学位論文要旨



No 115311
著者(漢字) 犬塚,博之
著者(英字)
著者(カナ) イヌヅカ,ヒロユキ
標題(和) マウス脂肪前駆細胞における初期応答遺伝子の探索とその転写制御に関する研究
標題(洋)
報告番号 115311
報告番号 甲15311
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2156号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 東條,英昭
 東京大学 教授 小野寺,節
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 松本,芳嗣
 東京大学 助教授 内藤,邦彦
内容要旨

 脂肪組織は過剰なエネルギーを貯え、必要なときに迅速に他の組織にエネルギーを供給するために分化した器官である。このように脂肪組織は生命維持のための重要な働きを担っているが、現代社会においては、食生活の欧米化や運動量の低下などの環境因子に起因する脂肪の過剰蓄積、すなわち肥満が、糖尿病、高脂血症、高血圧など様々な疾病の引き金となっている。進化の過程で、ヒトはエネルギーを脂肪として体内に保持しやすく、かつ放出しにくいという生理的特徴を有するようになった。こうした特性が、脂肪組織の形成能力の発達という形で、ヒトの肥満発症と深く関わっていると考えられる。

 生体エネルギーは主に食物摂取に依存しているが、脂肪組織は一連の脂肪細胞の増殖と分化の過程を介して、極めて効率的にエネルギーを脂肪の形態で体内に保存する。脂肪細胞の分化制御は、食物摂取や運動などの環境因子によって調節されていることが明らかになりつつある。特に、脂肪組織内でスタンバイする脂肪前駆細胞は、環境因子がシグナルとなってすみやかに脂肪細胞へ分化する。従って、脂肪細胞の分化の制御機構や代謝特性を分子レベルで把握することは、体脂肪蓄積による病態発症機序の解明に大きく役立つものと思われる。

 こうした背景から、本研究は、脂肪細胞分化刺激により誘導される初期応答遺伝子群に着目してそれらを網羅的に捕捉し、脂肪細胞分化のtriggerとなる遺伝子群のクローニングを試みることを目的とした。第1章では、differential hybridization法を用いて脂肪細胞分化刺激により誘導される初期応答遺伝子群の単離を行い、それらの誘導発現パターンの比較と、誘導に必要と思われる主要なシグナル伝達経路の同定を試みた。第2章では、脂肪細胞分化刺激で誘導される遺伝子として単離した転写因子zf9マウスホモログのmRNA発現制御の詳細なcharacterizationを行った。

第1章脂肪前駆細胞3T3-L1への分化刺激により発現が誘導される初期応答遺伝子群の同定とその発現制御機構の解析

 脂肪細胞分化の研究において分化の方向を規定する初期応答遺伝子はC/EBP を除きこれまでほとんど同定されていない。そこで、differential hybridization法を用いて、分化誘導刺激後3時間の細胞と刺激を加えない細胞での遺伝子発現量の比較を行うことにより、分化の初期ステージで発現が誘導される初期応答遺伝子群の単離を試みた。プライマリーライブラリー約7万プラークのスクリーニングで、スクリーニング当初は新規遺伝子であったzf9を含め17種類の初期応答遺伝子が単離された。ノーザンブロット解析を用いた各クローンの誘導性に関する解析から、刺激後1時間以内に誘導され、その後すみやかに転写産物が消失するグループ(junB、egr-1、tis10)と誘導後24時間以内にゆるやかに転写産物が減少するグループ(N-10、cyr61、erp、Id-3、gene33)およびG0期細胞中ですでに一定量存在する転写産物が刺激により一過性に数倍程度上昇するグループ(zf9、stra13)に分類された。zf9およびstra13を除くすべてのクローンは初期応答遺伝子としての報告がなされていたが、zf9およびstra13に関しては今回のスクリーニングで、始めて初期応答遺伝子としての知見が示された。また、このzf9、stra13は、これまでの初期応答遺伝子の発現パターンとは一線を画している。

 次に、分化刺激により、これら初期応答遺伝子群がどのようなシグナル伝達経路を介して誘導されてくるかを、各種キナーゼの特異的インヒビターを用いて解析した。その結果、誘導遺伝子群は、その発現の主要経路にMEKとPKCが主に関与しているグループ(c-fos、junB、egr-1、tis11、tis21、Thrombospondin1、erp、N-10、cyr61、zf9)とMEK、PKCのほか、PI3Kが主に関与するグループ(gene33、tis10)、およびいずれにも属さないグループに分類された。

 以上の結果から、分化刺激により誘導される初期応答遺伝子群は、共通、または、それぞれに異なったシグナル伝達経路によって制御を受けていることが明らかとなった。

第2章Kruppel様転写因子、マウスzf9の全長cDNAクローニングとその性状解析

 第1章のスクリーニングでデータベースに登録のなかった新規のクローンを得ることができた。のちにこの配列はヒト、ラットで相次いで報告され、転写因子zf9のマウスホモログと位置付けられたが、機能に関する所見がほとんど得られていなかったことから引き続き解析を継続した。マウスzf9 cDNAは、全塩基数4191bpでオープンリーディングフレームは、284アミノ酸残基の蛋白をコードしている。cDNAの特徴として3.2kbに及ぶ長い3’非翻訳領域を有するが、ヒトおよびラットでの配列の報告はコーディング領域周辺に限られており、5’及び3’非翻訳領域を含む全長配列の報告は今回のマウスが始めてである。予想される蛋白質の一次構造はいくつかの特徴ある構造をもっており、N末端側から、グルタミン酸、アスパラギン酸に富む酸性領域、およびセリン、スレオニンに富む領域が存在し、またC末端側に3ケ所のzinc fingerドメインが存在する。このC末端側のDNA結合ドメインの構造がショウジョウバエの分節遺伝子Kruppelと相同性を示すことから、zf9はKruppel like factor familyに属すると考えられる。

 一般に、ある遺伝子のもつ生理的役割を理解するうえでは、その遺伝子がどのような発現制御を受けているかを解析する発現制御解析、およびその遺伝子産物としての蛋白質がどのような機能を有するかを解析する機能解析の両面からのアプローチが必要不可欠である。本研究ではこうした見地から、まずマウスzf9 mRNAの詳細な発現解析を行った。マウスzf9のトランスクリプトはG0期細胞中ですでに一定量存在しており、分化誘導刺激により一過性に上昇し、その後すみやかに消失した。また、zf9の発現を制御する具体的な誘導経路の同定を行ったところ、血清、インスリン、cAMPおよびTPA単独の刺激においてもzf9の誘導が確認された。次に、こうしたmRNAの一過性の発現上昇がどのような機構で調節されているかを転写調節、および転写後調節の両面からアプローチした。Nuclear run-onアッセイおよびzf9 mRNAの半減期の計測から、マウスzf9 mRNAの血清刺激によるRNA量の増加は、転写速度の上昇およびmRNAの安定化によることが明らかとなった。ノーザン解析によりマウス個体の主要組織及び胎児でのzf9 mRNAの発現を調べたところ、それらのほぼすべてにおいて発現が認められた。

 次にマウスzf9の生理的機能の解明と脂肪細胞分化への関与の可能性を探ることを目的として、種々のトランスフェクションアッセイを行った。マウスZf9の転写活性化または転写抑制部位を同定するため、N末端側から段階的にドメインを欠失させたコンストラクトを作成し、レポーターアッセイを行った。その結果、Zf9の転写活性化にはN末端側の酸性ドメインが必須であるほか、このドメインを欠失させた蛋白は内在性Zf9の活性を抑制するドミナントネガティブの機能を有することが明らかとなった。さらに、Zf9が、脂肪細胞分化のマスターレギュレーターとして報告されているC/EBP蛋白質やPPARと同様に細胞分化に関与している可能性を探るため、Zf9を通常では脂肪細胞に分化しない線維芽細胞NIH-3T3に過剰発現させて分化誘導能があるか否かを観察したが、明らかな表現型は観察されなかった。今後は、レトロウイルス系を用いた発現系の使用による遺伝子導入効率の改善か、3T3-L1細胞にZf9の野生型もしくはドミナントネガティブ型を導入してその分化への関与を検討する必要があると思われる。Zf9の転写因子としての機能を探るためには、Zf9が制御する下流標的遺伝子の同定が必要不可欠である。本解析では、ドミナントネガティブ型Zf9のテトラサイクリンを用いた誘導発現系を構築し、cDNAアレイシステムとの併用により,zf9下流標的遺伝子の同定を試みた。ドミナントネガティブ型Zf9の発現誘導が血清刺激により誘導される遺伝子群の発現に及ぼす影響を、アレイ上の588種類の遺伝子を対象に検索したが、その影響はみられなかった。今後はさらに対象とする遺伝子の数を増やし、解析を継続する必要があると思われる。

 マウスzf9は、個体及び培養細胞におけるmRNAの発現パターンからその遺伝子機能の重要性が示唆されるが、Zf9蛋白質の生理的機能の解明のためには細胞レベルの解析のみでは不十分であり、今後は遺伝子過剰発現マウスやノックアウトマウスを用いたin vivo解析系の構築が必要不可欠であると考えられる。

審査要旨

 脂肪組織は過剰なエネルギーを貯え、必要なときに迅速に他の組織にエネルギーを供給するために分化した器官である。食生活の欧米化や運動量の低下などの環境因子に起因する脂肪の過剰蓄積による肥満が、糖尿病、高脂血症、高血圧など様々な疾病の引き金となっている。脂肪組織は一連の脂肪細胞の増殖と分化の過程を介して、極めて効率的にエネルギーを脂肪として体内に保存する。脂肪細胞の分化制御は、食物摂取や運動などの環境因子によって調節されていることが明らかになりつつある。特に、脂肪組織内の脂肪前駆細胞は、環境因子がシグナルとなってすみやかに脂肪細胞へ分化する。従って、脂肪細胞の分化の制御機構や代謝特性を分子レベルで把握することは、体脂肪蓄積による病態発症機序の解明に大きく貢献するものと思われる。

 本研究は、脂肪細胞分化刺激により誘導される初期応答遺伝子群に着目してそれらを網羅的に捕捉し、脂肪細胞分化の引き金となる遺伝子群のクローニングを試みることを目的とした。

 第一章では、differential hybridization法を用いて脂肪細胞分化刺激により誘導される初期応答遺伝子群の単離を行い、プライマリーライブラリーのスクリーニングにより、Zf9を含め17種類の初期応答遺伝子が単離された。各クローンの誘導性に関する解析から、刺激後1時間以内に誘導され、その後すみやかに転写産物が消失するグループと誘導後24時間以内にゆるやかに転写産物が減少するグループおよびG0期細胞中ですでに一定量存在する転写産物が刺激により一過性に数倍程度上昇するグループに分類された。つぎに、分化刺激により、これら初期応答遺伝子群がどのようなシグナル伝達経路を介して誘導されてくるかを解析した。その結果、誘導遺伝子群は、その発現の主要経路にMEKとPKCが主に関与しているグループとMEK、PKCのほか、PI3Kが主に関与するグループ、およびいずれにも属さないグループに分類された。これらの結果から、分化刺激により誘導される初期応答遺伝子群は、共通、または、それぞれに異なったシグナル伝達経路によって刺御を受けていることを明らかにした。そのうち、マウスZf9 cDNAは、全塩基数4191bpでオープンリーディングフレームは、284アミノ酸残基の蛋白をコードしている。cDNAの特徴として、ヒトおよびラットの配列に比べ3.2kbに及ぶ長い3’非翻訳領域を有するが、5’及び3’非翻訳領域を含む全長配列の報告は今回のマウスが初めてである。

 第二章では、Zf9の発現制御解析およびその遺伝子産物としての蛋白質がどのような機能を有するかを解析した。マウスzf9の転写産物はG0期細胞中ですでに一定量存在しており、分化誘導刺激により一過性に上昇し、その後すみやかに消失した。また、血清、インスリン、cAMPおよびTPA単独の刺激においてもzf9の誘導を確認した。次に、Nuclear run-onアッセイおよびZf9 mRNAの半減期の計測から、マウスZf9 mRNAの血清刺激によるRNA量の増加は、転写速度の上昇およびmRNAの安定化によることを明らかにした。一方、ノーザンブロット解析によりマウス個体の主要組織及び胎児でのZf9 mRNAの発現を調べたところ、それらのほぼすべてにおいて発現を認めた。つぎに、マウスzf9の生理的機能の解明と脂肪細胞分化への関与の可能性を探ることを目的として、種々のトランスフェクションアッセイを行った。その結果、Zf9の転写活性化にはN末端側の酸性ドメインが必須であるほか、このドメインを欠失させた蛋白は内在性Zf9の活性を抑制するドミナントネガティブの機能を有することを明らかにした。

 以上、本研究は、マウス脂肪細胞の分化誘導に重要なzf9を単離し、その遺伝子の構造、転写制御、さらには、生理的機能を明らかにし、農学学術上貢献するところが少なくない。

 よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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