近年小動物臨床においては腫瘍症例の増加が臨床上問題になっており、腫瘍発生の分子機構の研究は新規治療法の開発という点からも急務である。そこで本研究では、犬の腫瘍において、細胞周期の制御異常を中心とした腫瘍発生の分子機構ついて研究を行った。 P53は、細胞周期のG1停止およびアポトーシス誘導機能を有することから、p53遺伝子の不活化は細胞の腫瘍化に重要であることが示唆されている。第1章では、犬の自然発生腫瘍におけるp53遺伝子の不活化について検討した。犬の脾臓cDNAからpolymerase chain reaction(PCR)法によって犬のp53遺伝子断片を増幅した。得られた1247bpの犬p53遺伝子の塩基配列は、381のアミノ酸をコードする1143bpの全翻訳領域、および非翻訳領域が含まれていた。予想されるアミノ酸配列は他種のp53遺伝子のそれらと72〜86%の相同性を示し、機能ドメインの配列も保存されていた。次に、PCR-SSCP(PCR-single strand conformation polymorphism)法を用いて、犬の自然発生腫瘍における、p53遺伝子の変異の解析を行った。その結果、悪性リンパ腫では7例中1例で、単球性白血病、直腸癌、横紋筋肉腫、骨肉腫では全例で正常組織とは移動度の異なるバンドが検出され、これらのバンドの塩基配列を解析したところ、各症例で1〜8箇所の点突然変異、欠失、挿入が認められた。これらの変異はp53の全翻訳領域に広く存在し、P53の機能の不活化が予想された。犬の自然発生腫瘍におけるp53遺伝子の変異が高頻度に認められたことから,犬の腫瘍発生におけるp53遺伝子の不活化の重要性が示唆された。 MDM2はP53の転写活性能を阻害し、その分解を促進することから、腫瘍発生に関与する分子であることが示唆されている。第2章では、犬mdm2遺伝子のクローニングを行い、その腫瘍症例における発現について解析した。犬肝臓cDNA libraryをスクリーニングし、犬mdm2遺伝子の全翻訳領域を含む1474bpのクローンを得た。その塩基配列から予想されるアミノ酸配列は他種のmdm2遺伝子のそれらと80〜93%の相同性を示し、機能ドメインもよく保存されていた。犬の自然発生腫瘍におけるmdm2遺伝子の増幅についてSouthern法により検討したところ、骨肉腫の1例において遺伝子増幅が認められた。次に、その発現をRT-PCR法により解析した結果、犬の腫瘍組織において、9例中8例においてmdm2遺伝子の明らかな発現増強が認められた。さらに、犬由来骨肉腫細胞株2株のいずれにおいても80kDaのMDM2蛋白の発現が確認され、免疫組織学的検索では、検索に用いた犬由来骨肉腫細胞株2株および腫瘍症例9例中7例の腫瘍組織において核におけるMDM2蛋白の過剰発現が確認された。以上の結果、犬の腫瘍において高頻度にmdm2遺伝子およびMDM2蛋白の発現が検出され、犬における腫瘍発生機構にMDM2の発現増強が関与している可能性が強く示唆された。 腫瘍細胞では高率に染色体数の変化が認められており、染色体異数性の発現が細胞の悪性形質の獲得に関与していることが示唆されている。染色体異数性をもたらす一つの要因として、中心体の過剰複製による染色体の分配異常が重要な役割を果たすことが示されており、第3章では犬の自然発生腫瘍における中心体の過剰複製について検討した。はじめに、染色体の異数性が認められている犬由来骨肉腫細胞株2株について検討したところ、23%および24%の細胞において3個以上の中心体が検出され、高率に中心体の過剰複製が存在することが示された。横紋筋肉腫、骨肉腫,乳腺腫瘍などの犬の自然発生腫瘍症例9例から得られた組織について検討したところ、全例で明らかな中心体の過剰複製が認められた。これらの腫瘍組織においては9.5〜48%の細胞に、3〜20個の中心体が認められ、高率に中心体の過剰複製が存在することが示された。近年、p53遺伝子の変異またはMDM2蛋白の過剰発現と中心体の過剰複製との関連性がマウスの細胞において報告されたが、本研究において中心体の過剰複製が認められた犬の腫瘍細胞株および腫瘍組織のほとんどで、p53遺伝子の変異およびMDM2蛋白の過剰発現のいずれかまたはその両方が検出されたことから、犬の自然発生腫瘍においてもP53の不活化と中心体の過剰複製が関連していることが示唆された。 以上、本論文は犬の悪性腫瘍発生の機構を分子レベルで解明しようと試みたものであり、本研究の過程で、p53遺伝子の変異、mdm2遺伝子の発現増強、中心体の過剰複製といった細胞の悪性形質の獲得に大きな役割を果たすと考えられる一連の知見を得ている。これらの知見は、学術上、また今後の小動物臨床への応用上、多いに貢献するものである。よって審査委員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。 |