乳腺は哺乳類に特有の組織であり、ミルクを通して、栄養だけでなく免疫関連物質も子供に伝える。乳腺細胞は妊娠するとまもなく増殖、分化し、分娩と同時に乳汁の分泌を開始する。乳腺細胞の増殖および分化はエストロゲン、プロゲステロン、プロラクチン、インシュリン、IGF-1、EGFなどのホルモンや増殖因子などにより調節される。本格的な泌乳は妊娠末期において、血清中のプロゲステロン濃度の減少およびグルココルチコイド濃度の増加により、乳腺細胞に存在するプロラクチン受容体遺伝子が発現することにより始まる。これによって、プロラクチンが作用できる状態となり、ミルク関連の遺伝子が発現する。しかし、ミルクタンパク質以外で起こる変化については、不明なことが多い。本研究では、泌乳開始機構の遺伝子レベルでの解明を目的として、ミルクタンパク質以外で、泌乳開始時に発現する新規遺伝子の探索、クローニングを行い、その発現調節について調べた。 (第1章)マウスTim23遺伝子のクローニングとその乳腺における発現調節機構について 乳腺は泌乳期間に大量のタンパク質を合成する。その間、乳腺細胞は大量のエネルギーを産生し続ける必要がある。この様に乳腺細胞は大量のエネルギー産生を必要とすることが明らかにも関わらず、そのエネルギー産生を増加させる機構についての報告はほとんど見られない。 細胞におけるエネルギー産生器官はミトコンドリアである。ミトコンドリア自身は数百から数千種類のタンパク質から構成されているが、そのほとんどのものは核のDNAによってコードされており、細胞質のリボゾーム上で翻訳された後、速やかにミトコンドリアに取り込まれる。Tim23はミトコンドリアの内膜に局在し、このようなタンパク質の輸送に関して重要な役割を演じている。 本章では、マウス乳腺より得られたcDNAを用いて、Tim23遺伝子をクローニングしその塩基配列を決定した。乳腺では、長さの異なる4種類のmRNAが同定された。この4種類は、5’端から3’非コード領域のポリ(A)付加領域まで配列はまったく同じであるが、そこから3’末端までの塩基長が異なっていた。これらのmRNAの構造解析を行った結果、最も短いものは、1つのstem loopしか形成できないが、その他の3種類のものは2つのloopを形成できることが分かった。stem loopの数は一般にmRNAの安定性と翻訳効率に影響を与えると考えられている。 次いで、competitive PCRにより、妊娠期から泌乳期の乳腺についてTim23 mRNAの発現量の変化を調べた。その結果、Tim23の発現は、妊娠16日目から分娩にかけて増加した。そして泌乳3日目に一旦減少したが、その後再び増加した。この様に泌乳期において特異的に発現量の増加が見られたが、それをさらに確認するため、妊娠中期に卵巣を除去して泌乳を誘起したマウスについてTim23の発現量を調べた。その結果、卵巣除去後16から24時間に泌乳が誘起されるが、それと同時期にTim23の発現量が増加した。卵巣除去により、Tim23の発現量が増加したことは、カゼイン遺伝子と同様にTim23の発現がプロゲステロンにより抑制されていることを示唆している。そこで、カゼイン遺伝子の発現を調節していると考えられているプロゲステロンおよびグルココルチコイドの影響を調べた。卵巣と副腎を同時に除去したマウスにホルモンの注射を行ったところ、プロゲステロンでTim23の発現が減少し、グルココルチコイドで増加した。したがって、Tim23はカゼインとほぼ同様なホルモンの支配を受けて、その発現が調節されているものと考えられる。また、乳腺組織でTim23を多く発現している細胞種を同定するため、in situハイブリダイゼーションを行った。Tim23は乳腺上皮細胞と脂肪細胞に多く発現しており、泌乳開始に際してそのいずれの細胞においても発現量が増加した。 以上、第1章では、乳腺のTim23をクローニングして塩基配列を決定し、その発現様式およびそれに対するホルモンの影響を明らかにした。 (第2章)マウスL型アミノ酸酸化酵素遺伝子のクローニングとその乳腺における発現調節機構について 第1章で述べたTim23遺伝子のクローニングを行う過程で、泌乳期特異的に発現している遺伝子を発見した。この遺伝子は、妊娠14日目から発現が見られ、妊娠末期から泌乳初期にかけて急激に発現が増加し、泌乳中は高い発現レベルを示した。また、ノザーンブロッティングでは乳腺以外の臓器からはその発現が検出されなかった。そこで、この遺伝子のクローニングを行い、523個のアミノ酸をコードする全長1910bpのcDNAを得た。データベースを検索した結果、蛇の毒腺から分泌されるL型アミノ酸酸化酵素(L-amino acid oxidase,LAO)と最も高い相同性(43.6%)を持つことが分かった。そこで、この遺伝子を、L-amino acid oxidase like protein(LOAOLP)と命名した。さらに、LAOはその酵素活性に必要なフラビン結合領域を持つが、LAOLPもその領域を持っていることから、LAOPLもアミノ酸酸化酵素であることが強く示唆された。 LAOLP遺伝子は、上述したように泌乳期特異的に発現するが、妊娠中期に卵巣を除去して泌乳を誘起したマウスにおいてもその発現が誘導された。卵巣除去により、その発現量が増加したことは、カゼイン遺伝子と同様にLAOLPの発現がプロゲステロンにより抑制されていることを示唆している。そこで、カゼイン遺伝子の発現を調節していると考えられているプロゲステロンおよびグルココルチコイドの影響を調べた。卵巣と副腎を同時に除去したマウスにホルモンの注射を行ったところ、プロゲステロンでLAOLP遺伝子の発現が減少し、グルココルチコイドで増加した。したがって、LAOLPはカゼインとほぼ同様なホルモンの支配を受けて、その発現が調節されているものと考えられる。また、乳腺組織でLAOLPを多く発現している細胞種を同定するため、in situハイブリダイゼーションを行った。LAOLPは乳腺上皮細胞にのみ発現が認められ、泌乳開始に際してその発現量が増加した。 アミノ酸配列の分析を行ったところ、LAOLPはN末端にシグナルペプチドの配列を持ち、さらに膜結合性タンパク質に見られるような疎水性アミノ酸のクラスターが見られないことから、分泌タンパク質でありミルク中に分泌されている可能性が高いと考えられた。そこで、乳清を試料として蛇毒の抗体によるイムノブロッティングを行ったところ、分子量59,000の位置に特異的なバンドが検出された。そこで、もしLAOLPがミルク中でLAOとして機能しているならば、その基質となる疎水性の中性アミノ酸あるいは芳香族アミノ酸の分解が進んでいる可能性があるため、それを確かめる目的でミルク中の遊離アミノ酸量の分析を行った。その結果、ロイシン、メチオニン等の疎水性の中性アミノ酸あるいはフェニイルアラニン、チロシン等の芳香族アミノ酸はミルク中にまったく検出されなかった。一方、LAOの基質となりにくいグルタミン酸などの親水性の酸性アミノ酸は検出された。そこで、乳清中に18種類のアミノ酸を同時に加え、その分解を調べたところ、疎水性の中性アミノ酸、芳香族アミノ酸のみが急激に分解され、親水性の酸性アミノ酸はまったく分解されなかった。また、乳清にLAOの基質となるロイシンを加えたところ、過酸化水素の発生が検出された。これらの結果は、マウスミルク中にLAO活性が存在することを示している。LAOはアミノ酸をを基質として、過酸化水素を発生する反応を触媒することから、LAOLPはミルク中で抗菌作用を示していることが考えられる。 以上より、哺乳類において初めてLAOを同定し、それが乳腺特異的に泌乳期にだけ強く発現することを明らかにした。このタンパク質の生理的役割については今後の検討を必要とするが、LAO活性がミルク中に認められたこと、そしてその触媒する反応から予測して、LAOLPはミルク中で抗菌作用を持つものと予想される。 |