍の分泌増加が認められた。この分泌増加はMDC9-MPとの共発現時には全く見られないか、むしろ低下していた。さらに、APP695とMDC9-FLの共発現時にメタロプロテアーゼ阻害剤を投与しておくと、sAPPの分泌は対照レベルにまで低下したことも観察された。また、このとき-セクレターゼによる分泌産物であるsAPPは、MDC9-FL+TPA処理によって全く検出されなくなったが、阻害剤を投与することで再び観察されるようになった。最後にMDC9の細胞内局在を免疫染色によって検討したところ、おもにゴルジ様の構造体に局在し、若干量が細胞膜に局在する結果を得た。この染色像はAPPと共発現しても変化は無く、APPとほぼ同様の局在を示す結果となった。

考察

 上記の2つの結果から、私はCOS細胞発現系において、TOPが-セクレターゼとして働き、MDC9が-セクレターゼとして働いていることを見出した。TOPについてはこれまでにも-セクレターゼ候補としての報告があるが、いずれもAPP全長を基質としたものでは無く、人工基質の切断活性のみでの推測であった。また、MDC9については私の結果とほぼ時を同じくして、-セクレターゼ活性を人工基質で観察した報告がある。両プロテアーゼが唯一の-、-セクレターゼであるとの確証はないが、両者がAPPの分泌・代謝経路において重要な役割を担っているプロテアーゼの一つであることは間違いないことと思われる。

 また、-セクレターゼの代謝経路を阻害すると-セクレターゼ分解産物が観察されたことは、-ならびに-セクレターゼ代謝経路が全く別の経路では無く、ちょうど天秤の両側にあたるような関係にあることを示唆していると思われた。

図表
審査要旨

 日本をはじめとした先進諸国は超高齢化社会を迎えつつあり、とくに、痴呆老人に対する介護・治療は解決すべき問題の一つである。痴呆老人のおよそ30%はアルツハイマー病患者であり、その治療・予防には社会的な関心が寄せられている。

 第一章では、アルツハイマー病(AD)について説明した後、AD責任遺伝子産物(アミロイド前駆体タンパク質:APP)の代謝過程において、AD脳では-、-セクレターゼによって神経細胞の変性を引き起こすアミロイド(A)が産生される経路が優位になることを説明し、一方、正常脳では-セクレターゼによって代謝され、Aの中心部分で切断されAが産生されない経路が主経路であることを説明している。そこでAPP代謝に重要な-セクレターゼと-セクレターゼについて研究を進めたことを述べている。

 第二章ならびに第三章において、そのための分子生物学的、生化学的手法について述べている。

 第四章で-セクレターゼについての結果を述べており、-セクレターゼ切断部位周辺を元にしたペプチド基質を用いて、thimet oligopeptidase(TOP:EC3.4.24.15)と呼ばれるSH試薬依存性のメタロプロテアーゼが候補として精製されてきた。

 そこでヒトTOP cDNAのクローニングを行い、TOPをCOS細胞で発現・精製した。精製TOPは、二価金属イオンとSH試薬に依存的に特異的な-セクレターゼ横切断活性を示した。さらに、この切断活性はメタロプロテアーゼ阻害剤でのみ阻害された。次にTOPをAPPとCOS細胞に共発現させ、培地中に分泌されるAPPのN末端分泌産物(sAPP)について検討した結果:APP単独と比べsAPPの分泌量が野生型では1.3倍程度の、Aの増加が見られるSwedish型APP変異体では約1.5倍の増加が観察された。ここでの増加は-セクレターゼによる分泌産物(sAPP)によるものではなく、-セクレターゼによる分泌産物(sAPP)の増加であった。最後にTOPの細胞内局在は、免疫染色の結果から大部分が核に存在し、少量がゴルジ様の構造体に局在する結果となったが、APPと共発現させたときには核に局在する量が減少してAPPの局在と重複してゴルジ様の構造体に多く局在する結果を得ている。

 第五章では-セクレターゼについての研究結果を述べている。一群の膜結合型プロテアーゼ:ADAM(a disintegrin and metalloprotease)ファミリーがAPPをはじめとした膜タンパク質の分泌に関与しているとの報告から、比較的脳での発現が多いMDC9(meltrin :ADAM9)に注目した。

 COS細胞にMDC9の全長(MDC9)ならびにメタロプロテアーゼドメインの欠失変異体(MP)、細胞外ドメインのみ(EXC)の変異体を発現させたところ、MP、EXCは予想分子量どおりにタンパク質の発現が見られた。しかしMDC9は、全長(108kDa)と思われるタンパク質以外に、予想分子量より小さい83kDaのタンパク質も検出された。この83kDaタンパク質について、N末端アミノ酸配列を決定したところ、前駆体部分が切断されたメタロプロテアーゼドメインから始まる活性化型プロテアーゼであることを明らかとした。そこで、この活性化型MDC9が全長APPの切断を検討した結果、二価金属イオン依存的に全長APPは切断され、sAPP断片が生じてきた。次にAPPとMDC9を共発現させ、-セクレターゼ活性を上昇するといわれるTPAで処理したところ、sAPPの分泌増加が認められ、対照に比べ約10倍の分泌増加が認められた。この分泌増加はMPとの共発現時には全く見られなかった。ここにメタロプロテアーゼ阻害剤を投与すると、SAPPの分泌は対照レベルにまで低下したことも観察された。また、このとき-セクレターゼによる分泌産物であるsAPPが、阻害剤投与によって観察されるようになった。最後にMDC9の細胞内局在は、おもにゴルジ様構造体であり、若干量が細胞膜に局在した。APPと共発現した場合でも、APPとほぼ同様のゴルジ様構造体に局在を示した。

 第六章でそれぞれについて考察を行い、総合的な検討結果として両ブロテアーゼが唯一の-、-セクレターゼであるとの確証はないが、両者がAPPの分泌・代謝経路において重要な役割を担っているブロテアーゼの一つであるとしている。

 以上本論文は、ADの-、-セクレターゼの同定を行っただけでなく、APPの代謝経路についても有力な可能性を示唆しており、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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