学位論文要旨



No 115310
著者(漢字) 有賀,美也子
著者(英字)
著者(カナ) アリガ,ミヤコ
標題(和) トロピックホルモンによるインスリン様成長因子のシグナル増強機構の解析
標題(洋)
報告番号 115310
報告番号 甲15310
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2155号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 西原,眞杉
内容要旨

 インスリン様成長因子(IGF)は、多くの細胞の増殖・分化に必須なホルモンであり、個体レベルでは動物の発達や成長に重要な役割を果たしている。IGFの生理作用の特徴として、単独での生理活性は弱いが、他のホルモンの存在下で活性が増強される点が挙げられる。したがって、IGFの生理活性発現機構を明らかにするためには、他の因子とIGFのシグナルのクロストーク機構を解明することが重要である。我々はこれまでの研究で、ラット甲状腺由来正常細胞FRTL-5を甲状腺刺激ホルモン(TSH)とIGF-Iで処理することにより、細胞増殖が相乗的に増強されることを発見した。このモデルを用いてTSHによるIGF-I活性の増強機構を解析した結果、TSHをはじめとするcAMP情報伝達経路を活性化する薬剤で細胞を長時間刺激すると、細胞内タンパク質のIGF-I依存性チロシンリン酸化が著しく増強し、この変化と相関してIGF-I依存性DNA合成が増強されることを見出した。この結果は、cAMP経路の長時間刺激によって、IGF-Iシグナルが増強される結果、細胞増殖が相乗的に増強される可能性を強く示している。

 そこで、本論文では、FRTL-5細胞を用いて、まず、1)cAMP前処理が、IGF-I依存的なIGF-Iレセプターキナーゼの活性化、レセプターキナーゼ基質のチロシンリン酸化に及ぼす影響を調べる、次に、2)IGF-I依存的なレセプターキナーゼ基質のチロシンリン酸化のcAMP前処理による増強機構を解析する、最後に、3)これらのチロシンリン酸化の増強が、IGF-Iの代表的なシグナル伝達経路であるMAP kinaseカスケードあるいはphosphatidylinositol 3-kinase(PI 3-kinase)カスケードに与える影響およびカスケード活性化の細胞増殖の増強における意義を明らかにすることにより、トロピックホルモンによるIGF-Iシグナルの増強機構を解明することを目的として研究を行った。

1.cAMP経路の活性化がIGF-Iレセプターキナーゼおよびその基質のIGF-I依存性チロシンリン酸化に及ぼす影響

 IGF-Iレセプターキナーゼは、IGF-Iの結合によって活性化され、レセプターを自己リン酸化、さらにレセプターキナーゼ基質であるInsulin receptor substrate(IRS),Shc,Crk,Jak2などをチロシンリン酸化することが明らかとなっている。そこで、静止期のFRTL-5細胞をTSHあるいはdibutyryl cAMPなどcAMP経路を刺激する薬剤で24時間前処理後、IGF-Iで刺激し、IGF-Iレセプターキナーゼ活性を測定、あるいは各レセプターキナーゼ基質のチロシンリン酸化を調べた。まず、IGF-I依存的なIGF-Iレセプターのキナーゼ活性化および自己リン酸化は、cAMP前処理による影響を受けなかった。一方、レセプターキナーゼ基質のうち、IGF-I依存的にIRS-1,IRS-2,Shcのチロシンリン酸化が観察され、中でもIRS-2とp66 ShcのIGF-I依存性チロシンリン酸化がcAMP前処理により増強された。これらの結果は、cAMPシグナルによりIGF-Iシグナルがレセプターキナーゼの活性化以降の段階で増強されることを示している。

2.cAMP経路の活性化がIRS-2およびp66 ShcのIGF-I依存性チロシンリン酸化を増強する機構1)IRS-2チロシンリン酸化の増強機構

 まず、cAMP処理によりIRS-2量が増加するかどうか調べるために、cAMP存在下・非存在下で24時間培養した細胞の抽出液を抗IRS-2抗体によるイムノブロッティングに供した結果、cAMP処理によりIRS-2量は増加しないことが明らかとなった。そこで、cAMP処理によりIRS-2に何らかの修飾が起こり、IGF-Iレセプターキナーゼにリン酸化されやすくなる可能性を検討した。すなわち、cAMP処理した細胞・非処理の細胞からそれぞれ免疫沈降によってIRS-2を調製し、次に、あらかじめ精製した活性型IGF-IレセプターをATPとともに加え、in vitroリン酸化反応を行い、IRS-2のチロシンリン酸化を比較した。その結果、cAMP処理細胞より調製したIRS-2のチロシンリン酸化量が有意に増加した。更に、それぞれの細胞から調製したIRS-2を、アルカリホスファターゼ処理をしてセリン/スレオニンリン酸化を除去する、あるいは高塩濃度で洗浄しIRS-2に結合しているタンパク質を除去する処理をした後に、in vitroリン酸化反応を行ったところ、IRS-2のチロシンリン酸化の増加が認められなくなった。cAMP処理後のIRS-2がセリンリン酸化されている結果を併せると、cAMP処理によりIRS-2のセリン/スレオニンリン酸化、かつ、何らかのタンパク質の結合により、IRS-2とIGF-Iレセプターとの親和性が高まり、IRS-2のチロシンリン酸化量が増加すると考えられた。

2)p66 Shcチロシンリン酸化の増強機構

 Shcには、分子質量66kDa,52kDa,46kDaの3つの分子種が存在することが知られている。まず、cAMP処理後のそれぞれのタンパク量を調べたところ、cAMP処理時間および濃度に依存してp66 Shcの量が顕著に増加することを発見した。この結果から、cAMP処理によるp66 ShcのIGF-I依存性チロシンリン酸化の増強の少なくとも一部は、p66 Shc量の増加によって説明できると考えられた。一方、Shc遺伝子は、alternative splicingによってp66,p52,p46をコードする長いmRNAとp52,p46をコードする短いmRNAの2種類を生成し、それぞれのmRNA上の異なる翻訳開始点を利用して、3種類の分子種が作られることが明らかになっている。そこで、ノザンブロッティングによりShc mRNAの量を測定したところ、p66をコードするmRNAは、cAMP処理時間および濃度依存的に著しく増加した。p66をコードするmRNAは同時にp46,p52もコードしていることから、cAMPに応答して選択的にp66の翻訳を促進するような機構の存在も示唆していた。これらの結果より、Shcは、cAMP処理に応答して転写・翻訳が活性化され、特にp66 Shcが増加するため、IGF-Iレセプターによるチロシンリン酸化が増強されると結論した。

3.IGF-Iシグナル伝達系下流に伝えられるIGF-I依存性チロシンリン酸化の増強とその生理的意義1)MAP kinaseカスケードに伝えられるシグナル

 IGF-Iなどの増殖因子の刺激により、IRSやShcなどがチロシンリン酸化されると、リン酸化チロシン残基を認識してSH2ドメインを有するGrb2が結合し、その結果Grb2と結合しているGDP/GTP交換因子Sosが細胞膜近くに運ばれる。Sosは膜にanchoringしているGタンパク質Rasを活性化、Rasが複数のMAP kinaseカスケードを活性化して、細胞の増殖および分化を誘導することが知られている。そこで、まず、cAMP前処理後IGF-Iで処理した際にチロシンリン酸化IRS-2,Shcと結合するGrb2量を測定した。その結果、cAMP前処理により、IGF-I依存的なIRS-2とGrb2の結合はやや増加し、ShcとGrb2の結合は顕著に増加することがわかった。続いて、cAMP前処理がIGF-I依存性MAP kinase活性化に及ぼす影響について検討した。一般に、複数のMAP kinaseファミリーのうち、p42/44 Erkは増殖因子に応答して活性化されるのに対して、p38 MAP kinaseはストレスやサイトカインに応答して働くと考えられている。まず、cAMP前処理によりIGF-I依存的なp42/44Erk活性化は増強されたが、驚いたことに、IGF-I依存的なp38 MAP kinase活性化も、cAMP前処理により顕著に増強され、その増強の程度は、p42/44 Erkの場合よりも大きいことが明らかとなった。次に、静止期のFRTL-5細胞をdibutyryl cAMP存在下・非存在下で培養後、p42/44 Erkを活性化するMEKの阻害剤PD98059またはp38 MAPK阻害剤SB203580をIGF-Iと共に添加し、更に24時間培養、DNA合成量を測定した。その結果、PD98059はcAMP前処理後のIGF-I依存性DNA合成の相乗的な増強を約30%、SB203580は約70%抑制し、更に、PD98059とSB203580を同時に添加すると、増強は完全に抑制された。これらの結果から、MAP kinaseカスケードの活性化は、cAMPによるIGF-I誘導性DNA合成の増強に必須であることが明らかとなった。

2)PI 3-kinaseカスケードに伝えられるシグナル

 IRSのリン酸化チロシン残基は、PI 3-kinase p85調節サブユニットのSH2ドメインにより認識されることも報告されている。IRSに相互作用したPI 3-kinaseは、細胞膜中のPIをリン酸化、この産物によりシグナル分子が細胞膜近くに呼び寄せられたり、酵素が活性化されたりすることにより、下流にシグナルが伝えられ、このPI 3-kinaseカスケード活性化も、細胞増殖や分化誘導、細胞死の抑制などに重要なシグナル伝達系と考えられている。そこで、cAMP前処理後、IGF-Iで刺激した際のIRS-1およびIRS-2に結合するp85 PI3-kinase量を測定したところ、cAMP前処理によりIGF-I依存的にIRS-2に結合するp85の量が相乗的に増加し、IRS-2のチロシンリン酸化の増強をよく反映する結果となった。さらに、我々のグループの研究成果から、IRS-2に結合するPI 3-kinase活性も、IRS-2とp85の結合量と良く相関していることが明らかとなっている。一方、IGF-I依存性IRS-1のチロシンリン酸化はcAMP前処理により変化しなかったが、IRS-1に結合するp85の量およびPI 3-kinase活性は有意に減少した。このように、cAMP前処理により、IRS-1とIRS-2は、IGF-I依存的なチロシンリン酸化、PI 3-kinaseとの結合量の2つの段階で異なる制御を受けることを初めて見出した。また、cAMP前処理後、IGF-Iで24時間処理する際にPI3-kinaseの阻害剤であるLY294002を添加した結果、cAMPにより増強されるIGF-I誘導性DNA合成が完全に抑制された。これらの結果は、cAMP前処理によるIGF-I依存性IRS-2のチロシンリン酸化の増強を介して、相乗的に強められたPI 3-kinaseの活性がcAMPとIGF-Iによる相乗的な増殖誘導に重要な役割を果たすことを示している。

総括

 今回の研究成果より、FRTL-5細胞において、cAMP経路の活性化により、IGF-I誘導性DNA合成が相乗的に増強される過程で、cAMP前処理により異なる機構によりIRS-2とp66 ShcのIGF-I依存性チロシンリン酸化が増強され、この増強されたシグナルは、それぞれMAP kinaseカスケードおよびPI 3-kinaseカスケードに伝えられ、少なくともこれらのカスケードの活性化は、DNA合成の相乗的増加に必須であることを明らかにすることができた。今後、これらの研究成果をもとに、内分泌細胞の増殖・分化におけるトロピックホルモンとIGFの普遍的な相互作用機構が明らかにされ、シグナルのクロストークという新しい観点から、IGFの生理的意義が明らかにできるものと期待している。

審査要旨

 インスリン様成長因子(IGF)は、多くの細胞の増殖・分化に必須なホルモンであり、個体レベルでは動物の発達や成長に重要な役割を果たしていることが広く知られている。IGFの生理作用の特徴として、単独での生理活性は弱いが、他のホルモンの存在下で活性が増強される点が挙げられる。したがって、IGFの生理活性発現機構を明らかにするためには、他の因子とIGFのシグナルのクロストーク機構を解明することが重要である。申請者らの研究グループでは、ラット甲状腺由来正常細胞FRTL-5を甲状腺刺激ホルモン(TSH)とIGF-Iで処理することにより、細胞増殖が相乗的に増強されることを発見し、TSH処理に応答したcAMP経路の長時間刺激によってIGF-Iシグナルが増強され、その結果、細胞増殖が相乗的に増強されるという機構が想定されている。

 このような背景のもと、本論文は、FRTL-5細胞を用いて、cAMP前処理によりIGF-Iシグナルが増強される機構を解析し、このIGF-Iシグナルの増強がcAMP処理によって起こるIGF-I依存性細胞増殖の増強に果たす役割を明らかにしたものである。論文は、序論、3章、総合討論からなる。

 まず、序論では、IGFの性質や細胞内情報伝達経路などを概説し、本研究の背景および意義を述べた後、本論文の構成について記している。

 次に、第1章では、cAMP経路の活性化がIGF-Iレセプターキナーゼおよびその基質のIGF-I依存性チロシンリン酸化に及ぼす影響について解析している。その結果、TSHあるいはcAMPアナログの前処理は、IGF-Iレセプターキナーゼの活性化には影響しないのに対して、その基質であるIRS-2およびp66ShcのIGF-I依存性チロシンリン酸化を増強することが明らかとなった。これらの結果より、cAMPシグナルによりIGF-Iシグナルがレセプターキナーゼの活性化以降の段階で増強されると結論している。

 続いて、第2章では、チロシンリン酸化の増強が観察されたIRS-2およびp66 ShcのIGF-I依存性チロシンリン酸化を増強する機構を検討している。IRS-2については、cAMP処理によりIRS-2のセリン/スレオニンリン酸化が起こり、何らかのタンパク質が結合することにより、IRS-2とIGF-Iレセプターとの親和性が高まり、IRS-2のチロシンリン酸化量が増加する機構を提唱している。一方、cAMP処理によるp66 ShcのIGF-I依存性チロシンリン酸化は、p66 Shc量の増加によって説明できることが明らかとなった。更に、Shcは、cAMP処理に応答して転写・転写後調節、そして翻訳調節が行われ、Shcの3つのアイソフォームのうち、特にp66 Shcの合成が増加することを見出した。

 第3章では、IGF-I細胞内シグナル伝達系として、MAP kinaseカスケードとphosphatidylinositol(PI)3-kinaseカスケードに注目し、これらの経路に伝えられるIGF-I依存性チロシンリン酸化の増強とその生理的意義について解析を行っている。まず、cAMP前処理に応答して引き起こされるIRS-2およびShcのIGF-I依存性チロシンリン酸化の増強は、これらの基質を認識して結合するGrb2量に反映し、下流のMAP kinaseカスケードに伝えられることがわかった。更に、MAP kinaseカスケードの活性化はcAMPによるIGF-I誘導性DNA合成の増強に必須であることも明らかとなった。一方、IRS-2のチロシンリン酸化の増強は、やはりPI 3-kinaseカスケード下流に伝達され、相乗的に強められたPI 3-kinaseの活性がcAMPとIGF-Iによる相乗的な増殖誘導に重要な役割を果たすことを見出した。

 総合討論では、本研究で得られた結果をまとめ、その意義について総括し、今後の研究の展望を述べている。

 以上、本論文は、内分泌細胞において、トロピックホルモン刺激に応答したcAMP経路の活性化により、IGFシグナルが増強される結果、細胞増殖が相乗的に増強されるという新しい相乗作用発現機構を明らかにしたもので、学術上・応用上貢献するところが少なくない。したがって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位として価値あるものと認めた。

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