学位論文要旨



No 115316
著者(漢字) 根建,拓
著者(英字)
著者(カナ) ネダチ,タク
標題(和) インスリン様成長因子のシグナルを増強する新規クロストーク機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 115316
報告番号 甲15316
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2161号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 西原,眞杉
内容要旨

 動物の発達および成長は、多くのホルモン・増殖因子などによって制御される複雑なプロセスである。発達・成長に重要な役割を果たしているホルモンの一つとして、インスリン様成長因子(IGF)が挙げられる。IGFは、多くの細胞の増殖・分化誘導などに必須で、個体レベルではIGFの生理活性が時期・組織特異的に制御されることによって正常な発達・成長が可能になることが、遺伝学的・細胞生物学的手法により示されている。ところが、一般にIGFは単独での生理作用が弱く、他のホルモンや増殖因子などの存在下でその生理作用が増強されることが、これまで数多く報告されている。この他の因子によるIGFシグナルの増強機構、言い換えれば他の因子とIGFの細胞内シグナルのクロストーク機構の詳細については未だ不明な点が多く、したがって、生体でのIGFの生理的意義を解明するためには、このクロストーク機構を解明することは極めて重要である。

 我々は、内分泌細胞の増殖過程におけるトロピックホルモンとIGFの相互作用に注目して研究を進めてきた。その結果、ラット甲状腺由来正常細胞FRTL-5を甲状腺刺激ホルモン(TSH)とIGF-Iで処理することにより細胞増殖が相乗的に増強することを発見した。この細胞モデルのクロストーク機構を更に詳しく調べたところ、あらかじめcAMP情報伝達経路を長時間刺激することにより、IGF-Iが誘導する細胞増殖が相乗的に増強される、すなわち、cAMP前処理により細胞がIGF-Iにより応答するようにprimingされることを見出した。

 そこで、本研究では、FRTL-5細胞を用いて、まず、1)cAMP前処理後IGF-Iで処理した細胞増殖誘導の過程で、細胞周期制御タンパク質などがどのように変動するのかを解析し、次に、2)cAMPに応答したどのようなメカニズムによって、細胞はIGF-Iに応答するようにprimingされるのかを解析、そして、3)このpriming過程に重要な役割を果たすことが明らかとなったチロシンリン酸化タンパク質を同定することを目的に研究を行った。

1.cAMPシグナルとIGF-Iシグナルに応答した細胞周期の進行と細胞周期制御タンパク質の変動

 細胞周期の進行は、cyclin/cyclin-dependent kinase(CDK)/CDK inhibitor(CKI)など細胞周期制御タンパク質の活性変動によって緻密に調節されていることが、急速に明らかにされてきている。そこで、まず、cAMP前処理後、薬剤を洗浄除去、IGF-Iで再処理し、経時的に細胞内チロシンリン酸化、cyclin・CDK・CKI量、そしてDNA合成量を測定した。まず、cAMP前処理によってDNA合成は増加しないが、その後のIGF-I処理に応答したDNA合成のピークがcAMP前処理しないものに比較して早く観察され、最大DNA合成量も大きく増加することがわかった。この際、cAMP処理時間・処理濃度に依存して、125kDa付近のタンパク質(p125)がチロシンリン酸化されることを発見した。このタンパク質のチロシンリン酸化量は、IGF-Iに誘導されるDNA合成の増強と極めてよく相関しており、cAMPに応答したprimingに重要な役割を果たしていることが示唆された。一方、cAMP処理時間依存的にcyclin D1あるいはEといったG1期の進行に必須であるcyclinが増加し、その後のIGF-I処理によって更に相加的にこれらのタンパク量が増加することが明らかとなった。また、cAMP前処理後にIGF-I処理を行った場合にのみ、CKIのひとつであるp27KIP1の相乗的な減少が観察された。以上の結果は、cAMP前処理によりp125のチロシンリン酸化などを介してG1 cyclin量が増加し、IGF-I処理に応答して引き続き増加するG1 cyclinとp27KIP1量が減少によりCDK活性が増加、その結果、S期へ進行する細胞数が増加、タイミングが早まることを示している。

2.cAMPシグナルに応答したチロシンキナーゼの活性化とp125のチロシンリン酸化

 cAMP長時間処理によってp125が特異的にチロシンリン酸化され、このリン酸化がcAMPによるprimingに重要な役割を果たしていると考えられたので、まず、p125のチロシンリン酸化の増加機構を解析した。一般に、タンパク質のチロシンリン酸化は、チロシンキナーゼとチロシンホスファターゼの活性のバランスにより調節されることが知られているので、最初にcAMPで種々の時間処理した際の細胞内チロシンキナーゼ活性を測定した。その結果、cAMP処理時間・処理濃度に依存して細胞膜画分に含まれるチロシンキナーゼ活性が有意に増強し、この活性化がp125のチロシンリン酸化量の変化とよく相関していることが明らかとなった。また、このチロシンキナーゼ活性の上昇は、チロシンキナーゼ阻害剤であるgenisteinにより特異的に阻害されることがわかった。そこで、cAMPによるprimingにおけるこのチロシンキナーゼの役割を明らかにするために、cAMP前処理時に種々の濃度のgenisteinを添加し、p125のチロシンリン酸化およびG1 cyclin量を解析、更にcAMPとgenisteinを洗浄除去後、IGF-Iが誘導するDNA合成に及ぼす影響を解析した。その結果、cAMP依存的なp125チロシンリン酸化増加及びG1 cyclin量の増加は、genisteinの濃度依存的に抑制された。更に、cAMPによって増強されるIGF-I誘導性DNA合成も、genisteinにより抑制され、このIC50はp125のチロシンリン酸化・G1 cyclinの抑制の際とほぼ同様な値であった。これらの結果は、cAMP処理によりgenistein感受性チロシンキナーゼが活性化、p125をチロシンリン酸化することによってG1 cyclin発現を調節し、cAMPによるprimingが引き起こされることを示している。

3.cAMPシグナルに応答したp125のチロシンリン酸化とPI 3-kinaseの活性化

 多くのチロシンリン酸化タンパク質が、SH2ドメインを有する種々のタンパク質と結合することが、最近明らかとなってきた。そこで、cAMP依存的にチロシンリン酸化されるp125と結合するSH2ドメインを有するシグナル分子を検索した。cAMPで長時間処理後の細胞溶解液を、SH2ドメインを有する種々のタンパク質に対する抗体で免疫沈降し、これらのタンパク質とp125が共沈降するか検討した。その結果、cAMP処理に応答してphosphatidylinositol 3-kinase(PI 3-kinase)p85調節サブユニットに結合するチロシンリン酸化タンパク質として、p125のみが検出された。更に、in vitro系で相互作用を検討したところ、チロシンリン酸化p125は、p85 PI 3-kinase SH2ドメインと相互作用することがわかった。これらの結果は、cAMP処理によるp125チロシンリン酸化に応答して、PI 3-kinaseカスケードが活性化される可能性を示している。そこでcAMP前処理時に、PI 3-kinaseの阻害剤LY294002、あるいはPI 3-kinase活性化に応答して活性が上昇することが明らかとなっているtarget of rapamycin(mTOR)の阻害剤rapamycinを添加し、cAMP処理によって増加するG1 cyclin量、そしてcAMP前処理によるIGF-I誘導性DNA合成の相乗的増強に及ぼす影響を調べた。両阻害剤とも、cAMP依存性G1 cyclinの増加、cAMPによるIGF-I依存性DNA合成の増強を濃度依存的に抑制することがわかった。他の結果も併せると、cAMP処理によりチロシンリン酸化されたp125を介してPI 3-kinaseが活性化し、mTOR活性が上昇、このシグナルの蓄積がG1 cyclinなどの増加を引き起こし、IGF-I増殖シグナルの増強が起こるものと考えられた。

4.cAMPシグナルに応答してチロシンリン酸化されるp125の同定1)p130CASのチロシンリン酸化

 ここまで述べてきたように、チロシンリン酸化p125は、IGFシグナルと他の因子のシグナルのクロストークを制御している極めて重要なタンパク質であることが明らかとなったが、更にp125の機能を解明するためには、p125の同定が必要と考えられた。チロシンリン酸化p125を同定するために、125kDa付近の分子質量を有しチロシンリン酸化されることが知られている種々の既知シグナル分子(GAP,FAK,Cbl,Gab-1,Jak2,Retなど)の抗体で免疫沈降を試みたが、p125はこれらの抗体とは反応しなかった。しかし、抗CAS抗体がp125の一部を認識し、チロシンリン酸化されたp125の少なくとも一部はp130CASであることが明らかとなった。しかし、約75%のチロシンリン酸化p125は、抗p130CAS抗体では免疫沈降することができず、p130CASとp85 PI 3-kinaseの結合が観察されないことを併せると、125kDa付近にp130CAS以外のチロシンリン酸化タンパク質が存在し、これがcAMPによるprimingに重要な役割を果たしていると考えられた。

2)チロシンリン酸化p125の単離・精製

 既知のシグナル分子の抗体では認識できないp125は新規タンパク質である可能性が期待されたため、p125を単離・精製する方法の確立を試みた。まず、チロシンリン酸化p125は細胞質画分に存在することが明らかとなった。また、チロシンリン酸化されたp125は、p85 PI 3-kinaseのSH2ドメインを介することがわかったので、細胞質画分より抗p85 PI 3-kinase抗体のaffinityカラムあるいはGST融合p85 PI 3-kinase SH2タンパク質をconjugateしたカラムにより、選択的に部分精製できることを確認した。さらに種々のクロマトグラフィーを検討した結果、逆相クロマトグラフィーC4カラムによる分離が極めて有効であることも明らかとなった。以上の条件検討を組み合わせた結果、dibutyryl cAMPで24時間処理した細胞質画分より、抗p85 PI 3-kinase抗体affinityカラムに吸着した画分を逆相クロマトグラフィーに供することで、p125が完全に精製できることが明らかとなった。

総括

 ラット甲状腺由来正常細胞FRTL-5におけるcAMP情報伝達経路の活性化に応答したIGF-Iの増殖シグナルの増強においては、cAMP処理によって活性化されたgenistein感受性チロシンキナーゼが新規タンパク質であるp125をチロシンリン酸化、これに結合して活性化されたPI 3-kinaseカスケードがcyclin系を調節することにより、cAMPによるIGF-Iに対するprimingが起こるという全く新しいクロストーク機構が存在することが明らかとなった。最近になって、今回見出した新しいクロストーク機構が、他の因子によるIGFシグナルの増強に関与している可能性も指摘されてきており、今回の研究成果が普遍的なIGFシグナルの増強機構の解明に寄与できるものと期待している。

審査要旨

 動物の発達および成長は、多くのホルモン・増殖因子などによって制御される複雑なプロセスである。発達・成長に重要な役割を果たしているホルモンの一つとして、インスリン様成長因子(IGF)が挙げられる。IGFは単独での生理作用が弱く、他のホルモンや増殖因子などの存在下でその生理作用が増強される点が特徴のひとつであるが、このクロストークの分子機構は、ほとんど明らかにされていない現状である。したがって、IGFの生理的意義を解明するためには、この分子機構を明らかにする必要がある。

 本論文は、甲状腺刺激ホルモン(TSH)とIGF-Iで処理することにより細胞増殖が相乗的に増加するラット甲状腺由来正常細胞FRTL-5を用いて、cAMP情報伝達経路を長時間刺激することにより、細胞がIGF-Iにより反応するようになるpriming機構を解析したものである。論文は、序論、4章、総合討論よりなる。

 まず、序論では本研究の背景および意義を概説し、本研究の目的と本論文の構成について述べている。

 続いて、第1章では、FRTL-5細胞をTSHあるいはcAMPアナログで長時間前処理後、IGF-Iで再処理し、経時的にDNA合成量、細胞内チロシンリン酸化、細胞周期進行に重要な役割を果たしているタンパク質量などを測定している。その結果、cAMP前処理によりp125のチロシンリン酸化が起こり、同時にG1 cyclin量が増加、更にIGF-I処理に応答して引き続き増加するG1 cyclinとp27KIP1量が減少することによりCDK活性が増加することを明らかにしている。これらの変動を介して、S期へ進行する細胞数が増加、更にそのタイミングが早まることを初めて見出した。

 第2章では、cAMP処理に応答したIGF-Iに対するpriming機構に重要と考えられるp125のチロシンリン酸化について検討を加えている。p125のチロシンリン酸化は、cAMPアナログの処理時間に依存して増加し、この増加はcAMP処理により活性化されるチロシンキナーゼによって引き起こされることが明らかとなった。このチロシンキナーゼは、チロシンキナーゼ阻害剤genisteinに感受性であり、genistein濃度依存的にcAMP処理により誘導されるp125のチロシンリン酸化が抑制され、同時にcAMPによるpriming効果も阻害された。他の結果も併せると、cAMP処理によりgenistein感受性チロシンキナーゼが活性化、p125をチロシンリン酸化することによってG1 cyclin発現を調節し、cAMPによるprimingが引き起こされることが明らかとなった。

 第3章では、p125のチロシンリン酸化が、どのようにcAMPによるprimingを引き起こすかについて解析を進めている。最近になり、チロシンリン酸化タンパク質のリン酸化チロシン残基がSH2ドメインを有する多くのシグナル分子によって認識されていることが知られている。チロシンリン酸化p125もその例にもれず、phosphatidylinositol 3-kinase(PI 3-kinase)p85調節サブユニットのSH2ドメインに結合することを発見した。更に、PI 3-kinaseカスケードを構成する種々の分子の阻害剤を用いて、PI 3-kinaseのpriming機構における役割を解析したところ、cAMP処理に応答してチロシンリン酸化されたp125と結合することによってPI 3-kinaseカスケードが活性化され、このシグナルの蓄積がG1 cyclinなどの増加を引き起こし、IGF-I増殖シグナルの増強が起こることが明らかとなった。

 第4章では、このp125の同定を試みている。まず、125kDa付近の分子質量を有しチロシンリン酸化されることが知られている種々の既知シグナル分子(GAP,FAK,Cbl,Gab-1,Jak2,Retなど)の抗体で免疫沈降を試みたが、p125はこれらの抗体では認識されなかった。そこで、p125の精製方法を検討し、FRTL-5細胞をcAMPアナログで24時間処理した細胞質画分より、抗p85 PI 3-kinase抗体affinityカラムに吸着する画分を調製、これを逆相クロマトグラフィーに供することで、p125を単一に精製することができることを明らかにした。

 総合討論では、本研究で得られた結果をまとめ、その意義を考察し、今後の研究の展望を述べている。

 以上、本論文は、内分泌細胞の増殖におけるトロピックホルモンとIGFの新しいクロストーク機構を明らかにしたもので、学術上・応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位として価値あるものと認めた。

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