学位論文要旨



No 115356
著者(漢字) バルコバ,ジュリエッタ
著者(英字) Valkova,Joulieta
著者(カナ) バルコバ,ジュリエッタ
標題(和) 神経系細胞におけるc-kit受容体シグナルの解析 : アデノウイルスを用いた解析
標題(洋) DIFFERENTIAL SIGNALING OF C-KIT RECEPTOR IN NEURONAL CELLS(STUDIED BY ADENOVIRAL VECTORS)
報告番号 115356
報告番号 甲15356
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1542号
研究科 医学系研究科
専攻 分子細胞生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 澁谷,正史
 東京大学 助教授 久保田,俊一郎
 東京大学 助教授 谷,憲三朗
 東京大学 助教授 中田,隆夫
 東京大学 助教授 平家,俊男
内容要旨

 c-kitは血球系細胞の増殖因子であり血液幹細胞、前駆細胞、肥満細胞、ナチュラルキラー細胞に働きアポトーシスを阻害する幹細胞因子(stem cell factor;SCF)の受容体である。c-kitはType IIIレセプターチロシンキナーゼファミリーに属し、SCFの結合はレセプターの重合と細胞内チロシンキナーゼの活性化を引き起こし、下流のシグナル伝達経路を活性化する。c-kitは血球系細胞のみならず、神経系細胞にも発現することが報告されており、SCF(Sl)、c-kit(W)の突然変異マウスの解析においてc-kitの異常は学習機能や記憶に障害をおよぼすことは観察されている。しかし血球系に比べて、神経細胞でのc-kit役割は未だ明かにはされていない。神経系におけるこのレセプターの発現は、胎生期から神経管に認められ、成人ではグリア細胞と一部の神経細胞に発現が認められる。一方リガンドであるSCFは多くの神経系細胞での発現が確認されており、神経系においてc一kitのシグナルが何らかの役割を担っていることが推測される。興味あることに、グリアに属する星状膠細胞(アストロサイト)ではc-kitの発現が認められるが、腫瘍化した星状細胞腫(アストロサイトーマ)ではその発現は消失する事が報告され、アスロサイトの腫瘍化とc-kitの発現には何らかの関与がある可能性が示唆された。そこで申請者はc-kitの神経系細胞における機能、特に腫瘍化との関連について解析するため、アストロサイト、及びアストロサイトーマにアデノウイルスベクター(AxCA-c-kit)(図1-A)を用いて、マウスc-kitを導入し、その変化を観察した。アデノウイルスを用いる利点は、一過性に高効率にかつ非分裂細胞にも遺伝子を導入できることにあり、神経系細胞への遺伝子導入に適している。またAxCA-c-kitのコントロールにはGFPのみを発現するAxCA-GFPを作製し実験に用いた。

図-1(A)アデノウイルス構築、および(B)感染細胞(DBT)でのc-kit(左)GFP(右)の発現;SCFの添加によりエンドサイトーシスをうけc-kitの発現は低下する(図左下)。
結果と考察

 1)作製したAxCA-c-kitは高率にアストロサイトーマに感染することがFACSを用いた分析の結果観察された。なお、リガンドであるSCFの添加によりこのc-kit受容体は発現の低下がおき、リガンド依存性の機能をもつことが確認された(図1-B)。このように感染させたc一kit陽性アストロサイトーマはSCFの添加により約40%がアポトーシスを起こすことが、Annexin Vを用いたFACS解析にて確認された。このアポトーシスはコントロールのGFPを発現するウイルスでは起こらず、アデノウイルスの感染による影響で無いことが確認された。これに対し、血球系細胞であるBA/F3に持続的にc-kitを発現する細胞株では、SCFの添加は逆にアポトーシスを阻害する事が観察された。アストロサイトーマのc-kit導入によるアポトーシスは、SCFの添加なしでも観察されたたが、導入されたc-kitがリン酸化されていることがウェスタンブロットなどの解析から明かとなった。この事実からアストロサイトーマがc-kitのリガンドであるSCFを持続的に産生しており、オートクリンまたはパラクリンにc-kit発現細胞を活性化し、アポトーシスを誘導しているのではないかと推定した。まず、RT-PCRを用いてアストロサイトーマのSCFの発現を調べたところ、その産生が確認された。さらにSCFの添加は導入したc-kitのリン酸化を増強していることも観察された。これらの実験はすべて二種類のアストロサイトーマ細胞株(マウス由来DBT、及ラット由来RCR-1)を用いて行いともに同様の結果が得られた。

 2)さらにこのアストロサイトーマにおけるc-kitによるアポトーシスがc-kit特異的なシグナルによるものであるか否かを検討するため、c-kitのキナーゼ活性サブユニットの機能を失った点変異体であるW42を、GFPをマーカーとしてレトロウイルスベクターを用いて導入した。このキナーゼ活性を失ったc-kitはSCFの添加によってもアポトーシスを誘導せず、さらに野生型c-kitの過剰発現によるアポトーシスを抑制した(図2)。以上の結果より、c-kitの細胞内チロシンキナーゼの活性化は、アストロサイトーマにおいては、血球系の細胞とは異なり、細胞増殖や細胞の生存を誘導するのではなく、アポトーシスを誘導することが確かめられた。

図-2;点変異体c-kit(W42)による野生型c-kitを介するアポトーシスの抑制;W42を発現していない、GFP陰性アストロサイトーマ細胞(DBT)では(図下左;R2)、アデノウイルスc-kitの導入によってアポトーシス(図下縦軸がアポトーシスを表す)が観察されるが、W42を発現しているGFP陽性細胞(図下右;R3)ではc-kit導入によるアポトーシスは抑制されている。

 3)次に我々はこのアストロサイトにおけるc-kitを介するアポトーシスのメカニズムを探るため、アポトーシスに関与すると考えられるいくつかのシグナル伝達分子を調べた。p53およびカスパーゼファミリーは、いろいろな細胞系においてアポトーシスの誘導に中心的な役割を担っていることから、アストロサイトーマのc-kitによるアポトーシスの誘導において、これらの蛋白質の関与を解析した。紫外線照射によるアポトーシスの誘導においては、p53蛋白質の誘導が観察されたが、c-kitの発現によるアポトーシスの誘導においてはp53は誘導されず、p53非依存的アポトーシスであった。一方、カスパーゼファミリーの中で、イニシエーター酵素と呼ばれるカスパーゼ1、2、8、9の抑制剤であるzVAD-FMKにより、c-kitによるアストロサイトーマのアポトーシスは抑制され、c-kitを介したシグナルによりカスパーゼが活性化されてアポトーシスが誘導される可能性が示唆された。

 4)正常なアストロサイトでは、このようなc-kitによるアポトーシスの誘導は見られるだろうか。生後1日のマウス脳よりアストロサイトの初代培養を行った。マーカーであるGFAP(glial fibrillary acidic protein)の免疫染色により90%以上の純度のアストロサイトが得られた。アデノウイルスベクターを用いてc-kitを導入し、多数の細胞にc-kitを発現させたが、アストロサイトーマとは異なり、アポトーシスは観察されなかった。アストロサイト初代培養細胞も持続的にSCFを産生し、発現させたc-kitの自己リン酸化が見られたことからc-kitが活性化されていることは確認され、シグナル伝達系の下流が、アストロサイトーマと異なると考えられた。

 これらのアストロサイトおよびアストロサイトーマに対するc-kitの作用は、メラニン細胞(メラノサイト)および黒色腫細胞(メラノーマ)の性質とそのc-kitの発現との関係と類似する。メラノサイトは発生過程において神経堤細胞より分化し、正常状態でc-kitを高発現している。これに対し、メラノーマでは、c-kitの発現は減少し、c-kitの発現の減少と悪性度の増大が相関すると報告されている(Huang et al.1996 Oncogene)。さらに悪性度の高いメラノーマにc-kitを高発現することにより、転移能等の悪性度を示す指標が減少することも報告されている。これは、メラノーマにおいてもアストロサイトーマのように、高発現したc-kitがアポトーシスを誘導している可能性を示唆している。

結語

 神経系を起源とするアストロサイトーマのような腫瘍細胞において、腫瘍化の過程においてc-kitを介するシグナルは、アポトーシスを誘導するシグナル伝達系を活性化するようになると考えられ、正常細胞や血液細胞系におけるc-kitの作用とは、全く異なる役割があることが明らかとなった。また脳腫瘍の中でも頻度が高く難治性であるアストロサイトーマの新しい治療法として、c-kitを遺伝子導入し腫瘍死をおこさせるという新たな遺伝子治療の可能性が開かれた。

審査要旨

 c-kitは、血球系細胞の増殖因子である幹細胞因(stem cell factor;SCF)の受容体である。c-kitは血球系細胞のみならず、神経系細胞にも発現することが報告されており、SCF(Sl)、c-kit(W)の突然変異マウスの解析においてc-kitの異常は学習機能や記憶に障害をおよぼすことは観察されている。しかし血球系に比べて、神経細胞でのc-kit役割は未だ明かにはされていない。神経系におけるこのレセプターの発現は、胎生期から神経管に認められ、成人ではグリア細胞と一部の神経細胞に発現が認められる。グリアに属する星状膠細胞(アストロサイト)ではc-kitの発現が認められるが、腫瘍化した星状細胞腫(アストロサイトーマ)ではその発現は消失する事が報告され、アスロサイトの腫瘍化とc-kitの発現には何らかの関与がある可能性が示唆された。そこでアストロサイトーマ、及び初代培養アストロサイトにアデノウィルスベクター(AxCA-c-kit)を用いて、マウスc-kitを導入し、その変化を観察した。またコントロールにはGFPのみを発現するAxCA-GFPを作製し実験に用いた。

 1)作製したAxCA-c-kitは高率にアストロサイトーマに感染し、c-kit陽性アストロサイトーマはSCFの添加により約40%がアポトーシスを起こすことが、Annexin Vを用いたFACS解析にて確認された。これに対し、血球系細胞であるBA/F3に持続的にc-kitを発現する細胞株では、SCFの添加は逆にアポトーシスを阻害する事が観察された。導入されたc-kitがリン酸化されていることがウェスタンブロットなどの解析から明かとなった。これはアストロサイトーマがc-kitのリガンドであるSCFを持続的に産生しており、オートクリンまたはパラクリンにc-kit発現細胞を活性化し、アポトーシスを誘導していることを明らかにした。

 2)c-kitのキナーゼ活性サブユニットの機能を失った点変異体を、GFPをマーカーとしてレトロウイルスベクターを用いて導入した。このキナーゼ活性を失ったc-kitはSCFの添加によってもアポトーシスを誘導せず、さらに野生型c-kitの過剰発現によるアポトーシスを抑制した。すなわちc-kitの細胞内チロシンキナーゼの活性が、アストロサイトーマのアポトーシス誘導に必須であることが確かめられた。

 3)p53およびカスパーゼファミリーは、いろいろな細胞系においてアポトーシスの誘導に中心的な役割を担っているが、c-kitの発現によるアポトーシスの誘導においてはp53は誘導されず、p53非依存的アポトーシスであった。一方、カスパーゼファミリーの中で、イニシエーター酵素と呼ばれるカスバーゼ1、2、8、9の抑制剤であるzVAD-FMKにより、c-kitによるアストロサイトーマのアポトーシスは抑制され、c-kitを介したシグナルによりカスパーゼが活性化されてアポトーシスが誘導される可能性が示唆された。

 4)生後1日のマウス脳よりアストロサイトの初代培養を行った。アデノウイルスベクターを用いてc-kitを導入し、多数の細胞にc-kitを発現させたが、アストロサイトーマとは異なり、アポトーシスは観察されなかった。アストロサイト初代培養細胞も持続的にSCFを産生し、発現させたc-kitの自己リン酸化が見られたことからc-kitが活性化されていることは確認され、シグナル伝達系の下流が、アストロサイトーマと異なると考えられた。

 以上本研究により、神経系を起源とするアストロサイトーマのような腫瘍細胞において、腫瘍化の過程においてc-kitを介するシグナルは、アポトーシスを誘導するシグナル伝達系を活性化するようになると考えられ、正常細胞や血液細胞系におけるc-kitの作用とは、全く異なる役割があることが明らかとなった。また脳腫瘍の中でも頻度が高く難治性であるアストロサイトーマの新しい治療法として、c-kitを遺伝子導入し腫瘍死をおこさせるという新たな遺伝子治療の可能性が開かれた。

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