学位論文要旨



No 115359
著者(漢字) 長田,智治
著者(英字)
著者(カナ) オサダ,トモハル
標題(和) マウスピューロマイシン感受性アミノペプチダーゼ遺伝子の行動と生殖に関する生理機能の解明
標題(洋)
報告番号 115359
報告番号 甲15359
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1545号
研究科 医学系研究科
専攻 分子細胞生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 勝木,元也
 東京大学 教授 芳賀,達也
 東京大学 教授 山本,雅
 東京大学 助教授 和泉,孝志
 東京大学 助教授 久保田,俊一郎
内容要旨

 哺乳類の新規遺伝子や機能未知遺伝子が関与する分子メカニズムを個体レベルで理解する強力な方法として、マウス突然変異体が示す表現型の解析から変異遺伝子の生理機能を解明するforward geneticsによるアプローチがある。現在までにこの手法から得られてきた多くの知見は、マウス遺伝子ターゲティング法に代表されるreverse geneticsによる解析法と同様、様々な生命現象の理解に多大な貢献を果たしてきた。そのひとつにトラップベクター(基本的にレポーター遺伝子と薬剤耐性遺伝子から構成される)のマウスゲノムへの挿入変異を利用した突然変異体作成法であるマウス遺伝子トラップ法が挙げられる。この方法を用いて、変異体マウス"goku"は三菱化学生命科学研究所竹内らによって作成された。この変異体はトラップベクターの挿入を受けた遺伝子(トラップ遺伝子)の発現が胎生期において主に神経系で強いマウス系統として樹立された。ヘテロ接合体は明らかな異常は認められなかったが、ヘテロ接合体同士の交配により小人症を示すマウスが見い出された。このマウスの遺伝子型はレポーター遺伝子の発現強度からホモ接合体(以下gokuマウス)であることが示唆された。ヘテロ接合体はBALB/cA系統への戻し交配をll代行った形で維持されていた。私は以下に示すようにgokuマウスの表現型の原因と考えられる変異遺伝子の同定と、その因果関係を明らかにするための詳細な機能解析を行った。

(1)トラップ遺伝子の発現解析と遺伝子の同定

 トラップ遺伝子の発現解析を、導入されたレポーター遺伝子を用いて行った。胎生期の強い神経系での発現は生後では全身に広がる。しかし、脳および精巣に特に強い発現が観察された。特に脳では海馬、線条体に強い発現が認められた。また、各種細胞マーカーとの二重染色によりPsa遺伝子は主要な全てのタイプの神経細胞に発現していることが分かった。

 次にトラップ遺伝子の同定を5’-RACE法により行ったところ、ピューロマイシン感受性アミノペプチダーゼ(Psa)遺伝子であることが判明した。Psaはエンケファリンの細胞外代謝に関与する酵素として単離されたが、後にPsaは細胞内に存在することが示された。そのためその代謝機能を含め生体内での機能は全く不明であった。サザン解析によりPsa遺伝子内にトラップベクターが挿入されていることを確認した後、gokuマウスにおけるPsa遺伝子の変異状況をノザン解祈および内在性アミノペプチダーゼ活性の測定により行った。変異型アレルからの転写物は翻訳領域の5’末端側の一部を残し、Psaの酵素活性中心をコードする領域を含めた下流はこの置換により完全に消失していることが判明した。実際、酵素活性測定によってgokuマウス脳由来の粗抽出液のピューロマイシンに阻害される画分が大幅に減少していた。これら3種類の解析によりgokuマウスはPsa欠損マウスであると結論された。

 Psa遺伝子のヒト遺伝性疾患や自然発症変異体マウスとの相関を明らかにするために染色体マッピングを行った。その結果、Psa遺伝子はマウス第11番染色体に座位することが判明した。この領域のヒト相同領域は17q21-22であり、一部類似した病態を示す遺伝性疾患が近傍に座位していることが明らかとなった。しかし現在のところPsa遺伝子とこの疾患の相関は明らかでない。

(2)gokuマウスの表現型解析

 (1)の結果からgokuマウスは機能未知遺伝子であるPsa遺伝子の生理機能を解明するための優れたモデル動物であることが示された。そこでgokuマウスの詳細な表現型解析を行い、Psa遺伝子の関与する分子カスケードの解明を目指した。その結果以下に示す小人症、不安および痛みに関する行動異常、そして雌雄の不妊を見い出した。

(i)小人症

 ヘテロ接合体同士の交配による各遺伝子型マウスの成長曲線を1〜7週齢まで測定した。gokuマウスの体重は野生型に比べ70〜80%の範囲で推移した。小人症および異常な行動の原因を探るために、各遺伝子型マウス血清から成長ホルモンおよびインスリン様成長ホルモンを含めその生化学的性状を解析した。その結果、成長および甲状腺ホルモン異常や栄養不良等は示唆されなかった。これらの結果からgokuマウスの示す小人症は成長ホルモン関連の異常ではなく他の経路の異常を示唆している。

(ii)行動異常

 次にgokuマウスの示す行動異常を解析した。その結果、新規環境下での活動量の低下、および不安に対する忌避行動の増強が観察された。また、Psa遺伝子とエンケファリンの代謝機能に関する過去の知見からgokuマウスの痛み刺激に対する反応性の異常が示唆された。その能力を検定したところ、末梢のみを介する反応は野生型と同程度であったが末梢および中枢性を介する痛み刺激に対する反応に明らかな遅延が認められた。この結果から中枢性の痛み刺激を伝達する知覚経路の機能低下が示された。しかしながら、遺伝子型間でエンケファリンの脳内分布に大きな変化は認められず、Psa分子の他の生理活性分子への関与が示唆された。以上の解析により、Psa遺伝子は主に中枢において情動および痛み刺激に対する行動の制御に重要な役割を担うことが明らかになった。

(iii)雄不妊

 goku雄マウスの不妊については、発情雌マウスとの同居後の行動観察から生殖行動が認められず、それが不妊の原因と考えられた。さらに精巣における精子形成不全が認められ、フローサイトメトリーによる解析から減数分裂後の成熟精子細胞の減少が示された。また精巣の組織観察から認められる精子形成不全と生殖細胞の脱落は加齢とともに進行し、一年齢の変異型精巣では生殖細胞は殆ど消失していた。性行動および精子形成の主要な制御因子である生殖ホルモン群を測定したところテストステロンおよび黄体ホルモンの減少が認められた。しかし、テストステロン投与による表現型の回復は観察されなかった。これらはテストステロンの下流に異常があることを示唆する。実際、電子顕微鏡観察により変異体精巣のセルトリ細胞(テストステロンの標的細胞)の機能低下が認められた。さらにPsa遺伝子がこの細胞で発現することが示された。これらの結果からPsa遺伝子がセルトリ細胞においてテストステロンからの情報伝達に関与することが考えられた。以上の結果よりPsa遺伝子は中枢および精巣において性行動および精子形成に重要な役割を担うことが分かった。

(iv)雌不妊

 goku雌マウスの性周期を調べたところ野生型で認められる周期性が失われていた。一方、交尾行動は観察されたが産仔は確認されなかった。ゴナドトロビン処理により排卵は確認されたが、このホルモン投与後の交配によってもやはり産仔は得られなかった。これらの結果からgoku雌マウスの着床能の消失が考えられた。野生型初期胚を各遺伝子型偽妊娠マウス子宮に移植した結果、移植を施したgoku雌マウスには着床痕が認められず産仔も得られなかった。次に着床、妊娠に必須であるプロジェステロンの産生組織である黄体の発達を観察した。変異体では排卵後に発生する初期黄体の形成は認められたが、妊娠に必要量のプロジェステロンを産生する機能黄体へ移行せず退行することが観察された。実際、退行の認められた時期での血清プロジェステロン値は野生型に比べ著しく減少していた。従って、goku雌マウスは機能黄体形成不全によるプロジェステロン欠乏から着床障害を起こし不妊に至ると考えられた。この原因組織を調べるため卵巣交換移植を行った。その結果、変異体卵巣を移植した野生型雌から産仔が得られ移植した変異体卵巣にも機能黄体が観察された。一方、野生型卵巣を移植したgoku雌からは妊娠が成立しなかった。この結果は機能黄体形成不全は生殖ホルモンにより構成される視床下部一下垂体軸の異常に由来することを示している。齧歯類における機能黄体形成には交尾刺激により発生する下垂体性プロラクチンの日周性分泌が必要とされている。そこでgoku雌マウスにおける交配後の血清プロラクチン値の動態を経時的に測定したところ、この日周性分泌は観察されなかった。以上よりPsa遺伝子は正常な性周期形成と機能黄体形成に必要であることが判明した。特に後者の形成機構にはプロラクチンの分泌制御を介して関与することが明らかになった。

 以上の解析からPsaが主に脳または下垂体において成長、行動および生殖に重要な役割を担う分子であることが明らかになった。特に生殖機能の解析から雄においてはテストステロンの下流、雌においてはプロラクチンの上流に存在するシグナル伝達系に関与するという示唆を得た。特に雄においては精巣での精子形成への関与も考えられた。

 本研究から得られた知見よりPsaの従来考えられたエンケファリンの代謝機能以外に生殖ホルモンの細胞内情報伝達系への関与が示唆された。これらの制御系の関与には数々の神経ぺプチドが存在することが報告されている。そして、その多くが成長または行動への関与も知られていることから、それらの分子群の代謝経路にPsaが関与する可能性が考えられる。また、Psa遺伝子配列にはプロテオソームと相同性の高い領域が存在することから、細胞内でのシグナル分子の代謝機能への関与が示唆されており興味深い。このように、生体内基質の探索を含めたPsaが関与する分子カスケードの全容を解明することはヒトを含めた哺乳類の成長、行動そして生殖機能の分子メカニズムの解明に大きく寄与すると期待される。この視点からも当研究は意義深い知見を与えたと考えられる。

審査要旨

 本研究は、高等動物における個体生理に重要な役割を担う遺伝子を同定し、さらにその遺伝子が関与する生理現象を明らかにするために、マウス遺伝子トラップ法を用いて人為的に作成された突然変異体マウスの表現型解析および、その原因と考えられる変異遺伝子の同定を行い、下記の結果を得ている。

 1.変異体マウスが小人症を示すことを明らかにした。この原因を探るべく、成長関連ホルモンを測定したところ、明らかな低下あるいは高値は見い出されなかった。さらにこの変異体マウスが示す情動行動の異常を見い出した。これは新規環境下における不安の増大と、痛み刺激に対する中枢性の反応行動の延長という2種類の行動異常である事を明らかにした。さらに、血清の生化学的性状および筋カテストは正常であった事から、これらの行動異常は主に中枢性の機能障害に起因すると考えられた。

 2.変異体の雌不妊について、雄に対する生殖行動は示すが妊娠が成立しない事を明らかにした。さらに変異体の排卵および着床能について、生殖ホルモン投与に対する排卵の有無および偽妊娠状態における初期胚移植による着床能の有無についてそれぞれ検討した。その結果、この変異体の着床能の消失が明らかとなった。さらに着床および妊娠維持に必須な高濃度のプロジェステロン状態の消失およびプロジェステロン産生組織である妊娠黄体の形成不全が判明した。そして卵巣移植による解析の結果、この妊娠黄体の消失は視床下部および下垂体性の妊娠黄体形成機構の破綻による事が判明した。さらに囓歯類において主要な妊娠黄体形成因子であるプロラクチンの交配成立後の血清中の挙動をラジオイムノアッセイにより測定したところ、交尾刺激によって発生する日周性サージが消失していることが判明し、これが雌変異体の不妊の原因であると考えられた。

 3.発情雌との同居後の行動を観察した結果、変異体雄マウスの不妊の原因は生殖行動の消失である事が示された。同時に、精巣の組織観察および精巣内細胞の核型による分画を行った結果、変異体において減数分裂後の精子形成過程および生殖細胞の維持機構の破綻が示された。これらの生殖行動および精子形成を制御する生殖ホルモン群の血中濃度を測定した結果、テストステロンおよびその制御因子である黄体形成ホルモンの減少が認められた。しかしながら長期的なテストステロン投与による表現型の回復はなく、テストステロンの受容体群の脳内および精巣内分布や抗原性について遺伝子型間の差も認められなかった。一方、変異体において、テストステロンの標的細胞であり生殖細胞の支持を担うセルトリ細胞の細胞マーカーの抗原性の低下および電子顕微鏡観察による生殖細胞との細胞間連絡の脆弱化が判明し、変異体雄の精子形成不全はセルトリ細胞内のテストステロン反応性経路の破綻による事が考えられた。

 4.変異体マウスの表現型(成長・行動・生殖)の原因と考えられる変異遺伝子を5’-RACE法により単離したところ、生体内の機能が未知であるピューロマイシ感受性アミノペプチダーゼ(Psa)遺伝子である事が判明した。各遺伝子型マウスゲノムの制限酵素切断によるアレル間の多型がサザン法により見い出され、Psa遺伝子ゲノム内へのトラップベクターの挿入が確認された。トラップベクターの挿入によりPsa遺伝子が転写阻害を受けている事がノザン法により示された。さらに、変異体脳抽出液のアミノペプチダーゼ活性の大幅な低下が示された。これらの結果から、この変異体マウスはPsa欠損マウスである事が示された。また、Psa遺伝子の発現様式を検討した結果、全身生性の発現が認められるものの、胎生期および生後において神経系での強い発現が認められた。

 以上、本論文は、マウス遺伝子トラップ法を用いて作成された変異体マウスを用いて、その詳細な表現型解析および変異遺伝子の同定から、生体内での生理機能が未知であるアミノペプチダーゼPsaの関与する生理現象を明らかにした。本研究は未だ十分な解明が進んでいない、行動そして生殖機能を制御する分子基盤の解明に新たな分子の関与を示し、さらにこのメカニズムの解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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