1995年3月20日、東京の営団地下鉄内で発生したサリン事件は、12名の死者と5000名を超える急性中毒患者を発生させる大惨事となった。著者の教室では、これら被害者のうち急性期に死亡した4症例と事件発生から1年3ケ月後に死亡した1症例についての司法解剖を行った。事件後1年3ケ月経過した後に死亡した1例は例外として、急性期に死亡した4症例については病院搬入時の臨床記録から有機リン化合物による中毒死であることは推定されるものの、血液中からはサリン加水分解産物は全ての症例で検出できず、中毒死の起因物質をサリンと断定することは不可能であった。中毒死が疑われる症例に対して従来の法中毒学的な検査法は、流血中の毒性物質あるいはその分解・代謝産物を検出・同定することを主眼としている。しかしながら、サリンのように極微量で毒性を発現し、容易に加水分解される毒性物質に対してはこれらの方法論は無力であり、サリンに対しては全く新しい方法論を確立することが必要であった。そのためには、サリンを血液等の生体試料と反応させて実験的なサリン曝露試料を作製し、これを試料として検出 を試みる予備実験が必要であった。 サリンは強力な毒性を持つ有機リン化合物であり特に神経剤と呼ばれ、現在では条約や法律により厳密な規制下におかれており、一般の研究室での合成や使用実験は厳しく取り締まられている。殺虫剤として用いられる有機リン剤と神経剤との化学構造上の相違は、殺虫剤ではリンと炭素やハロゲンが直結せずにP-O-CやP-S-Cといった構造をとるのに対し、神経剤ではそれらが直結している点にある。分子内にP-C結合を持つことで神経剤がアセチルコリンエステラーゼ(AChE)と結合しagingを起こした後、メチルフォスフォン酸複合体が生成されてこれ以上は加水分解が起こらず、また、この複合体が陰性に荷電しているためpralidoxime iodide(PAM)を投与しても、PAMとAChEの陰イオン結合部位との反応が弱められるため、脱メチルフォスフォン酸反応は進行せず、AChEの活性が長期にわたって回復しないとされる。そこで著者らは、リン酸基がサリンと同一の有機リン製剤で、なおかつ法的規制を受けない神経剤代替物を合成した[Coeら(1957)]。このbis(isopropylmethyl)phosphonate[BIMP]について、合成法と定性分析、in vivo、in vitroにおける抗コリンエステラーゼ作用の検討、ヒト赤血球に作用させて作製した実験的サリン類似化合物曝露ヒト赤血球からのサリン加水分解産物の検出方法について詳細に検討し、次いで、東京地下鉄サリン事件例のヒト赤血球およびホルマリン固定脳組織からのサリン加水分解産物の検出への応用を示した。 今回開発した検出法というのは、従来の血液中に遊離しているサリンおよびその加水分解産物を検出するという手技でなく、毒性を発現し血球膜の標的酵素(AChE)に結合して存在するサリンを酵素的に加水分解してサリン代謝物として検出するという新しい手法に依っている。すなわち、AChEの酵素タンパクをトリプシンで低分子化させることによって、AChEの活性中心に結合するサリン代謝物は露出され、アルカリフォスファターゼにより酵素的に加水分解された。これらの遊離されたサリン代謝物は、精製、濃縮された後、gas chromatography-mass spectrometryに供され同定された。 これにより、血液中からのサリン代謝物の検出が可能となり、急性サリン中毒の有力な証拠となった。さらに、生命維持に欠かせない臓器である脳組織から検出し得たことで、その死因の発生機序に迫ろうとしている。 神経剤は、強力な不可逆性抗コリン作用を持ち、生体に対しては非常に危険な物質である。法的規制が必要であることは当然であろう。しかしながら、将来、サリンを用いて大量虐殺を目的とするテロ集団が出現する可能性は否定できない。不幸にして次なる事件が発生した場合の対応を想定すると、薬毒物の基礎的データの集積は重要な意味を持っている。 サリン類似化合物による研究は、以上に述べたような意義がある。また、薬毒物中毒例から起因物質を検出するためにも、我々の開発した抽出遊離法は、赤血球膜をはじめとして脳組織など他臓器からの検出の可能性を示唆している。 1995年に起きた地下鉄サリン事件の法医学的鑑定の必要性から端を発した本研究は、今後、神経剤の動物実験を通して生体への影響、その病態生理学的なメカニズムや、脳神経系の障害機序の解明といった方向へと進展すると思われ、法医学のみならず医学全般にとって意義あるものと考えられる。 |