はじめに 現在、固形腫瘍の発癌メカニズムとしては多段階発癌モデルが提唱されている。すなわち、複数の遺伝子異常が蓄積していくことにより、正常部から前癌病変を経て発癌し、さらに悪性化して転移、浸潤していく、と考えられている。胃癌は日本に比較的多い癌だが、未だに多段階発癌に関連する原因遺伝子が同定されておらず、家族性胃癌の家系や散発例の一部でE-cadherinやbeta-cateninの異常が報告されている程度である。なかでもスキルス胃癌は比較的若年に多く、漿膜側に進展する傾向があるために、早期発見が困難で腹膜播種を伴いやすく手術不能となることが多い予後不良の癌である。そのため、スキルス胃癌の発生・進展に関与する遺伝子を単離するために、今回スキルス胃癌細胞株で(1)ゲノムおよび(2)トランスクリプトームの両面から解析を行った。
従来遺伝性の疾患では大家系を対象にして、linkage analysisをおこない、遺伝子の単離に至るpositional cloningが一般的だったが、こうした家系の分析には膨大な労力が必要である。一方、サブトラクションの一法であるRDA(Representational Difference Analysis)法を用いれば、原理的には一人の患者の癌部と非癌部を対象にしてサブトラクションをおこなうことで、癌抑制遺伝子の単離が可能である。今回は、ゲノムの解析としてスキルス胃癌細胞株(OCUM-2MD3)と同一患者由来の胃線維芽細胞(NF8)を対象にしてRDAを行い、癌抑制遺伝子の単離を試みた。
一方、スキルス胃癌に多く見られる腹膜播種もその詳細なメカニズムは不明である。スキルス胃癌細胞株2MD3は親株の2Mから樹立された亜株で、ヌードマウスの腹腔内投与により血性腹水を伴う腹膜播種巣の形成能を獲得している。一般に、転移、浸潤は癌周囲の正常細胞との相互作用も含めて、多くの遺伝子の協調的な発現が必要であり、極めて複雑な解析対象である。そこで、in vitroでの細胞株2Mと2MD3の遺伝子発現プロファイリングに解析対象を絞ることにより、純粋に腫瘍側で腹膜播種に関与している遺伝子の抽出が可能と考え、Genechipを用いて包括的なトランスクリプトーム解析をおこなった。
(1)ゲノム解析 2MD3をdriver、NF-8をtesterとしてサブトラクションをおこなった。得られたfragmentのうちSouthern Blottiingによりホモ欠失を認めたものにつき配列を決定し、内部にプライマーを設計し、PCRによりYAC(Yeast Artificial Chromosome)のスクリーニングをおこなった。その結果、930-A-7および929-E-1(1p22-23)、850-A-6(3p14)のYACにそれぞれのfragmentが含まれることが判明し、上記の2つの領域に欠失部位のlocusを決定した。
(a)FHIT遺伝子 850-A-6は多くの固形腫瘍での欠失を認めるFHIT遺伝子を含むYACであり、3p14のホモ欠失領域がその第5イントロンに存在することが判明したため、FHIT遺伝子と発癌との関連を調べるために各種癌細胞株において解析をおこなった。Northern Blottingでは、ほとんどの細胞株で発現が確認できなかったため、RT-PCRをおこなった。多くの癌細胞株で発現が弱いかまたは複数のaberrant transcriptの出現を認めたため、direct sequencingをおこなったところ、non-coding領域でのExon skippingと第10exon末端の11bpのsplicing異常が確認されたが、coding領域(exon5-9)での変異は認められなかった。RT-PCRでFull size900bpのtranscriptを持たないDLD1,Miapaca2でもexonの欠失はnon-coding領域に限られるため、Western blottingでは正常な18kDaの蛋白の発現を認めた。一方、MKN7ではFull sizeのtranscriptを認めず、aberrant transcriptもよりsizeの小さなものを少量認めるのみで、蛋白の発現を認めなかった。蛋白発現の消失した細胞株を認めたことから発癌への関連が示唆された。
(b)ZAP1遣伝子 930-A-7および929-E-1(1p22-23)のYACに共通に含まれるBACとして91-E-21が得られたため、このBACの塩基配列を決定し、一部にG-X-Yのくり返し配列を見いだしたことから、遺伝子のエクソンの可能性が高いと考えて、これをプローブとしてcDNAライブラリーのスクリーニングを行い、新規遺伝子ZAP1を単離した。ZAP1はコラーゲンドメインを持つ1697残基の遺伝子で、約7.5kbのtranscriptを持つ。脳(小脳以外)、小腸、虫垂、胎児肺に高発現を認めた。各種癌細胞株においてRT-PCR/SSCP法によりmutationの検索をおこないframe shiftを伴う欠失・挿入、アミノ酸置換などの異常を17%(5/29)の細胞株に認め、癌化との関連が示唆された。
(2)トランスクリプトーム解析 トランスクリプトーム解析では、今回は合成オリゴヌクレオチドmicroarrayでの解析を中心にした。包括的な遺伝子発現解析法にはこの他にもSAGE(Serial Analysis of Gene Expression)、cDNAマイクロアレイなどがあるが、実験に要する労力が少ないこと、データの再現性および互換性がすぐれていること、一回の実験でESTも含めて約40000もの遺伝子を同時に解析できる点を優先した。
(a)Genechipによる解析 GeneChipTM(Affymetrix社)を用いて合計約40000の遺伝子およびESTに関して2Mと2MD3の発現プロファイルの比較を行った。発現の増加した遺伝子は4倍以上のものが約100で、そのうちMHC関連分子が7個、G蛋白、Znフィンガー蛋白、膜輸送関連蛋白が4個、転写因子が3個含まれた。また約3割はESTだった。腫瘍マーカーのCEA(Carcinoembrionic Antigen)も5.7倍の増加を認めた。MHC関連分子の発現上昇が目立ったが、腫瘍の悪性化に伴い、MHC class
の発現低下や新規class遺伝子の発現が生じることが知られており、そのような変化をtranscriptレベルで確認したと考えられる。また、転写因子自身の発現量が大きく変化しているものが少なくなく、上流に位置する少数の転写因子に還元出来る可能性が示唆された。各遺伝子の調節領域の解析が今後の課題と考える。
発現の減少した遺伝子は-5.5倍以上が約100で、そのうち転写因子、表面抗原が5個、Znフィンガー蛋白が4個認められた。また約5割はESTだった。
(b)腹膜播種に関連する可能性の高い候補遺伝子 これらの遺伝子について、腹膜播種能との関係を調べるために、合計9個の胃癌細胞株を用いてNorthern BlotまたはRT-PCRによる解析をおこなった。その結果、腹膜播種と関連の深い遺伝子の候補として、Aldehyde dehydrogenase3、Aquaporin5、intestinal trefoil factor、3PGDH(3-phosphoglycerate dehydrogenase)の4つがあげられた。
Aldehyde dehydrogenase3は癌細胞で発現が亢進していることが知られているが、腹膜播種に関連する報告はない。Aquaporin5は涙腺、唾液腺に分布する水のトランスポーターで、癌や腹膜播種に関連する報告はない。一方、intestinal trefoil factorは腸管の修復や上皮の遊走の促進に関与する因子であり、E-cadherinをdown-regulateすることが知られており、腹膜播種の成立に重要な遺伝子と考えられる。3PGDH(3-phosphoglycerate dehydrogenase)は2MD3で発現が減弱していたが、もともとセリン生合成経路の酵素であり、癌で発現が減弱している報告はこれまでにない。
今後は発現の変化したこうした上位の遺伝子につきcDNA microarrayを作成して、多くの臨床検体につきhigh-throughputな解析を行い、腹膜播種を含めた癌の悪性化に関連する遺伝子の同定を進めていきたいと考えている。