学位論文要旨



No 115317
著者(漢字) 元永,耕三
著者(英字)
著者(カナ) モトナガ,コウゾウ
標題(和) ダウン症候群の脳発達異常に関する分子生物学的研究
標題(洋)
報告番号 115317
報告番号 甲15317
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2162号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 助教授 中山,裕之
 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
内容要旨

 染色体21番を3本持つ(トリソミー)ヒトでは、ダウン症候群と呼ばれる特徴的な形態的及び機能的異常が出現する。本症は精神遅滞を伴うが,顔や掌等外貌上に特徴的な変化が認められるので出生後早い時期に気付かれることが多い。この他にも内臓や免疫・内分泌系に異常がみられ、高い頻度で白血病に罹患したり,比較的若年でアルツハイマー病になることが知られている。ダウン症候群における精神遅滞のメカニズムを解明する為には,神経生物学的観点から脳の発達を詳細に吟味することが不可欠であるが,一方ダウン症候群のような脳の発達異常の原因となる分子機構の解明を通して,中枢神経系の形成や機能の獲得に関する理解が進むことも期待されよう。ダウン症にみられる形態的・機能的病変は個体間で著しく高い類似性を示すことから,トリソミーに連動する責任遺伝子の存在が強く示唆される。例えば精神遅滞に着目して知恵遅れや学習能力の発達を研究するのに、ダウン症の患者が最も優れた研究対象であることは言うまでもない。しかし、ヒトそのものを実験材料として供試することには倫理的な問題を含め多くの研究上の障害があるのも事実である。したがって、もしダウン症を研究しこの疾患の発症メカニズムを分子生物学的に解明するためには,適切なモデル動物の入手が不可欠である。

 このような動物として,16番染色体の部分トリソミーを持つマウス(TS65Du)の系統がJackson LaboratoryのSchmidらによって確立された。マウス染色体16番はヒト21番染色体と相同性があるが、TS65Duマウスでは染色体16番の末端部分だけがトリソミーになっている。このマウス染色体16番の末端部分にはアルツハイマー前駆体蛋白質(APP),グルタメイト受容体(GRIKI),スーパーオキサイドディスムターゼ、小脳蛋白質(PcP4)等、いずれも脳機能と関連するヒト21番染色体上の遺伝子が並んでいる。このマウスは顔の型が異常で,接触刺激に対して全身の筋肉が異常な痙攣反応を示し、発育が遅滞するといった特徴を示す。また空間認識を必要とする行動の習得が悪く、記憶力も良くないこと等からTS65Duマウスはダウン症に関する脳研究の有力なモデルになりうるものと期待されている。さらに,このモデルマウスではその同腹子の半数は正常なマウスである為,発達や加齢の過程を同腹の正常なコントロールマウスと対比しながら検討しうる利点も有している。

 ダウン症候群における脳の発達障害には2つの要素、すなわち出生前(胎児期)に始まる神経細胞の発生・分化異常と出生後に生じる発育停止・早期老化が含まれており、後者については成人期に出現するアルツハイマー病変との関連が示唆されている。そこで本研究では,1)ダウン症候群における脳の発達障害を特徴づける分子を同定すること,そして2)この分子がヒト21番染色体のトリソミー効果によってダウン症候群における脳機能変化が引き起こされる過程においてどのような役割を果たしているかについて明らかにすることを目的として一連の研究を行った。本論文は5章からなり第1章は総合緒言,そして終章の第5章は総合考察にあてた。

 まず2章では,生後7日のTS65マウス及び同腹由来の正常マウスの脳に発現している遺伝子をディファレンシャルディスプレイ法(differential display)により比較した。発現量に差が認められる遺伝子、すなわちTS65Duマウスの脳において過剰に発現している遺伝子を同定したところ,細胞骨格タンパク質として知られる中間径フィラメントperipherinであることが明らかとなった。northernblot法によりTS65Du及び正常マウスの脳におけるperipherin遺伝子の発現量を比較したところ,TS65Duマウスの脳においてperipherin遺伝子は過剰発現されており,differential display法で得られた成績を支持する結果が得られた。次に,ダウン症候群の患者においても同様な所見が認められるか調べてみた。ダウン症候群患者及び正常人の脳サンプルを用いてimmunoblot法により発達、加齢に伴うperipherin蛋白の発現を比較検討した。その結果,正常人の小脳におけるperipherin蛋白の発現は発達及び加齢に伴い増加が認められることから,peripherin蛋白は脳の発達や神経細胞の分化と深い関係をもつことが示唆された。またダウン症候群患者の小脳においてperipherin蛋白は正常人に比べ過剰発現していたことから、peripherin蛋白の過剰発現はダウン症候群患者の脳発達や神経細胞の分化に甚大な影響を及ぼすものと推察された。peripherin遺伝子そのものはヒト12番(マウス15番)染色体上に存在するが、同遺伝子のプロモーター領域にはヒト21番(マウス16番)染色体上にコードされる転写因子であるErythroblastosis-2(Ets-2)のbinding domainが存在することが知られている。このことからダウン症候群患者及びTS65Duマウスの脳におけるperipherin遺伝子の過剰発現はEts-2遺伝子のトリソミー効果(gene dosage effect)によって引き起こされるという作業仮説を立てた。

 そこで第3章では上記の仮説を検証する為にダウン症候群のモデル神経細胞株を樹立した。まず、ヒト染色体21番を持つマウスA9細胞をコルセミッド存在下でM期に同調後、サイトカラシンB存在下で脱核し、微小核細胞とした。これをrat pheochromocytoma(PC12)神経細胞とポリエチレングリコール存在下で細胞融合し、ヒト21番染色体にタギングされたネオマイシン耐性を指標に、ヒト染色体21番ダウン症候群原因遺伝子領域(DCR)とEts-2遺伝子領域を含み、SOD1やAPP遺伝子領域を含まないPC12細胞株(PC12h21)を樹立した。これらヒト21番染色体断片を持つ細胞をさらに継代するとヒト21番染色体は少しづつ脱落した。長期継代によって異なるヒト染色体領域を保有するPC12細胞(Ets-2-/DCR-,Ets-2-/DCR+,Ets-2+/DCR-,Ets-2+/DCR+)を作製し,これらの細胞について神経成長因子(NGF)刺激後の分化の異常の有無を検討した。その結果,Ets-2遺伝子が導入されているDSモデル神経細胞(Ets-2+/DCR-,Ets-2+/DCR+,PC12h21)はEts-2遺伝子が導入されていないDSモデル神経細胞(Ets-2-/DCR+,Ets-2-/DCR-)及び親株のPC12細胞に比してNGF刺激下において早期分化を示すことが明らかとなった。またperipherin蛋白の発現量をimmunoblot法により比較したところ,Ets-2遺伝子が導入されているDS神経細胞(Ets-2+/DCR-,Ets-2+/DCR+)はEts-2遺伝子が導入されていないDSモデル神経細胞(Ets-2-/DCR+,Ets-2-/DCR-)に比して過剰発現されていることが明らかとなった。従ってEts-2遺伝子のトリソミー効果は神経細胞の早期分化、及びperipherinの過剰発現に重要な役割を果たしていることが示された。

 続く第4章ではヒトEts-2 cDNA遺伝子をサイトメガロウィルスのプロモーターを持つexpression vectorに組み込み、PC12細胞に導入することにより,Ets-2遺伝子の過剰発現が神経細胞の分化及びperipherinの発現にどのような影響をもたらすのかを調べた。Ets-2遺伝子を導入されたPC12細胞はNGF刺激により早期分化及びperipherinの過剰発現をもたらすことから、DSモデル神経細胞の早期分化及びperipherinの過剰発現はEts-2のトリソミー効果であると結論づけることができた。さらにEts-2遺伝子を導入したPC12細胞及びEts-2遺伝子を保持するダウン症候群神経細胞はアポトーシスを伴った早発死を引き起こすことがannexin Vの免疫染色により明らかとなった。

 以上,本研究の結果から,ダウン症候群はEts-2遺伝子のトリソミー効果によるperipherinの過剰発現を伴った神経分化異常及び早発死によって引き起こされる可能性が示された。peripherinは神経特異的に発現が認められる中間径フィラメントの構成蛋白であり、大脳、小脳及び下垂体や末梢神経系の神経細胞に発現が認められている。中間径フィラメントの機能は細胞の形の決定、細胞の運動、細胞小器官の位置の決定等と関係し,また細胞内の様々な蛋白と相互作用しながら細胞内シグナル伝達にも関与することが推察されている。peripherinはニューロフィラメントと結合することから細胞内ネットワーク構築に深く関与していることが予想されており,またアクチン結合蛋白質と相互作用することなどからアクチン-細胞膜構造と相互作用し細胞膜性質を決定づける重要な因子であるとも考えられる。従ってダウン症候群の神経細胞におけるperipherinの過剰発現は,おそらく分化や細胞内ネットワーク構造及び細胞膜性質等を変化させることによって、神経細胞の早発死や機能異常を引き起こすものと考えられた。

審査要旨

 染色体21番を3本持つ(トリソミー)ヒトでは、ダウン症候群とよばれる特徴的な形態的および機能的異常が出現する。ダウン症候群における精神遅滞のメカニズムを解明し診断治療に資する知見を得るためには、神経生物学的観点から脳の発達を詳細に吟味することが不可欠であるが、一方、ダウン症候群のような脳の発達異常の原因となる分子機構の解明を通じて、中枢神経系の形成や機能の獲得に関する理解が進むことも期待されよう。ダウン症候群における脳の発達障害には2つの要素、すなわち出生前(胎児期)に始まる神経細胞の発生・分化異常と出生後に生ずる発育停止・早期老化が含まれており、後者については成人期に出現するアルツハイマー病変との関連が示唆されている。本研究は、1)ダウン症候群における脳の発達障害を特徴づける分子を同定すること、そして2)この分子がヒト21番染色体のトリソミー効果によってダウン症候群における脳機能変化が引き起こされる過程においてどのような役割を果たしているかを明らかにすることを目的に行われたものである。本論文は5章より構成され、第1章は総合緒言に、終章の第5章は総合考察にそれぞれ当てられている。

 第2章では、生後7日齢のTS65マウスおよび同腹由来の正常マウスの脳に発現している遺伝子をディファレンシャルディスプレイ法により比較し、発現量に著しい差が見られた遺伝子を同定することで、細胞骨格蛋白である中間径フィラメントperipherinがTS65Duマウス脳で過剰発現していることが示された。また実際にダウン症候群患者の小脳においてもperipherin蛋白が正常人に比較して過剰に発現していることが明らかとなった。peripherin遺伝子そのものはヒト12番(マウス15番)染色体上に存在するが、同遺伝子のプロモーター領域にはヒト21番(マウス16番)染色体上にコードされる転写因子Erythroblastosis-2(Ets-2)binding domainが存在することが報告されている。このことからダウン症候群患者およびTS65Duマウスにおけるperipherin遺伝子の過剰発現はEts-2遺伝子のトリソミー効果(gene dosage effect)によって引き起こされるという作業仮説が立てられた。

 そこで第3章では、上記の仮説を検証する目的で、ダウン症候群のモデル神経細胞株としてヒト染色体21番ダウン症候群原因遺伝子領域(DCR)とETS-2遺伝子領域を含み、SOD1やAPP遺伝子領域を含まないrat pheochromocytoma(PC12)細胞株が樹立された。長期継代によって異なるヒト染色体領域を保有するPC12細胞を作製し、これらの細胞について神経成長因子(NGF)刺激後の分化の異常の有無が検討された結果、Ets-2遺伝子が導入されたモデル神経細胞は、されていないものや親細胞株に比べてNGF刺激により平期分化を起こすことが示された。またperipherin蛋白も細胞内で過剰に発現していることが明らかとなり、ETS-2遺伝子のトリソミー効果は、神経細胞の早期分化やperipherin発現に大きな影響を与えることが明らかとなった。

 続く第4章では、ヒトEts-2cDNA遺伝子をサイトメガロウイルスのプロモーターを持つ発現ベクターに組み込みPC12細胞に導入することにより、DSモデル神経細胞の早期分化およびperipherin過剰発現はEts-2のトリソミー効果であることが確認され、またアネキシンVの免疫染色からEts-2遺伝子はアポトーシスを伴った早発死を引き起こすことなども示された。

 第5章の総合考察においては、中間径フィラメントであるperipherinは神経細胞内のネットワーク構築に深く関与しまたアクチン-細胞膜構造と相互作用して細胞膜の性質決定に関わる重要な因子であることが想定されていることから、ダウン症候群患者におけるPeripherinの過剰発現が、細胞内ネットワーク構造や細胞膜性質を変化させることによって神経細胞の早発死や機能異常を惹起しているという独創的な仮説が、様々な知見を援用しながら論じられている。

 以上、要するに本研究は、ダウン症候群で見られる精神遅滞がEts-2遺伝子のトリソミー効果によるperipherinの過剰発現を起因とする神経分化異常によって引き起こされるという新たな概念を提唱したものであり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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