学位論文要旨



No 115340
著者(漢字) 洪,性赫
著者(英字)
著者(カナ) ホン,ソンヒョク
標題(和) 犬の骨肉腫細胞に対するレチノイドの分化誘導に関する研究
標題(洋) Effect of retinoids on differentiation induction in canine osteosarcoma cells
報告番号 115340
報告番号 甲15340
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2185号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 小川,博之
 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 助教授 中山,裕之
 東京大学 助教授 西村,亮平
内容要旨

 骨肉腫は間葉系の造骨系細胞由来の腫瘍であると考えられており、非常に発育が速く、かつ早期に肺へ転移するなど、その悪性度は極めて高い腫瘍の一つである。近年腫瘍の早期診断と治療法の進歩によって、悪性腫瘍が限局している場合の治癒率は高まったが、転移が生じ全身的な疾患になった場合には、ほとんど治癒が期待できないのが現状である。このため、転移を減少させ得る治療法や、従来の治療方法と併用することによってさらに効果的に腫瘍原発巣および転移巣を治療できる治療方法の確立が切望されている。

 分化誘導療法とは、より未分化な腫瘍細胞に対し生理活性物質を用いて分化を亢進させ、腫瘍の悪性度の低下、すなわち増殖、浸潤、転移に関連した腫瘍原性の低下をはかり、化学療法の感受性を高める治療方法である。この治療法は他の癌治療方法に比較して副作用が少なく、新しい治療方法として期待されている。

 レチノイド(ビタミンA)は成長や視覚の維持、形態形成、上皮組織や血球、免疫細胞の分化など種々の生理作用を有する。レチノイドを用いた分化誘導療法はすでに一部の白血病に応用され、とくに化学療法との併用によって寛解率および生存率の著しい改善が認められており、他の難治性固形腫瘍に対する適応が期待されている。また、ヒトではその他に皮膚癌、頭頸部癌、肺癌、膀胱癌、乳癌でその抗腫瘍効果が報告されている。さらに実験室レベルでは様々な癌に対してin vitro,in vivoでの分化誘導効果が報告されている。しかし、これらの試みは獣医学分野ではほとんど報告がない。

 本研究では、転移が高率に生じ、きわめて予後の悪い犬の骨肉腫細胞を用い、2種類のレチノイドによる分化誘導効果ならびに増殖抑制効果を検討した。さらにこれらの作用の機序を検討するため、レチノイドレセプターならびに腫瘍細胞のアポトーシスの発現を測定し、両者の関連を検討した。また、腫瘍細胞を移植したヌードマウスモデルを用い、レチノイドのin vivoにおける腫瘍増殖抑制効果ならびに転移抑制作用を検討し、臨床応用の可能性を評価した。

 第1章では本研究全体に対する現在までの研究成果を序論として述べた。

 第2章では、実験に必要な犬骨肉腫細胞株を臨床例から2株樹立した。

 1例は10歳、雌のマルチーズ種の下顎に発生した骨肉腫であり、剖検時に原発巣から摘出し、これを直接培養して樹立した(OOS)。他の1例は7歳、雑種成犬の肩甲骨に発生したものであり、摘出材料を一旦ヌードマウスに移植し、形成された腫瘤を培養して樹立したものである(HOS)。OOS、HOSの組織型は、それぞれ混合型、線維芽細胞型であった。樹立した細胞の倍加時間はOOSが45時間、HOSが42時間であった。透過型電子顕微鏡所見では、HOSでは多数の拡張した粗面小胞体が認められ、OOSに比較して活発な増殖を示唆する所見が得られた。一方、これらの細胞のアルカリフォスファターゼ(ALP)活性は,OOSとHOSはいずれも低値であった。さらに、これらをヌードマウスに移植して形成される腫瘍の組織学的所見は、原発巣の所見とよく一致した。今回樹立した細胞株は原発巣の性状を比較的保持していることが認められ、本研究に有用な細胞と考えられた。

 第3章では、すでに本研究室で樹立した骨肉腫細胞株であるPOSを加えた3種の犬骨肉腫細胞株に対する2つのレチノイド、all-trans-retinoic acid(ATRA),9-cis-retinoic acid(9-cis-RA)の増殖抑制ならびに分化誘導効果について検討した。なお、分化誘導効果については、形態学的変化に加えて骨芽細胞の表現形質の特異的なマーカーに関しても検討した。

 2つのレチノイドにより各細胞の増殖は用量依存的に有意に抑制された。またレチノイド処置により、各細胞は培養時の形態が偏平化ならびに伸展し、細胞間の重なりの程度も減少したことから、形態的にも分化誘導作用が認められた。さらにレチノイドはすべての細胞のDNA合成も用量依存性に減少させ、すべての細胞のcolony forming activityを抑制した。3種の細胞中ではPOSがレチノイドに対し最も高い感受性を示した。

 一方、骨芽細胞の表現形質についてみると、レチノイドはOOS,HOSの細胞内ALP活性値や染色性を増加させたが、POSに対してはこれらを減少させた。これらの結果は、OOS,HOSは未成熟な骨芽細胞の性質を有し、POSは成熟した骨芽細胞の性質を持っていることが示唆するものとも考えられた。一方、レチノイドはすべての細胞のosteocalcin産生量を用量依存的に減少させた。またHOS,POSのI型collagenの産生量はレチノイド処置によって用量依存性に増加し、OOSでは減少した。これらの結果は、レチノイドによる細胞の表現形質に対する作用が各細胞の分化程度だけでなく、他の機序を介して発現する可能性を示唆するものと思われ、今後の検討課題と思われた。

 第4章では、犬骨肉腫細胞株におけるレチノイド受容体であるreinoic acid receptors(RARs)とretinoid X receptors(RXRs)の存在を検討し、あわせて、これらの細胞に対するレチノイドのアポトーシス誘導効果を検討した。

 その結果、レチノイドの培養液への添加により、全ての細胞株で形態的な変化である核の濃縮、クロマチンの凝集がみられ、また、細胞の大きさの縮小した細胞が増加した。さらにアポトーシスの指標であるDNA断片化を観察したところ、レチノイドの10-5M濃度での培養により、すべての細胞でDNA断片化が確認された。一方、これら3種の犬骨肉腫細胞にはRARsとRXRsの両者が検出された。9-cis-RAはRARsとRXRsの両者に結合し,ATRAはRARsのみに結合した。これらの結果から、犬骨肉腫細胞にはRARsとRXRsの両者が存在し、これらにレチノイドが特異的に結合することによってアポトーシスを誘導する可能性が示唆された。

 第5章では、骨肉腫細胞を移植されたヌードマウスに形成される腫瘤に対するレチノイドの腫瘍増殖抑制効果ならびに転移抑制効果についてin vivoで検討した。

 すべての群のヌードマウスには、レチノイド投与に伴う副作用は臨床的にも剖検時の肉眼所見においても見られなかった。細胞移植によって腫瘤が形成された後から9-cis-RA投与を開始した群では、腫瘍の増殖が抑制される傾向を示した。またレチノイドを投与しないcontrol群ではすべてのヌードマウスに肺転移が認められたが、30mg/kg/dayの9-cis-RAを投与した群では有意に肺転移が抑制された。しかし、ATRAには有意な腫瘍増殖抑制効果はみられなかった。

 以上の結果から、9-cis-RAはヌードマウスに副作用を示すことなく、犬の骨肉腫細胞移植腫瘍に対し増殖抑制や肺転移抑制作用を示すことが示唆された。これらの結果はこれらの生理活性物質が犬の自然発生骨肉腫症例にも効果を示す可能性のあることを示唆するものであった。

 以上の研究から、犬骨肉腫細胞はRARsとRXRsの両者を有し、レチノイドと特異的に結合することによって分化誘導され、増殖が抑制されることが示された。また、この作用はアポトーシスを介して発揮されることが示唆された。用いた2種のレチノイドのうち9-cis-RAはヌードマウスに副作用を示すことなく、犬の骨肉腫細胞移植腫瘍に対し増殖抑制や肺転移抑制作用を示すことが示唆された。これらの結果はこれらの生理活性物質が犬の自然発生骨肉腫症例にも効果を示す可能性のあることを示唆するものであり、臨床応用の可能性を示唆するものであった。

審査要旨

 悪性腫瘍に対する従来の化学療法は主に腫瘍殺滅効果を自的としたものが多く、そのため正常な細胞もその影響を受け、少なからず副作用が生じた。一方、近年急性白血病等に用いられているレチノイドを用いた分化誘導療法は未分化な腫瘍細胞の分化を亢進して腫瘍の増殖能を低下させる治療法であり、副作用の少ない治療法の一つとして注目されている。しかし、これらをきわめて悪性度の高い固形腫瘍に応用した報告は多くはない。そこで、本研究では、犬の骨肉腫細胞を用い、2種類のレチノイドによる分化誘導効果ならびに増殖抑制効果を検討し、その臨床応用の可能性を評価した。

 第1章の序論につづき、第2章では、実験に必要な犬骨肉腫細胞株を臨床例から2株樹立した。

 1例は10歳、雌のマルチーズ種の下顎に発生した骨肉腫であり、剖検時に原発巣から摘出し、これを直接培養して樹立した(OOS)。他の1例は7歳、雑種成犬の肩甲骨に発生したものであり、摘出材料を一旦ヌードマウスに移植し、形成された腫瘍を培養して樹立したものである(HOS)。OOS、HOSの組織型は、それぞれ混合型、線維芽細胞型であり、倍加時間はそれぞれ45時間、42時間であった。これらをヌードマウスに移植して形成された腫瘍の組織学的所見は、原発巣の所見とよく一致した。

 第3章では、すでに本研究室で樹立した骨肉腫細胞株であるPOSを加えた3種の犬骨肉腫細胞株に対する2つのレチノイド、all-trans-retinoic acid(ATRA),9-cis-retinoic acid(9-cis-RA)の増殖抑制ならびに分化誘導効果について検討した。なお、分化誘導の指標には形態学的変化に加えて骨芽細胞に特異的な表現形質をマーカーとして用いた。その結果、2つのレチノイドの培養液への添加により各細胞の増殖は用量依存的に有意に抑制された。またレチノイド処置により、各細胞には形態的に分化誘導作用が認められ、またDNA合成やcolony forming activityが用量依存性に減少した。

 骨芽細胞の表現形質である細胞内アルカリフォスファターゼ(ALP)活性値や染色性は、細胞により異なる反応を示したが、これらの結果は各細胞の成熟度に起因することが示唆された。一方、レチノイドはすべての細胞のosteocalcin産生量を用量依存的に減少させた。またHOS,POSの1型collagenの産生量は用量依存性に増加し、OOSでは減少した。これらの結果は、レチノイドによる細胞の表現形質に対する作用が各細胞の分化程度だけでなく、他の機序を介して発現する可能性を示唆するものと思われた。

 第4章では、レチノイドの作用を介在するレチノイド受容体、reinoic acid receptors(RARs)とretinoid X receptors(RXRs)の存在を検討し、あわせて、これらの細胞に対するレチノイドのアポトーシス誘導効果を検討した。その結果、これら3種の犬骨肉腫細胞にはRARsとRXRsの両者が検出された。9-cis-RAはRARsとRXRsの両者に結合し、ATRAはRARsのみに結合した。一方、レチノイドの培養液への添加により、全ての細胞株で形態的な変化である核の濃縮、クロマチンの凝集がみられ、また、大きさの縮小した細胞が増加した。さらにアポトーシスの指標であるDNA断片化を観察したところ、レチノイドの10-5M濃度での培養により、すべての細胞でDNA断片化が確認された。したがって、レチノイドは骨肉腫細胞のレチノイド受容体と結合し、アポトーシスならびに分化誘導を生じ、そのことによって増殖が抑制されるものと考えられた。

 第5章では、骨肉腫細胞を移植したヌードマウスに形成される犬骨肉腫腫瘤に対するレチノイドの増殖抑制効果ならびに転移抑制効果についてin vivoで検討した。その結果,移植腫瘍形成後に9-cis-RA投与を開始した群では、腫瘍増殖が抑制される傾向を示し、さらに肺転移は有意に抑制された。以上の結果は、9-cis-RAが犬の自然発症骨肉腫に対しても増殖抑制や肺転移抑制作用を示す可能性のあることを示唆しており、今後の臨床応用の可能性を示唆するものであった。

 以上要するに、本研究はレチノイドのような生理活性物質が悪性固形腫瘍に対しても増殖抑制ないし転移抑制を示す可能性を証明したものであり、その学術上および臨床的研究に対する貢献は少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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