学位論文要旨



No 115325
著者(漢字) 瀬戸口,明日香
著者(英字)
著者(カナ) セトグチ,アスカ
標題(和) 犬の悪性腫瘍の分子機構に関する研究
標題(洋) Studies on the molecular mechanism of malignant neoplasms in the dog
報告番号 115325
報告番号 甲15325
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2170号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 助教授 中山,裕之
 東京大学 助教授 大野,耕一
内容要旨

 近年小動物臨床においては腫瘍症例の増加が顕著で、その診断・治療に関して多大な努力が払われているが、依然として予後不良の場合が多く、臨床上大きな問題になっている。とくに犬においては乳腺腫瘍、リンパ腫、白血病、骨肉腫、肥満細胞腫など、多彩な腫瘍の発生が観察され、これらの腫瘍は臨床的にもヒトに発生するそれらと極めて類似している。将来的な遺伝子治療を考慮すると、腫瘍発生に関する分子機構の研究は、今後の小動物臨床における新規治療の開発においてきわめて重要であると考えられる。

 小動物における腫瘍発生の分子機構についてはこれまでいくつかの癌遺伝子(c-myc、rasなど)の活性化という観点から研究がなされてきた。しかし、これら癌遺伝子の活性化の認められない症例も多く、他の側面からの腫瘍発生機構の解明が必要とされている。一方、近年の急速な分子生物学の発展に伴い、腫瘍細胞は複数の癌遺伝子および癌抑制遺伝子の異常が積み重なった結果発生するという多段階発癌説が広く受け入れられるようになってきた。そこで本研究では、犬の腫瘍における多段階発癌機構を想定し、癌抑制遺伝子に着目し、その不活化をもたらす分子機構、および癌抑制遺伝子の不活化によってもたらされる腫瘍発生の分子機構について一連の研究を行った。

第1章犬のp53遺伝子の分子クローニングおよび自然発生腫瘍における変異

 p53遺伝子はヒトの種々の腫瘍の半数以上の症例で変異や欠失の認められ、最も重要な癌抑制遺伝子の一つと考えられている。本章では、犬の自然発生腫瘍におけるp53遺伝子の不活化について検討した。P53は、P21を介したCyclin-Cdk複合体阻害による細胞周期のG1停止およびBaxを介したアポトーシス誘導といった機能を有することが明らかにされたことから、p53遺伝子の不活化は細胞の腫瘍化に重要な役割を果たしていることが示唆されている。そこでヒト、猫およびマウスのp53遺伝子においてよく保存されている領域の塩基配列をもとにプライマーを作成し、p53遺伝子の全翻訳領域を重なり合う約500bpの3つのフラグメントに分け、犬の脾臓cDNAを鋳型としてpolymerase chain reaction(PCR)法によって犬のp53遺伝子断片を増幅した。これら3つのフラグメントの塩基配列を組み合わせることによって得られた1247bpの塩基配列には、46bpの5’非翻訳領域、381のアミノ酸をコードする1143bpの翻訳領域、58bpの3’非翻訳領域が含まれていた。このアミノ酸配列はヒト、猫、マウス、ラットのp53遺伝子がコードするアミノ酸配列とそれぞれ79.7%、86.0%、71.8%、72.7%の相同性を示していた。また犬のp53遺伝子においても、魚類から哺乳類にわたってよく保存されている5つのConserved domain、Transactivation domain、SV40 large T antigen-binding domain、Nuclear localization singnalおよびMultimerization domainの配列がよく保存されており、犬P53が他種のP53と同様の機能を持つことが予想された。次に、得られた犬のp53遺伝子の塩基配列をもとに、全アミノ酸翻訳領域をカバーするように3組のプライマーペアを設定し、PCR-SSCP(polymerase chain reaction-single strand conformation polymorphism)法を用いてその変異の解析を行った。犬の悪性リンパ腫7例、単球性白血病1例、乳腺腫瘍2例、横紋筋肉腫1例、直腸癌1例、骨肉腫3例を用いて、腫瘍組織cDNAを鋳型としたPCRを行い、一本鎖DNAとしたサンプルを非変性条件下で電気泳動した。その結果、悪性リンパ腫では7例中1例において、また単球性白血病、直腸癌、横紋筋肉腫、骨肉腫では全例で正常組織とは移動度の異なる2本のバンドが検出され、直腸癌および骨肉腫の各1例では4本の異常バンドが検出された。これらのバンドを採取し、その塩基配列を解析したところ、各症例で1〜8箇所の点突然変異、欠失、挿入が認められた。これらの変異はp53の中心的な機能であるDNA bindingdomainやMultimerization domainに多く存在し、P53の機能の不活化が予想された。またそれぞれの症例から採取した非腫瘍組織ではp53遺伝子の変異は認められなかったことから、これら腫瘍組織におけるp53遺伝子の変異が腫瘍発生の過程において起きたものと考えられた。このように犬の複数の悪性腫瘍において高頻度にp53遺伝子の変異が認められたことから、腫瘍化におけるその重要性が示唆された。

第2章犬mdm2遺伝子の分子クローニングおよび自然発生腫瘍における発現

 MDM2は、その過剰発現によってP53の転写活性能を阻害し、またユビキチン・プロテオソーム系の活性化を介してP53の分解を促進することから、腫瘍発生に関与する分子であることが示唆されている。そこで本章においては、犬の腫瘍発生におけるMDM2の関与を検討するため、犬mdm2遺伝子のクローニングを行い、その腫瘍症例における発現について解析した。はじめに、犬の肝臓cDNAを鋳型としPCRによって、犬mdm2遺伝子断片を増幅した。得られた遺伝子断片をプローブとして犬肝臓cDNA libraryをスクリーニングし、犬mdm2遺伝子の全翻訳領域を含む1474bpのクローンを得た。本クローンの塩基配列から予想されるアミノ酸配列はヒト、マウス、ハムスターのmdm2遺伝子それらと80〜93%の相同性を示し、とくにP53-binding domain,Acidic region,Zinc finger domainなどの機能ドメインもよく保存されていた。得られた犬mdm2遺伝子クローンをプローブとし、犬の自然発生腫瘍におけるmdm2遺伝子の増幅の有無についてSouthern法を用いて検討したところ、骨肉腫の1例においてmdm2の遺伝子増幅が認められた。次に、得られた犬mdm2遺伝子の塩基配列を基に作成したプライマーを用いたRT-PCRを行い、その発現を解析した。正常組織では脳、副腎、腎臓、リンパ節で低レベルの発現が認められたのみであり、他の組織ではその発現は検出されなかった。犬由来骨肉腫細胞株3株、リンパ細胞株1株においては、いずれにおいても明らかなmdm2遺伝子の発現増強が認められた。犬の腫瘍組織においては、9例中8例においてmdm2遺伝子の明らかな発現増強か認められた。さらに、抗ヒトMDM抗体を用い、Western blottingを行ったところ、犬由来骨肉腫細胞株3株のいずれにおいても80kDaのMDM2蛋白の発現が確認された。そこで、免疫組織学的検索を行ったところ、検索に用いた犬由来骨肉腫細胞株3株および腫瘍症例9例中7例の腫瘍組織において核内にMDM2蛋白の過剰発現が確認された。以上の結果、犬の腫瘍において高頻度にmdm2遺伝子およびMDM2蛋白の発現が検出され、犬における腫瘍発生機構にMDM2の発現増強が関与している可能性が強く示唆された。

第3章犬の自然発生腫瘍における中心体の過剰複製

 腫瘍細胞では高率に染色体数の変化が認められており、染色体異数性の発現が細胞の悪性形質の獲得に関与していることが示唆されている。染色体異数性をもたらす一つの要因として、中心体の過剰複製による染色体の分配異常が重要な役割を果たすことが示されている。そこで、本章では犬の自然発生腫瘍より得られた組織において中心体の蛍光抗体法による免疫組織学的検出を行い、その数の算定を行つた。はじめに中心体の構成蛋白である抗-tubulin抗体と抗BRCA1抗体または抗pericentrin抗体を用いた二重染色を行い、これらの抗体の犬の組織における交差性について確認した。次に、染色体の異数性が認められている犬由来骨肉腫細胞株2株(POS、OOS)について検討したところ、それぞれの23%および24%の細胞において、3個以上の中心体が検出される細胞が認められ、高率に中心体の過剰複製が存在することが示された。犬の自然発生腫瘍症例9例(横紋筋肉腫1例、骨肉腫3例、軟骨肉腫1例、粘液肉腫1例、乳腺腫瘍3例)から得られた組織について検討したところ、全例で明らかな中心体の過剰複製が認められた。これらの腫瘍組織においては9.50%〜48.1%の細胞に、3〜20個の中心体が認められ、高率に中心体の過剰複製が存在することが明らかとなった。近年、ヒトの腫瘍において、p53遺伝子の変異またはMDM2蛋白の過剰発現が認められる細胞では高頻度に中心体の過剰複製が認められることが報告されている。本研究において中心体の過剰複製が認められた犬の腫瘍細胞株および腫瘍組織のほとんどで、p53遺伝子の変異およびMDM2蛋白の過剰発現のいずれかまたはその両方が検出されたことから、犬の自然発生腫瘍においてもP53の不活化と中心体の過剰複製が関連していることか示唆された。以上の知見より、犬の自然発生腫瘍において、中心体の過剰複製が高頻度に起こっていることが明らかとなり、染色体の不安定性がもたらされていることが示唆された。

 多くの動物種において、自然腫瘍発生の分子機構に関してさまざまな研究が行われているが、未だ不明な点が多い。本研究で認められたp53遺伝子の異常は、犬の腫瘍発生における癌抑制遺伝子の不活化の関与という新しい視点を与える有用な知見であると考えられる。癌抑制遺伝子の機能は、細胞周期の制御に重要であり、その不活化は細胞の癌化に重要であると考えられている。また、本研究で明らかとなったp53遺伝子の不活化およびMDM2の過剰発現によるP53の機能の不活化は、染色体の不安定性をもたらし、細胞の悪性形質の獲得につながるものと考えられた。このような知見から、癌抑制遺伝子は将来的な遺伝子治療の有力な候補となりうることが示唆される。一方、腫瘍発生の分子機構の研究はヒトおよび実験動物で行われてきたが、自然発生腫瘍が多発し、その臨床症状もヒトと酷似している犬は、ヒトの腫瘍の動物モデルとしても有用であり、その腫瘍発生の分子機構を解明することは、犬のみならずヒトの癌を制圧するためにも重要であると考えられる。したがって、犬のp53遺伝子およびmdm2遺伝子のクローニングを行い、p53遺伝子の変異およびMDM2の過剰発現によってもたらされるP53の不活化が犬の自然発生腫瘍において高頻度に起こっていることを示し、またこのような腫瘍細胞で中心体の過剰複製が高頻度に認められることを示した本研究は、犬の自然発生腫瘍の分子機構の解明に大きな進歩をもたらすものと考えられる。

審査要旨

 近年小動物臨床においては腫瘍症例の増加が臨床上問題になっており、腫瘍発生の分子機構の研究は新規治療法の開発という点からも急務である。そこで本研究では、犬の腫瘍において、細胞周期の制御異常を中心とした腫瘍発生の分子機構ついて研究を行った。

 P53は、細胞周期のG1停止およびアポトーシス誘導機能を有することから、p53遺伝子の不活化は細胞の腫瘍化に重要であることが示唆されている。第1章では、犬の自然発生腫瘍におけるp53遺伝子の不活化について検討した。犬の脾臓cDNAからpolymerase chain reaction(PCR)法によって犬のp53遺伝子断片を増幅した。得られた1247bpの犬p53遺伝子の塩基配列は、381のアミノ酸をコードする1143bpの全翻訳領域、および非翻訳領域が含まれていた。予想されるアミノ酸配列は他種のp53遺伝子のそれらと72〜86%の相同性を示し、機能ドメインの配列も保存されていた。次に、PCR-SSCP(PCR-single strand conformation polymorphism)法を用いて、犬の自然発生腫瘍における、p53遺伝子の変異の解析を行った。その結果、悪性リンパ腫では7例中1例で、単球性白血病、直腸癌、横紋筋肉腫、骨肉腫では全例で正常組織とは移動度の異なるバンドが検出され、これらのバンドの塩基配列を解析したところ、各症例で1〜8箇所の点突然変異、欠失、挿入が認められた。これらの変異はp53の全翻訳領域に広く存在し、P53の機能の不活化が予想された。犬の自然発生腫瘍におけるp53遺伝子の変異が高頻度に認められたことから,犬の腫瘍発生におけるp53遺伝子の不活化の重要性が示唆された。

 MDM2はP53の転写活性能を阻害し、その分解を促進することから、腫瘍発生に関与する分子であることが示唆されている。第2章では、犬mdm2遺伝子のクローニングを行い、その腫瘍症例における発現について解析した。犬肝臓cDNA libraryをスクリーニングし、犬mdm2遺伝子の全翻訳領域を含む1474bpのクローンを得た。その塩基配列から予想されるアミノ酸配列は他種のmdm2遺伝子のそれらと80〜93%の相同性を示し、機能ドメインもよく保存されていた。犬の自然発生腫瘍におけるmdm2遺伝子の増幅についてSouthern法により検討したところ、骨肉腫の1例において遺伝子増幅が認められた。次に、その発現をRT-PCR法により解析した結果、犬の腫瘍組織において、9例中8例においてmdm2遺伝子の明らかな発現増強が認められた。さらに、犬由来骨肉腫細胞株2株のいずれにおいても80kDaのMDM2蛋白の発現が確認され、免疫組織学的検索では、検索に用いた犬由来骨肉腫細胞株2株および腫瘍症例9例中7例の腫瘍組織において核におけるMDM2蛋白の過剰発現が確認された。以上の結果、犬の腫瘍において高頻度にmdm2遺伝子およびMDM2蛋白の発現が検出され、犬における腫瘍発生機構にMDM2の発現増強が関与している可能性が強く示唆された。

 腫瘍細胞では高率に染色体数の変化が認められており、染色体異数性の発現が細胞の悪性形質の獲得に関与していることが示唆されている。染色体異数性をもたらす一つの要因として、中心体の過剰複製による染色体の分配異常が重要な役割を果たすことが示されており、第3章では犬の自然発生腫瘍における中心体の過剰複製について検討した。はじめに、染色体の異数性が認められている犬由来骨肉腫細胞株2株について検討したところ、23%および24%の細胞において3個以上の中心体が検出され、高率に中心体の過剰複製が存在することが示された。横紋筋肉腫、骨肉腫,乳腺腫瘍などの犬の自然発生腫瘍症例9例から得られた組織について検討したところ、全例で明らかな中心体の過剰複製が認められた。これらの腫瘍組織においては9.5〜48%の細胞に、3〜20個の中心体が認められ、高率に中心体の過剰複製が存在することが示された。近年、p53遺伝子の変異またはMDM2蛋白の過剰発現と中心体の過剰複製との関連性がマウスの細胞において報告されたが、本研究において中心体の過剰複製が認められた犬の腫瘍細胞株および腫瘍組織のほとんどで、p53遺伝子の変異およびMDM2蛋白の過剰発現のいずれかまたはその両方が検出されたことから、犬の自然発生腫瘍においてもP53の不活化と中心体の過剰複製が関連していることが示唆された。

 以上、本論文は犬の悪性腫瘍発生の機構を分子レベルで解明しようと試みたものであり、本研究の過程で、p53遺伝子の変異、mdm2遺伝子の発現増強、中心体の過剰複製といった細胞の悪性形質の獲得に大きな役割を果たすと考えられる一連の知見を得ている。これらの知見は、学術上、また今後の小動物臨床への応用上、多いに貢献するものである。よって審査委員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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