学位論文要旨



No 115327
著者(漢字) 瀧上,周
著者(英字)
著者(カナ) タキガミ,シュウ
標題(和) 哺乳類の鋤鼻系に関する組織学的研究
標題(洋)
報告番号 115327
報告番号 甲15327
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2172号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 助教授 西原,眞杉
 東京大学 助教授 中山,裕之
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
内容要旨

 哺乳類の鋤鼻系は、匂い分子の感知・識別を主たる機能とする嗅覚系とは異なる役割を担う化学情報伝達(Chemical communication)システムであると考えられている。この系で受容・情報処理される物質はフェロモンであり、感受されたフェロモン情報は、受容した個体の内分泌環境を変化させることで、生殖行動や社会行動の発現に大きな影響を及ぼすと想定されている。鋤鼻系の感覚器は、鼻腔内にある一端が閉じた左右一対の盲管すなわち鋤鼻器であり、この鋤鼻器で受容されるフェロモン情報は、鋤鼻神経を経由して嗅球の後背側部に位置する副嗅球へと伝達される。最近の研究から、嗅覚系に関しては約千種類の匂いレセプターをコードする遺伝子群が同定されたことにより、匂い識別に関与する分子メカニズムが明らかとなり、また嗅上皮から主嗅球への嗅神経の領域特異的な投射が匂いレセプターに依存して起こることなど新知見が次々に得られている。しかし、鋤鼻系に関する情報は嗅覚系に比べまだ非常に限られているのが現状である。本研究は哺乳類の鋤鼻系における受容・情報処理機能を形態学的観点から検討することを目的に行ったもので、本論文は以下のように5章から構成される。

 第1章では総合緒言として鋤鼻系に関する現在までの研究を概観し本研究の背景と目的について述べた。

 第2章では、鋤鼻ニューロン上におけるフェロモンレセプターの発現部位について免疫細胞化学的な手法を用いて検討した。フェロモンレセプター・(V1Rs)をコードしていると考えられる遺伝子群は、1995年にDulacとAxelによって初めてクローニングされた。本章では、その中の一つであるVN6のアミノ酸配列を基にペプチド断片を合成し、これを抗原としてポリクローナル抗体PR6を作製した。鋤鼻ニューロンの局在する感覚上皮は、その対側にある呼吸上皮様の非感覚上皮とともに外界へと通ずる鋤鼻腔を形成している。鋤鼻ニューロンは双極形態をとり、軸索を副嗅球へと投射する一方で樹状突起様に突起を鋤鼻腔へと伸ばしている。また、鋤鼻腔に露出した突起の遠位端は、小丘様構造をとり微絨毛で覆われている。PR6の陽性免疫反応は、鋤鼻ニューロンの微絨毛や小丘様構造部位で検出された。陽性反応の検出された感覚上皮の鋤鼻腔に接する部位は、外界から鋤鼻腔内に取り込まれたフェロモン分子との接触が可能な場所である。この陽性反応は免疫抗原であるペプチド断片の添加によってのみ阻害されたことから、PR6は合成ペプチド断片のアミノ酸配列を有するVN6を鋤鼻ニューロンにおいて認識していることが示された。したがって今回作製した抗体PR6はVN6を認識し、VN6はその発現部位などから考えてフェロモンレセプターである可能性が高いと考えられた。

 次の第3章では、第2章で鋤鼻ニューロン上での発現部位を明らかにしたフェロモンレセプターと鋤鼻ニューロンに特異的に発現している2種類のG蛋白サブユニットであるGi2とGoについて、免疫細胞化学的な手法を用いてラット鋤鼻器と副嗅球における個体発生学的な変化について検討した。Gi2およびGoは異なるタイプのフェロモンレセプターと共役していると推察されており、それぞれフェロモン信号の細胞伝達機構に関連していると考えられている。鋤鼻ニューロンには、感覚上皮の表層から2/3程の層に位置してV1Rs型フェロモンレセプターとGi2を発現し副嗅球の吻側領域に投射しているニューロンと、感覚上皮の基底部1/3に位置してV2Rs型フェロモンレセプターとGoを発現し副嗅球の尾側領域に投射しているニューロンの、2つのタイプの存在が示されている。Goは鋤鼻ニューロンに胎生期から発現していたが、Gi2やフェロモンレセプターはいずれも生後7日齢から鋤鼻感覚上皮の鋤鼻腔と接する面で観察され始めた。鋤鼻神経の副嗅球への到達時期を比べると、Goを発現している鋤鼻神経終末は、Gi2を発現している鋤鼻神経終末に先行し、胎生16日齢ごろにはすでに副嗅球へと到達していた。一方、Gi2を発現している鋤鼻神経終末は、胎生18日齢ごろから副嗅球の吻側領域に出現し、成体で見られるような吻・尾側2領域に分かれた鋤鼻ニューロンの投射パターンは、こうして胎生末期にその基本パターンが整い始めることが明かとなった。本章の結果より、鋤鼻系がその機能を発揮するのに不可欠な、フェロモンレセプターの発現と第一次中継核である副嗅球への神経投射の基本的なパターンが整い始めるのは、鋤鼻ニューロンの微絨毛が伸展し始める生後7日齢頃であることが示唆された。従って、鋤鼻系は胎生期にはまだ機能しておらず、出生後に急速に発達しておそらく哺乳期間中にフェロモン情報の受容伝達機能を獲得している可能性が示唆された。

 第4章では、様々な動物種における鋤鼻ニューロンの副嗅球への投射パターンに着目し、Gi2およびGoの免疫細胞化学を用いて哺乳類の鋤鼻系についての系統発生学的な検討を行った。哺乳類の鋤鼻系に関する研究は、これまで主にラットなどの実験用齧歯類を中心に行われてきたため、齧歯類で得られた結果があたかも哺乳類全般に共通する性質であるかのように認識されている嫌いがある。しかし、フェロモンの受容器官である鋤鼻器の形態や、フェロモンによって引き起こされる行動や生理的反応には明らかな動物種差がみられることから、哺乳類における鋤鼻系の情報処理機能を包括的に理解するためには、ラットやマウス以外の動物についても鋤鼻ニューロンの副嗅球への投射パターンを明らかにする必要があると考えられた。

 そこで本章では、様々な動物種の鋤鼻系について鋤鼻器の形態や鋤鼻ニューロンの副嗅球への投射パターンを観察し、得られた結果をもとに系統発生学的な考察を試みた。ラットなどの齧歯類、モルモット、オポッサムなどでは、Gi2を発現している鋤鼻ニューロン群は副嗅球の吻側領域に、Go発現ニューロン群は尾側領域に投射しているのに対して、偶蹄類のヤギ、奇蹄類のウマ、肉食類のイヌ、食虫類のスンクス、そして霊長類のコモンマーモセットでは、いずれもGi2を発現している鋤鼻ニューロンが副嗅球全域にわたって投射しており、またGoを発現している鋤鼻ニューロンの投射は副嗅球では確認することができなかった。鋤鼻感覚上皮についても、ラットではGi2およびGoの発現がともに感覚上皮の鋤鼻腔面で観察されたが、ヤギ、ウマ、イヌ、スンクスおよびマーモセットではGoは発現しておらず、副嗅球での結果と一致してGi2の発現のみが観察された。これらの結果より、哺乳類における鋤鼻ニューロンの副嗅球への投射パターンには、少なくとも2種類以上が存在することが示唆された。また、Gi2を発現している鋤鼻ニューロンの副嗅球への投射が、今回検討した全ての動物種で保存されていたことから、Gi2を発現している鋤鼻ニューロン群が担う機能的役割が、全哺乳類に共通するいわば鋤鼻系の基本的な機能である可能性が示唆された。哺乳類の鋤鼻系におけるフェロモン情報の受容・処理機構を解明し、行動様式や環境適応との関係を充分に理解するためには、ラットやマウスなど実験用動物についての研究だけでは不十分であり、本章で試みたような様々な系統の哺乳動物種を用いた鋤鼻系に関する比較動物学的研究の推進が不可欠であろうと思われた。

 遺伝子がコードする情報は、蛋白に翻訳され機能分子として発現することで初めて生体にとって意義あるものとなる。本研究では、1995年に初めて報告されたフェロモンレセプターの候補遺伝子がコードする膜7回貫通型蛋白が、実際にフェロモンレセプターであることの傍証を、ペプチド断片の発現する部位や時期を検討することによって形態学的観点から示した。このような形態学的観察手法は、機能的な蛋白をコードする遺伝子の部位特異的あるいは時期特異的な発現様式を解析する上で重要と考えられる。鋤鼻系のフェロモン受容に関わる機能分子について蛋白レベルで解析を行ったのは本研究が初めてであるが、鋤鼻系の機能発現の時期などを同定する上でより直接的な証拠が得られたと思われる。また本研究の結果から、これまでに齧歯類などで報告されてきたGi2、Goをそれぞれ発現する2種類の鋤鼻ニューロン群が副嗅球の吻・尾側2領域に分かれて投射するというパターンは、哺乳類に共通のものではなく、むしろ齧歯類以外のほとんどの動物種の鋤鼻系では、Gi2を発現した鋤鼻ニューロン群のみが副嗅球へ投射していることが強く示唆された。鋤鼻系が深く関わるとされる生殖行動や生理的反応は、それぞれの動物種の生息環境や生活様式に適応進化した種特有のものであり、それゆえ哺乳類のフェロモン受容・情報処理機構を解明していく上では、この鋤鼻ニューロンの投射パターンや行動などの違いを踏まえて比較動物学的見地から研究を進めていくことがとりわけ重要であろうと考えられる。本研究では、Gi2を発現している鋤鼻ニューロン群の副嗅球への投射が多くの哺乳動物で保存されている可能性が示唆されたが、鋤鼻系本来の機能を知るためには、まずGi2を発現してぃる鋤鼻ニューロンが関わる行動や現象の共通点を抽出するといったアプローチが必要になるのがもしれない。例えば、今後の課題としては、V2Rs型フェロモンレセプターの発現部位の検討やGi2欠損マウスの鋤鼻系に関する研究、さらには齧歯類以外の動物種における副嗅球以後のより高次の鋤鼻系神経路の探索、などが挙げられよう。本研究で得られた神経解剖学的な知見をもとに哺乳類の鋤鼻系の機能を解明していくためには、さらに動物行動学的、あるいは神経内分泌学的な視点に立った総合的な解析への展開が必要と考えられる。

審査要旨

 哺乳類の鋤鼻系は、匂い分子の感知・識別を主たる機能とする嗅覚系とは異なる役割を担う化学情報伝達(Chemical communication)システムであると考えられている。この系で受容・情報処理される物質はフェロモンであり、感受されたフェロモン情報は、受容した個体の内分泌環境を変化させることで、生殖行動や社会行動の発現に大きな影響を及ぼすと想定されている。本研究は哺乳類の鋤鼻系における受容・情報処理機能を形態学的観点から検討することを目的に行ったもので、本論文は以下のように5章から構成される。

 第1章は総合緒言であり、鋤鼻系に関する現在までの研究が概観され、本研究の背景と目的が述べられている。

 第2章では、鋤鼻ニューロン上におけるフェロモンレセプターの発現部位が免疫組織化学的な手法を用いて検討された。フェロモンレセプター(V1Rs)をコードしていると考えられる遺伝子群の中の一つであるVN6のアミノ酸配列を基にペプチド断片を合成し、これを抗原として作製したポリクローナル抗体PR6の陽性免疫反応は、鋤鼻ニューロンの微絨毛や小丘様構造部位で検出され、この陽性反応は免疫抗原のペプチド断片の添加によってのみ阻害されたことから、PR6は合成ペプチド断片のアミノ酸配列を有するVN6を鋤鼻ニューロンにおいて認識しており、VN6はその発現部位などから考えてフェロモンレセプターである可能性が高いことが示された。

 次の第3章では、第2章で鋤鼻ニューロン上での発現部位を明らかにしたフェロモンレセプターと鋤鼻ニューロンに特異的に発現している2種類のG蛋白サブユニットであるGi2とGoについて、免疫組織化学的な手法によりラット鋤鼻器と副嗅球における個体発生学的な変化が検討された。鋤鼻ニューロンには、感覚上皮の表層から2/3程の層に位置してV1Rs型フェロモンレセプターとGi2を発現し副嗅球の吻側領域に投射しているニューロンと、感覚上皮の基底部1/3に位置してV2Rs型フェロモンレセプターとGoを発現し副嗅球の尾側領域に投射しているニューロンの、2つのタイプの存在が示されている。本章の結果より、鋤鼻系がその機能を発現するのに不可欠な、フェロモンレセプターの発現と第一次中継核である副嗅球への神経投射の基本的なパターンが整い始めるのは、鋤鼻ニューロンの微絨毛が伸展し始める生後7日齢頃であり、従って鋤鼻系は胎生期にはまだ機能しておらず、出生後に急速に発達しておそらく哺乳期間中にフェロモン情報の受容伝達機能を獲得している可能性が示唆されている。

 第4章では、様々な動物種における鋤鼻ニューロンの副嗅球への投射パターンに着目し、Gi2およびGoの免疫組織化学を用いて哺乳類の鋤鼻系についての系統発生学的な検討が行なわれた。様々な動物種の鋤鼻系について鋤鼻器の形態や鋤鼻ニューロンの副嗅球への投射パターンが観察され、得られた結果をもとに系統発生学的な考察が試みられた。ラットなどの齧歯目、モルモット、オポッサムなどでは、Gi2を発現している鋤鼻ニューロン群は副嗅球の吻側領域に、またGo発現ニューロン群は尾側領域に投射しているのに対して、偶蹄目のヤギ、奇蹄目のウマ、肉食目のイヌ、食虫目のスンクス、そして霊長目のコモンマーモセットでは、いずれもGi2を発現している鋤鼻ニューロンが副嗅球全域にわたって投射しており、またGoを発現している鋤鼻ニューロンの投射は副嗅球では確認されなかった。鋤鼻感覚上皮についても、ラットではGi2およびGoの発現がともに感覚上皮の鋤鼻腔面で観察されたが、ヤギ、ウマ、イヌ、スンクスおよびマーモセットではGoは発現しておらず、副嗅球での結果と一致してGi2の発現のみが観察された。これらの結果より、哺乳類における鋤鼻ニューロンの副嗅球への投射パターンには少なくとも2種類以上が存在し、またGi2を発現している鋤鼻ニューロンの副嗅球への投射が今回検討した全ての動物種で保存されていたことから、Gi2を発現している鋤鼻ニューロン群が担う機能的役割が、全哺乳類に共通するいわば鋤鼻系の基本的な機能である可能性が示唆された。

 第5章は総合考察であり、本研究で得られた結果を中心に、既報の様々な知見を援用しながら、哺乳類における鋤鼻系の役割についての考察が展開されている。

 以上、要するに本研究は、哺乳類のフェロモン受容機構である鋤鼻系の個体発生および系統発生について形態学的な観点より詳細な検討を行ったものであるが、得られた比較解剖学的研究成果は哺乳類のケミカルコミュニケーションを理解するための基盤的情報となりうるものであり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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