学位論文要旨



No 115319
著者(漢字) 大西,裕子
著者(英字)
著者(カナ) オオニシ,ヒロコ
標題(和) 視床下部腹内側核走行ニューロンの興奮伝達系に関する研究
標題(洋)
報告番号 115319
報告番号 甲15319
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2164号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 西原,眞杉
 東京大学 教授 唐木,英明
 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 教授 森,裕司
 味の素株式会社 顧問 高橋,迪雄
内容要旨

 視床下部腹内側核(VMH)は,摂食,攻撃,逃避,性行動など個体や種の維持に欠かせない様々な本能行動の統御部位である.このようなVMHによる多様な行動の発現には,動機と関わらない次元で走行運動という共通な素要素が付随していると考えられる.ラットのVMHに興奮性アミノ酸のアゴニストであるカイニン酸(KA)を投与することにより,定型的かつ抑制不能な走行運動が誘起されることから,VMHには素要素としての走行運動を担う「走行ニューロン」が存在することが示唆されている.VMH走行ニューロンは走行運動を誘起するとともに,脳幹の上向性ノルアドレナリン(NA)作動性ニューロンを興奮させ,この神経系からのVMHへの入力により交感神経系が賦活されて血糖値の上昇など走行運動をサポートするような代謝の変化が起こることが示され,運動と代謝を協調的に制御する機能を併せ持つことが明らかとなった.走行ニューロンのVMHにおける局在や投射先をはじめとしてその実体を明らかにすることは,走行ニューロンの人為的制御に道を拓くものであり,動物の行動と代謝を協調的に制御するような方法論の開発にも大きく貢献するものと思われる.本論文は,VMHのニューロンについて行動学的(第1章),神経生理学的(第2章),および組織学的(第3章)解析を行うことにより,走行ニューロンの同定を目指したものである.

 第1章においては,まず走行ニューロンの興奮にかかわる興奮性アミノ酸受容体のサブタイプについて検討した.従来,走行ニューロンを興奮させる薬物としてKAが用いられてきたが,KAはKA型受容体と同時にAMPA型受容体も活性化させることが知られている.走行ニューロンが発現している受容体サブユニットを明らかにすることは,種々のニューロンが混在しているVMH内で走行ニューロンを抽出するために非常に有益な情報になることが期待される.成熟雄ラットのVMHにカニューレを留置し,無麻酔,無拘束下でKA型受容体の主要なサブユニットであるCluR5/6に親和性の高いアゴニスト(SYM2081)を吸水ポリマーを担体として投与した.その結果,SYM2081は濃度依存的に顕著な走行運動を誘起した.このことから,走行運動はVMHにおいてCluR5/6を構成要素とするKARを介して起こることが示唆された.

 次に,KARが走行ニューロン自体に存在するかどうかを調べるために,シナプス伝達を遮断した条件下での走行運動の発現について検討した.シナプス伝達の遮断には中枢神経におけるCa2+チャネルの特異的阻害剤を用いた.すなわち,神経分泌機構に主に関与することが知られているN TypeのCa2+チャネルを特異的に阻害する-conotoxin GVIAと,広くP/Q/N Typeを阻害する-conotoxin MVIICを併用した(両者を併せて-CTxと略す).SYM2081と-CTxをVMHへ同時投与すると,SYM2081単独投与時の約60%の走行運動が誘起された.このことは,走行ニューロン自体がKA受容体を発現していること,および走行ニューロンはVMH内でシナプスを乗り換えることなく直接下位の神経機構に投射していることを示唆している.しかし,-CTxにより約40%走行量が低下したことから,走行ニューロンの興奮には他の神経伝達物質もかかわっていることが考えられた.そこで,VMH内で代謝の変化の誘起にかかわることが示されているNAに着目し,SYM2081,-CTxとともにVMHへ投与した.その結果,完全にではないが走行運動量が回復し,走行運動中にはVMH走行ニューロンにはNA作動性神経入力があり,走行ニューロンの興奮性を高めていることが分かった.このNA作動性神経入力の意義については今後の研究に待たなければならないが,走行運動を遂行するのに必要な血糖値の上昇などをモニターする神経機構が存在し,それらの条件が満たされていることをNAを介して走行ニューロンに伝え,さらに走行運動を促進するようなニューラルネットワークが存在するのではないかと思われた.

 第2章においては,走行ニューロンのVMH内での局在について,視床下部スライス標本を用いて,in vitroで電気生理学的(単一ニューロン発火活動記録法)および光学的(カルシウムイメージング法)研究手法を用いて検討した.まず,標準メディウム中で個々のVMHニューロンのKAに対する反応性を単一ニューロン発射活動記録法により検討した結果,約90%とほとんどのVMHニューロンが促進的に反応することが分かった.しかし,低カルシウムメディウムによりシナプス伝達を遮断した条件下では,このようなニューロンのうちKAに反応を示したのは約20%のみであった.これらの結果より,VMHにおいてはKAに直接反応するニューロンは比較的少数であるが,KA型受容体を持つニューロンはVMH内で多くのニューロンに対して直接,間接に結合して広範なネットワークを形成していることが示唆され,走行運動と同時にそねと関連する様々な生理機能の発現に関与していることが考えられた.KA型受容体を持つニューロンが少数であるという結果は,今後の走行ニューロンの同定に向けての大きな情報となるものと思われる.

 次に,カルシウムイメージング法により,視床下部スライス標本上のVMHニューロンのKAによる細胞内遊離Ca2+濃度([Ca2+]i)の変化を,Fura PE3/AMを蛍光指示薬として観察した.その結果,VMHの前,中,後部でKAにより[Ca2+]iが上昇するニューロンの分布は多少異なるが,それらのどの断面においても背内側部に他の部位より強い[Ca2+]の上昇が認められた.また,KA型受容体のアンタゴニストであるCNQXをKAと同時投与すると,[Ca2+]iの上昇は全く見られなかった.これらのことから,KA型受容体を持つニューロンはVMHの前後を通して背内側部に局在している可能性が考えられた.

 第3章においては,KA型受容体のサブユニットであるGluR5/6/7と初期発現遺伝子産物であるc-Fosに対する免疫組織化学的手法を用いて,走行ニューロンの局在と投射経路について検討した.VMH内におけるGluR5/6/7免疫陽性細胞は比較的少数で,VMHを前後軸にそって前中後部に分けて検討した結果,前部および後部では背内側に,中部では腹外側に主として局在していた.これらの結果は,第2章におけるシナプス伝達遮断条件下ではKAに反応するニューロンはごく一部であるという電気生理学的実験結果とよく一致するものであり,また,カルシウムイメージングによる結果と考え合わせるとKA型受容体を持つニューロンは主としてVMHの背内側部に存在する可能性が高い.すなわち,走行ニューロンはVMHの背内側部に存在する比較的少数からなるニューロン群であることが想定される.

 一方,c-Fosはニューロンの活性化に伴い発現する初期発現遺伝子の翻訳産物で,ニューロンの興奮性の指標となる.そこで,SYM2081をVMHに投与して走行運動を誘起した動物におけるc-Fosの発現を調べることで,走行運動の発現や代謝の変化にかかりる神経経路を検討した.その結果,SYM2081のVMHへの投与により,VMHの他に視床下核歩行誘発野(SLR),中脳歩行誘発野(MLR),視床室傍核(PVT),また脳幹のA6,A2,A1のNA作動性ニューロン起始核などでc-Fos陽性細胞が顕著に増大した.VMHではSYM2081の片側投与により,特に投与側の背内側と腹外側で強いc-Fos陽性シグナルが見られた.しかし,c-FosとGluR5/6/7の二重染色を行うと,両者で同時に染色される細胞はVMH背内側部に少数存在したが,c-Fosのみを発現する細胞が大多数であった.このc-FosとGluR5/6/7の両者を発現しているVMH背内側部のニューロンが走行ニューロンである可能性が高いと思われた.SLR,MLR,PVTはいずれも従来の研究により走行ニューロンの興奮を中継して走行運動の発現にかかわることが示唆されている領域であり,これらの部位で特異的にc-Fosが発現しているという今回の結果は従来の仮説を強く支持するものである.延髄のA1やA2NA作動性ニューロンは走行ニューロンにより賦活され,VMH内でNAを放出することにより代謝の変化を誘起することが示唆されており,今回の結果はやはりこれを支持するものである.さらに,本実験では青斑核のA6NA作動性ニューロンにおいてもc-Fosの発現が見られたが,筆者はこのニューロン群が上述の第1章で考察したような内部環境をモニターして走行ニューロンの興奮性をさらに高めるような機能を持っているNA作動性ニューロンに相当するのではないかと考えている.

 以上,本論文の研究により,VMH走行ニューロンはGluR5/6を発現し,VMHの前後を通して背内側部に存在する比較的少数からなるニューロン群であること.また走行ニューロンはSLR,MLR,PVTなどに投射して走行運動を誘起し,一方,走行運動中にはA1,A2,A6NA作動性ニューロン群が興奮してVMH機能を修飾していることが示唆された.このように走行ニューロンを巡っては,運動系に出力する一方NA作動性ニューロン群を介して出力の結果をVMHにフィードバックし,生理的状況に応じて走行運動と代謝を合目的的に調整するようなニューラルネットワークが存在することが考えられた.

審査要旨

 視床下部腹内側核(VMH)は、摂食、性行動、攻撃、逃避など個体や種の維持に欠かせない様々な本能行動の統御部位である。ラットのVMHに興奮性アミノ酸受容体アゴニストの一種であるカイニン酸(KA)を投与することにより、定型的かつ抑制不能な走行運動が誘起されることから、VMHには「走行ニューロン」が存在することが示唆されている。VMH走行ニューロンは走行運動を誘起するとともに、交感神経系を賦活して血糖値の上昇など走行運動をサポートするような代謝の変化を起こすことも示され、運動と代謝を協調的に制御する機能を併せ持つことが明らかとなっている。本論文は、VMH走行ニューロンについて行動学的(第1章)、神経生理学的(第2章)、並びに組織学的(第3章)解析を行うことにより、その同定を目指したものである。

 緒論において研究の背景と目的について概説した後、第1章ではまず走行ニューロンの興奮にかかわる興奮性アミノ酸受容体のサブタイプの同定を試みている。ラットのVMHにKA型受容体の主要なサブユニットであるGluR5/6に親和性の高いアゴニスト(SYM2081)を投与した結果、SYM2081は濃度依存的に顕著な走行運動を誘起した。このことから、走行運動はGluR5/6を構成要素とするKA型受容体を介して起こることが示唆された。さらに、SYM2081による走行運動は-conotoxinによりシナプス伝達を遮断した条件下でも発現したことから、走行ニューロン自体がKA型受容体を発現していること、および走行ニューロンはVMH内でシナプスを乗り換えることなく直接下位の神経機構に投射していることが示された。

 第2章においては、走行ニューロンのVMH内での局在について、視床下部スライス標本を用いてin vitroで検討している。まず、標準メデイウム中でVMHニューロンのKAに対する反応性を単一ニューロン発射活動記録法により検討した結果、約90%のVMHニューロンが促進的に反応した。しかし、低カルシウムメディウムによりシナプス伝達を遮断した条件下では、このようなニューロンのうちKAに反応を示したのは約20%のみであり、VMHにおいてはKAに直接反応するニューロンは少数であることが示された。次に,カルシウムイメージング法により、VMHニューロンのKAによる細胞内遊離Ca2+濃度の変化を、Fura PE3を蛍光指示薬として観察した。その結果、VMH背内側部に強いCa2+濃度の上昇が認められたことから、KA型受容体を持つニューロンはVMHの背内側部に局在している可能性が高いことが明らかとなった。

 第3章においては、KA型受容体のサブユニットであるGluR5/6/7と初期発現遺伝子産物であるc-Fosに対する免疫組織化学的手法を用いて、走行ニューロンの局在と投射経路について検討している。VMH内におけるGluR5/6/7免疫陽性細胞は比較的少数で、主としてVMHの背内側部に局在しており、第2章の結果と一致するものであった。一方,c-Fosはニューロンの活性化に伴い発現する初期発現遺伝子の翻訳産物で、ニューロンの興奮性の指標となる。SYM2081をVMHに投与して走行運動を誘起した動物におけるc-Fosの発現を調べると、VMHの背内側部と腹外側部で強いc-Fos陽性シグナルが見られた。しかし、c-FosとGluR5/6/7の二重染色を行うと、両者で同時に染色される細胞はVMH背内側部に少数存在するのみであった。著者は、このc-FosとGluR5/6/7を共発現しているVMH背内側部のニューロンが走行ニューロンであると推論している。また、SYM2081のVMHへの投与によりVMHの他に視床下核歩行誘発野や中脳歩行誘発野でc-Fos陽性細胞が顕著に増大し、これらの部位のニューロンが走行ニューロンの興奮を中継して走行運動の発現にかかわることが示唆された。脳幹のA6,A2,A1ノルアドレナリン作動性ニューロンの起始核でもc-Fosの発現が認められ、走行運動中にはこれらのニューロン群が興奮して代謝機能を修飾していることが示唆された。さらに、これら第1章から第3章までの結果について、総括において総合的な考察がなされている。

 以上、本論文は幾つかの神経生物学的手法を駆使してVMH走行ニューロンに発現する神経伝達物質受容体を明らかにするとともに、その局在および投射経路を示したもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものとして認めた。

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