ネコ免疫不全ウイルス(FIV)はヒト免疫不全ウイルス(HIV)と同じレトロウイルス科レンチウイルス属に属している。HIVによるAIDS発症のメカニズムは未だ十分に解明されておらず、数多くの疑問点が残されている。FIV感染ネコは1年から数年もの長い潜伏期を経てAIDS様症状を起こすことからHIV感染の重要なモデルとなっており、FIVのネコにおける病原性発現機序や防御応答についての研究はこれらの疑問点を解明するのに大きく貢献することが期待されている。近年の分子生物学の発展に伴いFIVのウイルス学は飛躍的に進歩し、比較的短期間にFIVのゲノム構造や複製調節機構などが解明され、いくつもの重要な発見がされた。しかし、ネコの免疫学はヒトに関する研究と比べて大きな遅れをとっており、実際、ヒトのリンパ球CD抗原のネコ相同体に対するモノクローナル抗体も、数えるほどしか入手できない。このため、FIVに関するウイルス学的な進展をin vivoに還元しがたいのが現状であった。著者はこれらのネコ免疫学研究上の問題点を解決するため、ネコのFIV感染に大きく関与すると考えられる分子のcDNAのクローニングと組換え蛋白の解析を積極的に行った。本研究においては、ヒトでT細胞のマーカーとされるCD3抗原、およびナチュラルキラー(NK)細胞のマーカーとされるCD56抗原のネコ相同体を認識するモノクローナル抗体の作出に成功し、さらにFIV感染ネコのリンパ球表面抗原について解析を行った。これらの成果は、ネコの免疫機構、FIV感染に対する防御機構の理解に大きく貢献するものと考えられる。本論文は、以下の5章より構成されている。 第1章:ネコT細胞活性化抗原CD26相同体のdipeptidyl peptidase IV(DPP-IV)活性による、ネコSDF-1/の修飾 CD26はinterleukin2などで活性化されたT細胞に発現する分子であり、T細胞レセプター/CD3複合体からの刺激に続く、副刺激を伝達し、T細胞を活性化する。またDPP-IV活性をもち、N末から2番目にプロリン、あるいはアラニンをもつポリペプチドに作用し、そのN末のジペプチドを切断する。近年発見されたHIVのコ・レセプター、CXCR4のリガンドであるstromal-cell derived factor-1 and (SDF-1/)は、シグナルペプチドを切断された後、N末にDPP-IV基質配列を持つ。DPP-IVによりN末を切断されたSDF-1/はCXCR4への結合をHIVと拮抗する能力を失うことが報告されている。FIVの一部の株もCXCR4をコ・レセプターに使用していることが近年報告され、感染機構におけるHIVとの共通性が指摘されている。ネコのCD26もDPP-IV活性の触媒部分に相当するアミノ酸配列を保存しており、DPP-IV活性を示しうることが明らかになった。さらにネコのSDF-1/がDPP-IV活性の基質となりうるのかを検討した。その結果、ネコのSDF-1/は予想されるシグナルペプチドを切断された後、N末から2番目にプロリンが位置し、DPP-IVにより切断されうることが明らかになり、CD26とSDF-1との相互作用のFIV感染への影響が示唆された。 第2章:CD28/CTLA4-CD80/CD86分子群のネコ相同体の解析 CD28はT細胞に発現し、第1章で解析したCD26と同様にT細胞活性化の二次刺激を伝達する分子である。CTLA4はCD28と相同性をもつ分子であるが、CTLA4は抑制性シグナルを起こすと考えられている。CD28、CTLA4の共通のリガンドは抗原提示細胞上に発現しているCD80、CD86であり、生体における様々なT細胞反応の開始、維持、制御に重要な働きをしている。ネコのCD28、CTLA4も、他の動物種のCD28と同様に、リガンドCD80、CD86との結合に重要なモチーフを保存していた。特にCTLA4の細胞内ドメインは他の動物種のCTLA4と非常に高い相同性を示しており、細胞膜での発現、シグナル伝達に重要な機能を共有していることが示唆された。さらにCD80、CD86のクローニングも行い、バキュロウイルス系を用いて発現した。従来、ヒト、マウスのCD80、CD86の解析のために、ヒトCTLA4の細胞外ドメインと、マウス免疫グロブリンの定常部分との融合蛋白(CTLA4-Ig)が頻用されているが、組換えネコCD80及びCD86もCTLA4-Igと結合することが明らかにされた。 第3章:ヒトNK細胞マーカーのネコ相同体の解析 ヒトにおいてFcRIII-AとCD56抗原がNK細胞の主要なマーカーとされている。ヒトのFcRIIIは、膜貫通型、GPI結合型の2種類が報告されており、膜貫通型のものがNK細胞に発現されているが、今回著者はネコのFcRIIIの膜貫通型分子のクローニングに成功した。ヒトにおいてCD56は細胞膜貫通領域の構造から、大きく3つのタイプのCD56抗原が報告されているが、ネコの胸腺から分離されたcDNAは140kDa型のものであった。さらにバキュロウイルス系を用いて組換えネコCD56を作出し解析した。抗ヒトCD56抗体を用いての間接蛍光抗体法、western blotting解析により、発現が確認された。組換えネコCD56を発現した昆虫細胞は、細胞塊を形成し凝集することから、ネコCD56もヒトやマウスのCD56と同様に、CD56同士で接着することが示された。さらに、ネコCD56に対するモノクローナル抗体(SZK1)を作製した。組換えバキュロウイルス(rAcfCD56F140)感染昆虫細胞で免疫したマウスからハイブリドーマを樹立し、ネコ末梢血単核球スメアに対する間接蛍光抗体法でスクリーニングした。SZK1は、間接蛍光抗体法、western blotting解析においてバキュロウイルス発現組換えネコCD56分子に反応性を示した。 第4章:ネコCD3相同体をコードするcDNAのクローニングと組換え蛋白の発現 T細胞抗原CD3は、ヒト、マウスなどにおいてT細胞レセプター(TCR)/CD3複合体を構成する分子で、T細胞のマーカーとして頻用されている。ネコのCD3相同体をコードするcDNAをPCR法により単離した。他の動物種のCD3と相同性を比較したところ、細胞外ドメインでは低いのに対して細胞内ドメインでは高く、細胞内シグナル伝違に必要だと考えられている様々なモチーフが保存されていた。さらにバキュロウイルス系を用いて組換えタンパクを発現した。ヒトCD3の細胞内ドメインに対するポリクローナル抗体を用いての間接蛍光抗体法、western blotting法により、その発現が確認されるとともに、単離した遺伝子がネコのCD3相同体をコードしていることが示された。 第5章:FIV感染ネコにおいて増加するCD8+-or low細胞群の解析 CD8は鎖と鎖で構成されており、のヘテロダイマー、のホモダイマーで存在する。ヒトにおいては、前者はCD3+TCRT細胞に、後者はCD3+TCRT細胞とNK細胞に発現している。近年、FIV感染ネコにおいてCD8+-or low細胞群が増加することが見いだされ、さらにCD8+low細胞群はFIV増殖を抑制する活性を持つことが明らかになっている。しかし、ネコにおいてこららの細胞群がT細胞なのか、NK細胞なのかを含め、詳細な解析は行われていない。第5章で組換えネコCD3を作出したことを利用し、ネコCD3に対するモノクローナル抗体(NZM1)を作製し、フローサイトメトリーによる解析を行った。その結果、CD8+-or low細胞群はCD3を発現していることからT細胞系だと考えられた。 以上のように、ヒトのリンパ球機能、特にHIV感染に対する免疫応答の制御に重要だとされているリンパ球表面抗原の、ネコの相同体についての一次構造が明らかとなった。これらの一次構造をもとに、組織特異的なmRNAの解析、ネコの相同体を認識するモノクローナル抗体の作製などが可能になると思われる。HIV感染における細胞指向性、すなわちT細胞指向性であるか、マクロファージ指向性であるかは、そのウイルス株がどのコ・レセプター(代表的なものはそれぞれ、CXCR4、CCR5)を用いるかにより決定されている。CXCR4のリガンド、SDF-1/のネコの相同体の構造は、ヒトのものと全く同一であることが明らかとなったため、現在入手可能なヒトSDF-1/の組換えタンパクや抗体を、そのままネコの解析に利用できることが裏付けられた。これらの結果は、両ウイルスの宿主における感染性を反映しているとも考えられ、様々な動物種に高く保存されている構造を模倣することで、種を越えて感染しやすくするためのウイルス側の戦略である可能性も示唆された。ヒト、マウスなどにおいてT細胞上のCD28/CTLA4と抗原提示細胞上のCD80/CD86の相互作用が、異なる細胞種間での情報伝達、T細胞の活性化などに重要な役割をなすことが報告されており、HIV感染のみならず、自己免疫疾患を含め、広く免疫学上注目されている。組換えタンパクを用いた実験から、これらのネコ相同体も同様の相互作用を行うことが示唆され、疾患モデル動物としてのネコの有用性は今後さらに高まることと考えられる。また近年HIVに対するDNAワクチンと共に、CD80あるいはCD86発現DNAワクチンを投与することで、HIV特異的細胞傷害性リンパ球の誘導が著しく増強されることが近年報告されており、ネコの臨床への応用も期待できる。さらにヒトのNK細胞のマーカーであるCD56、T細胞のマーカーとなるネコCD3を認識するモノクローナル抗体の作出に成功し、FIV感染ネコで特異的に観察されるCD8+-or low細胞群の解析を行った。ヒトにおいてCD8+-細胞群はNK細胞であると考えられていることから、FIV感染ネコで増加するCD8+-細胞群もNK細胞である可能性が示唆されていたが、本研究によりT細胞であることが確認された。CD8+-or low細胞群の解析は、FIV感染におけるTリンパ球の役割に新たな知見を与えたばかりでなく、FIV感染防御上、重要な役割を担う可能性を示すものであった。また、これまでに知られていなかったいくつかの新しい知見が明らかとなり、これらの知見は、ネコの免疫学、比較免疫学の研究ならびに、ネコのFIV感染を含むレトロウイルスの感染に対する免疫応答の解析に役立つものと考えられる。さらに、代表的なFIV感染防御に関連するリンパ球表面抗原のネコ相同体についての分子生物学的研究の基礎は確立されたものと考えられ、これらcDNAおよびCD8陽性細胞群の情報は、今後、それぞれの分子に基づいたネコの免疫学的研究およびFIV感染における免疫応答解析に非常に有用であるだけでなく、ヒトAIDSにおける免疫応答・免疫療法やHIVワクチン開発の研究材料として非常に重要になるものと期待され、モデル動物としてのネコの有用性もさらに高まるものと考えられる。 |