多くの動物種においては、受精卵の時期から存在するgerm plasmという構造物を取り込んだ細胞のみが、生殖細胞へと運命決定されることがわかっている。しかし哺乳類においてはそのような構造は無く、生殖細胞の運命決定の機構は不明である。マウスの始原生殖細胞(Primordial Germ Cell;PGC)は、胎生8日目の胚の後端部において最初に識別され、胎生10-11日目に生殖巣へと移動し、性分化を経て配偶子形成細胞へと分化する。PGCは胎生6-7日目胚のepiblastと呼ばれる未分化な細胞集団から小さな細胞集団として派生することはわかっているが、この時期のepiblastの細胞は全て等価であり、PGCへと運命決定される細胞がどのようにして選別されるのかはわかっていない。私はepiblastからPGCへの運命決定がどのようにして行われるのかということの解明を目指して、マウスVasa遺伝子に着目して研究を行った。 本研究の第一章においては、マウスvasa発現細胞の発生様式とノックアウトマウスによるvasa遺伝子の機能解析について報告した。Vasa遺伝子はショウジョウバエの生殖細胞決定因子の一つとして最初に単離された。その遺伝子産物はRNAヘリケースであり、生殖細胞の発生に関わる遺伝子の翻訳制御を行っていると考えられている。マウスVasaホモログ遺伝子は1994年に三菱生命科学研究所の藤原らによって単離された。Vasa蛋白は胎仔生殖巣内のPGCと、精巣の精細胞においてのみ発現が認められていた。しかし当所使用していたペプチド抗体では、組織学的解析を行うことが非常に困難であり、評細な発現パターンについての解析は不可能であった。そこで私はまず、VasaとGSTの融合蛋白質を使用して抗Vasa特異抗体を作製し、発生過程におけるVasa蛋白の発現パターンについて、詳細な解析を行なった。その結果、発生初期の胚体においては発現細胞は全く検出されず、10日-11日目胚の胎仔生殖巣内に定着したPGCで発現が認められ、その後の発生過程においてもPGCのみが特異的に発現を示すことが分かった。成体においても雄の精細胞及び雌の卵細胞においてのみ発現が観察された。これらの観察より、Vasa蛋白はマウスにおいても生殖細胞特異的な発現様式を示すこと、生殖巣に定着した後のPGCで初めて発現が誘起されることが明らかとなった。これらの結果より、Vasa蛋白はPGCの分化に重要な役割をもつことが推測された。また、精巣の精母細胞および精子細胞では抗Vasa抗体によって、核の近傍に顆粒状の構造が観察され、それらは免疫電顕の結果、クロマトイドボディーであることが確認された。クロマトイドボディーは哺乳類の精細胞にみられる構造体で、形態および形成過程がショウジョウバエの生殖質であるpolar glanureに似ていることが知られているが、この結果よりpolar glanureとクロマトイドボディーが形態だけではなく、Vasa蛋白の局在という類似点をもつことが新たにわかった。 次にVasa蛋白の機能について考察するため、マウスVasa遺伝子のknock-outによる機能解析を行った。ノックアウトマウスの作出は三菱生命科学研究所の分子生殖発生学研究室で行われ、私は組織学的解析の部分を担当した。Vasa-/-マウスは雄の精巣においてのみ異常が観察され、組織学的解析を行ったところ、減数分裂初期の精細胞において異常が確認された。またVasa蛋白の高発現が始まる12日目胚の胎仔期の生殖巣の観察を行ったところ、雄のVasa-/-マウス胚の胎仔精巣では正常なものと比較して、PGCの数が顕著に少ないことがわかった。Vasa蛋白は胎仔期の雄PGCの分化及び増殖と、成体の精細胞の正常な分化に必須であることが示された。 本研究の第二章においては、in vitroにおけるPGCの決定、分化機構のモデル系の構築についての報告を行った。以上に示したように、knock-outマウスの解析結果は非常に興味深いものであったが、マウスにおいてはVasaは生殖細胞決定因子では無いことが同時に明らかとなった。生殖細胞の決定因子を同定することが究極的な目標である為、次はVasaの発現を指標にして、in vitroにおけるPGCの決定、分化機構のモデル系をつくることを考えた。 マウスのPGCは、未分化な細胞集団であるepiblastから分化することはわかっているが、PGCの決定、分化について分子レベルでの解析は殆ど行われていない。その理由の一つは、PGCの数が少なく研究材料にすることが困難であること、二つ目には、マーカーとして使用できる分子が無いこと、が挙げられる。VasaはPGCにおいてのみ発現が見られ、発生初期には発現は見られないため、唯一PGCの分子マーカーになりうると考えられる。このような背景をふまえ、Vasaの発現を指標にしたPGCの決定分化機構のモデル系をつくることを試みた。未分化細胞からのPGC分化のモデルとして、ES細胞を使った系を考えた。ES細胞は、浮遊培養を行い分化誘導をかけることで胚様体を形成し、胚様体内部では三胚葉を含む様々な細胞種の分化が起こることが知られており、実際に血球細胞等の発生、分化の研究において非常に有用であることが示されている。このES細胞の分化系においてPGCを高感度で検出するために、GFPおよびlacZ遺伝子をマーカーとして、Vasa遺伝子座にknock-in(挿入)したES細胞、つまり内在性のVasaの発現をlacZおよびeGFPに置き換ええたES細胞を樹立し、それらのES細胞からのPGCの分化を、マーカー遺伝子の発現により定量的に解析する系をつくることを目標とした。 knock-in ES細胞で胚様体形成を行うと、培養5日目の胚様体において、マーカー(GFPおよびlacZ)発現細胞、すなわちVasa発現細胞が少数出現することが確認された。これらのマーカー発現細胞は抗Vasa抗体で染色され、Vasa発現のレポーティングが正しく行われていることが確認された。またPGCの分化誘導を行うと考えられている初期胚の胚体外組織、あるいは胚体外組織から樹立されたTS細胞株(trophoblast stem cell)とknock-in ES細胞を共培養する試みを行った結果、胚体外組織の細胞がVasa発現細胞に対して強い誘導能力を持つことが示された。さらに最近、ノックアウトマウスの解析結果から胚体外組織からの誘導因子の候補と考えられているBMP4を強制発現する細胞株を樹立し、knock-in ES細胞と共培養を行った結果、BMP4発現細胞が胚体外組織の細胞同様、Vasa発現細胞に対して強い誘導能力を持つことが示された。 これらの結果から、本研究においてはin vitroでES細胞からPGC様の細胞が分化することが発見され、またそのことを基盤としてPGCのin vitro分化系を構築することができた。また胚体外組織の細胞およびBMP4がPGC誘導能力をもつことを細胞培養系で初めて証明することができた。この系は生殖細胞の分化機構に関する研究を行うにあたり非常に有用な実験系になり得ると考えられ、今後この分化系を用いて生殖細胞の決定、分化に必須の因子の探索を行いたいと考えている。 |