1980年代後半から1990年代前半に、ヨーロッパ沿岸に生息する海棲哺乳類の大量死が相次いで報告され、これまで知られていなかった新種のモービリウイルス、アザラシジステンパーウイルス(PDV)、マイルカモービリウイルス(DMV)、ネズミイルカモービリウイルス(PMV)がこれら大量死の原因であることが明らかになった。これらの流行と同時期に、シベリアのバイカル湖に生息するバイカルアザラシにおいてもCDVによる大量死が発生した。さらに最近、希少種のモンクアザラシ(地中海と西アフリカ沿岸に生息)においても大量死が起こり、それぞれの地域で異なる2種のモンクアザラシモービリウイルスが同定された。これらはそれぞれDMVとPMVに近縁であることから、これまで起こらないと考えられていたイルカーアザラシ間の異種間伝播が生じたことが示唆された。 また、陸棲哺乳類においても、1990年代前半にアフリカやアメリカの大型ネコ科獣において感染症が流行し、この原因も、これらの動物種では発症しないと考えられていたCDVであることが明らかとなった。伝播源は野生の犬科動物と推察されており、希少野生動物種での絶滅要因として危惧される。さらに、アザラシのPDV感染症が発生した付近のミンク農場では、PDVによる飼育ミンクの全滅という事件が起こり、モービリウイルス感染は人間社会へも影響を及ぼした。 CDV感染症はワクチンによって、その流行が押さえられているものの、近年世界的に、ワクチン接種に関わらないジステンパー発症例の増加が報告されている。日本でもジステンパーの発症報告が増えており、近年分離されたCDVは抗原的、遺伝的にワクチン株と異なることが明らかにされている。しかしながら、日本における野生動物のモービリウイルス感染の実態はつかめておらず、防疫においても、世界的なモービリウイルス感染症の動態を伺う上でも、これを明らかにする必要性が高まってきている。本研究では、近年の流行をより詳細に検討するための検査方法を確立し、野外動物の調査を行い、日本のモービリウイルス感染の有無、及びその推移を明らかにした。また、国際的に情報が必要とされているカスピ海やバイカル湖での追跡調査も行った。本研究は以下の4章より構成される。 第1章;日本におけるCDV近年流行株の制限酵素切断パターン(RFLP)による同定 近年CDV感染の流行が起こっており、最近の野外分離株は遺伝的にワクチン株と異なることが明らかである。また、CDV感染の予防には生ワクチンが使用されているため、ワクチンの病原性復帰の問題が残っている。そこで、迅速なCDV感染症の診断、及び野外株とワクチン株の鑑別法が必要であると考え、近年の野外株であるYanaka株とワクチン株のH遺伝子の配列の相違を元に、RT-PCR-RFLPによる型別診断法を検討した。ワクチン株5株及びYanaka株は、制限酵素SspIまたはEcoRVで型別出来た。そこで、結果がより明瞭に判断でき、安価に購入できるEcoRVを用いて本法を詳細に検討した。現在我が国に存在するワクチン株5株および我が国で分離された野外株10株において、より高感度のプライマーセットを用いてRT-PCRを行い、酵素切断したところ、ワクチン株は切断されず、最近流行が起き始めたと考えられる1990年代の野外分離株全てが切断された。次に、Yanaka株の実験感染犬および野外発症例の犬の臓器について検討したところ、実験感染犬の脳と脾臓および自然感染犬の脳、脾臓で本法は有効であった。さらに、ウイルス分離ができた1例の犬では末梢血リンパ球でも型別診断が行えた。以上のことから、本研究で確立したRT-PCR-RFLP法は、CDV新型株感染の確定診断に有用であり、診断・治療に貢献するものと考えられた。 第2章;日本の野生タヌキにおけるCDV感染 CDVは近年、以前には宿主と考えられていなかった動物種を数多く死亡させた。本章では日本の野生動物におけるCDV感染の現状を把握する事を目的として、日本の代表的な野生動物であるタヌキについてCDV疫学調査を行った。血清疫学調査の結果、兵庫県では1990年、1997年付近で、広島県でも1997年付近で野生タヌキにCDVの感染があったことが示唆された。また、タヌキのウイルス分離に初めて成功し、Tanu96株と命名し、その性状を検討した。免疫沈降法解析において、H蛋白を認識するモノクローナル抗体JD7に対して、他の日本の野外株であるYanaka、Hamamatsu株より弱い反応性を示した。この原因を明らかにするためにH遺伝子の塩基配列を決定し、遺伝系統樹解析を行ったところ、Tanu96株は日本で近年犬から分離された株が形成するブランチに属することが明らかになった。また、横浜市で分離された同株は、静岡県で分離された株と遺伝的に最も近いことから、静岡県側から伝播した可能性が示唆された。推定アミノ酸配列において、Tanu96株は構造上重要な部分は他の日本の野外株3株と一致しており、特異的な4つのアミノ酸が、他の株との抗原性の違いに関連すると推察された。本章の研究により、日本各地の野生タヌキにCDVの感染が存在すること、飼育犬から野生タヌキへの伝播が示唆され、今後CDV感染の流行制御において、野生動物への考慮が必要であると考えた。 第3章;日本の野生及び飼育中の海棲哺乳類におけるモービリウイルス疫学調査 大規模な流行後、西欧や北米、ロシアでモービリウイルス感染の調査が進められてきたが、日本を含む西太平洋に生息する海棲哺乳類におけるモービリウイルス感染の実体は明らかにされていない。これを受け、本章では日本の海棲哺乳類についてモービリウイルス血清疫学調査を行なった。野生鰭脚類についてのELISAではCDV抗原より、PDV抗原に対して吸光度及び陽性率が高く、PDVかそれに近縁なウイルスによる感染が1994年以前にあったことが示唆された。また、1998年の未成熟個体でも抗体陽性率が50%を越えていたことから、近年も感染が続いていることが示唆された。また、日本の水族館で飼育中の個体においては、1990年に導入された個体が抗PDV抗体を保持していたことから、北海道沿岸の鰭脚類にPDV様ウイルスによる暴露が1990年以前から存在したことが示唆された。歯鯨類においては、DMV-ELISAと中和試験において、1996年のハンドウイルカで高い陽性率が観察され、その後減少していることから、1996年以前に、DMVかそれに近縁なウイルスの流行があったと推察された。水族館で飼育中の個体については、1988年から1990年に太平洋岸から導入された個体の多くが抗体を保有していたこと、1978年に導入された個体が中和抗体を保持していたことから、それ以前から日本の太平洋沿岸の歯鯨類においてもモービリウイルス感染が存在し、1988年頃にDMV様ウイルスの流行があったことが推察された。本研究により、日本近海の鰭脚類と歯鯨類にモービリウイルスが感染していたことが明らかになった。 第4章;カスピ海及びバイカル湖におけるジステンパーウイルス血清疫学調査 1987年に発生したバイカルアザラシの大量死は、その後の研究によりCDVが原因であると同定され、1992年に行われた血清疫学調査時まで、感染が続いていたことが報告されている。また、1997年春におきたカスピ海アザラシの大量死についても、そのうちの1個体からCDV遺伝子の一部が検出されたことから感染源と疑われていた。 本章では、これらの流行に対する追跡調査を行った。カスピ海アザラシにおいては、1993年の14検体中、中和試験で1検体、CDV-ELISAで3検体、PDV-ELISAで7検体が陽性。1997年の10検体中、中和試験およびCDV-ELISAで9検体、PDV-ELISAで全てが抗体陽性。中和試験においても高い抗体価を示した。1998年の16検体中、中和試験で9検体、CDV-ELISAで12検体、PDV-ELISAで13検体が陽性であった。力価は1997年に比べてかなり減少していた。以上より、カスピ海アザラシにおきた大量死の要因は、CDVではなくむしろ1997年8月以前のPDV様ウイルスが流行したことによると推察された。バイカルアザラシについては、1998年の7検体中、中和試験で6検体、CDV-ELISAで5検体、PDV-ELISAでは3検体が陽性を示したが、採取した個体の大きさから、これは移行抗体によるものと考えられた。すなわち母獣のほとんどが抗CDV抗体を有していることから、バイカル湖では近年でもCDVの感染が続いていると推察された。本研究により、カスピ海アザラシにおきた大量死はジステンパーウイルスによるものであること、バイカル湖では近年でもCDV感染が続いていることが示された。 以上の研究により、CDV感染時の新しい診断法としてRT-PCR-RFLP法の有用性が示された。また、日本の野生タヌキにもCDV感染症が流行していることが示され、タヌキから分離されたCDVは犬由来のCDVと近縁であることが示された。さらに、日本の海棲哺乳類にもモービリウイルス感染が起こっていることを初めて明らかにし、加えてカスピ海やバイカル湖に生息する水棲哺乳類の近年におけるジステンパーウイルス感染を証明した。これらの研究はモービリウイルスの飼育動物-野生動物間の伝播を示唆し、日本におけるモービリウイルス感染の実体を明らかにした事に加え、国際的なモービリウイルス研究に貢献する有用な成果を与えたと考えられる。 |