本研究は、高等動物における個体生理に重要な役割を担う遺伝子を同定し、さらにその遺伝子が関与する生理現象を明らかにするために、マウス遺伝子トラップ法を用いて人為的に作成された突然変異体マウスの表現型解析および、その原因と考えられる変異遺伝子の同定を行い、下記の結果を得ている。 1.変異体マウスが小人症を示すことを明らかにした。この原因を探るべく、成長関連ホルモンを測定したところ、明らかな低下あるいは高値は見い出されなかった。さらにこの変異体マウスが示す情動行動の異常を見い出した。これは新規環境下における不安の増大と、痛み刺激に対する中枢性の反応行動の延長という2種類の行動異常である事を明らかにした。さらに、血清の生化学的性状および筋カテストは正常であった事から、これらの行動異常は主に中枢性の機能障害に起因すると考えられた。 2.変異体の雌不妊について、雄に対する生殖行動は示すが妊娠が成立しない事を明らかにした。さらに変異体の排卵および着床能について、生殖ホルモン投与に対する排卵の有無および偽妊娠状態における初期胚移植による着床能の有無についてそれぞれ検討した。その結果、この変異体の着床能の消失が明らかとなった。さらに着床および妊娠維持に必須な高濃度のプロジェステロン状態の消失およびプロジェステロン産生組織である妊娠黄体の形成不全が判明した。そして卵巣移植による解析の結果、この妊娠黄体の消失は視床下部および下垂体性の妊娠黄体形成機構の破綻による事が判明した。さらに囓歯類において主要な妊娠黄体形成因子であるプロラクチンの交配成立後の血清中の挙動をラジオイムノアッセイにより測定したところ、交尾刺激によって発生する日周性サージが消失していることが判明し、これが雌変異体の不妊の原因であると考えられた。 3.発情雌との同居後の行動を観察した結果、変異体雄マウスの不妊の原因は生殖行動の消失である事が示された。同時に、精巣の組織観察および精巣内細胞の核型による分画を行った結果、変異体において減数分裂後の精子形成過程および生殖細胞の維持機構の破綻が示された。これらの生殖行動および精子形成を制御する生殖ホルモン群の血中濃度を測定した結果、テストステロンおよびその制御因子である黄体形成ホルモンの減少が認められた。しかしながら長期的なテストステロン投与による表現型の回復はなく、テストステロンの受容体群の脳内および精巣内分布や抗原性について遺伝子型間の差も認められなかった。一方、変異体において、テストステロンの標的細胞であり生殖細胞の支持を担うセルトリ細胞の細胞マーカーの抗原性の低下および電子顕微鏡観察による生殖細胞との細胞間連絡の脆弱化が判明し、変異体雄の精子形成不全はセルトリ細胞内のテストステロン反応性経路の破綻による事が考えられた。 4.変異体マウスの表現型(成長・行動・生殖)の原因と考えられる変異遺伝子を5’-RACE法により単離したところ、生体内の機能が未知であるピューロマイシ感受性アミノペプチダーゼ(Psa)遺伝子である事が判明した。各遺伝子型マウスゲノムの制限酵素切断によるアレル間の多型がサザン法により見い出され、Psa遺伝子ゲノム内へのトラップベクターの挿入が確認された。トラップベクターの挿入によりPsa遺伝子が転写阻害を受けている事がノザン法により示された。さらに、変異体脳抽出液のアミノペプチダーゼ活性の大幅な低下が示された。これらの結果から、この変異体マウスはPsa欠損マウスである事が示された。また、Psa遺伝子の発現様式を検討した結果、全身生性の発現が認められるものの、胎生期および生後において神経系での強い発現が認められた。 以上、本論文は、マウス遺伝子トラップ法を用いて作成された変異体マウスを用いて、その詳細な表現型解析および変異遺伝子の同定から、生体内での生理機能が未知であるアミノペプチダーゼPsaの関与する生理現象を明らかにした。本研究は未だ十分な解明が進んでいない、行動そして生殖機能を制御する分子基盤の解明に新たな分子の関与を示し、さらにこのメカニズムの解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。 |