本文 ヒトを含む哺乳動物の中枢神経系は再生しないと長らく信じられてきた。しかし最近、成体の神経組織に神経幹細胞が存在することが明らかにされた。神経幹細胞はその自己複製能により未分化な状態で増殖し、またその多分化能により中枢神経系の多様な細胞群へと分化し得る細胞である。このような性質を有する神経幹細胞の存在は、神経組織の再生・修復の可能性を大きく広げるものである。すなわち、成体に残存する内在性幹細胞の活性化、あるいは胎児・成体に由来する培養幹細胞の移植により、損傷した神経組織を再生・修復させる新しい治療法の開発への道が開けつつある。しかしながら、この神経幹細胞に関する分子生物学的な知見は、未だごく限られたものに留まっている。神経幹細胞の増殖と分化の分子機構を解明し、その操作技術を確立することは、神経組織の再生・修復のための新規治療法の開発の基盤として、極めて重要な研究課題である。
本研究では、神経幹細胞の自己複製と分化を制御する分子機構に着目し、特にNotchシグナル伝達系に関する研究を行った。Notchは生物種を越えて広く存在する細胞膜貫通型受容体分子であり、隣接した細胞の表面に発現する分子をリガンドとすることで細胞間相互作用を媒介し、様々な組織の発生に関与する。代表的なモデル生物のひとつであるショウジョウバエにおいては、Notchシグナル伝達系が神経系の発生過程を制御する重要な分子機構のひとつであることが知られている。これまでの知見から、神経幹細胞が未分化状態を維持して自己複製を繰り返す際には、幹細胞同士の相互作用が重要であることが示唆されている。従って、神経幹細胞におけるNotchの生理機能を解明することは、未分化幹細胞の大量培養、分化操作のために重要な知見をもたらすことが期待される。そこで本研究では、神経幹細胞の増殖・分化におけるNotchシグナル伝達系の機能を解明することを目的とした。
最近ショウジョウバエにおいて、Notchシグナル伝達系の新規シグナル分子の候補として、Deltex(Dtx)が同定された。またこれまでに、Deltexの哺乳動物相同分子としてDtx1,Dtx2,Dtx3が同定されている。そこでまず、Dtx2に対する特異抗体を作成し、その発現を免疫組織染色法により解析した。発生期の神経上皮組織において、Dtx2は未分化な幹細胞に高いレベルで発現していた。Notch受容体およびそれらのりガンドは、やはり発生期の神経系で強く発現していることが知られている。従って、哺乳動物のDtxが、Notch受容体の下流で神経系の発生過程の制御に関与する可能性が示唆された。そこで、以下の研究においては、神経幹細胞由来の培養細胞株であるMNS-70細胞をモデル系として、Notchシグナル伝達系におけるDtxの生理機能の解析を行った。
MNS-70細胞は、ラット胎児脳に由来する不死化細胞株であり、ニューロン、アストロサイト、オリゴデンドロサイトへと分化する多分化能を保持している。Notchの生理機能を解析するため、細胞外ドメインを欠失した活性化型Notch1変異体(dominant-active Notch1:以下DA一Notch1とする)を構成的に発現するMNS-70細胞株を樹立した。その結果、DA-Notch1発現細胞ではニューロン、グリアへの分化が著しく阻害されていた。さらに、Dtx1をMNS-70細胞に発現させたところ、やはり同様に分化の抑制が観察された。これまでの研究から、MNS-70細胞においては、ベーシック・ヘリックス・ループ・ヘリックス(bHLH)型転写因子であるMash1が、分化の初期過程を制御することが明らかにされている。Mash1は分化誘導に伴って一過性に発現し、未分化幹細胞のマーカーであるnestinの発現を抑制する。DA-Notch1あるいはDtx1発現株では、Mash1によるnestinの発現抑制の過程が特異的に阻害されていることが判明した。また内在性のDtxの発現を解析したところ、MNS-70細胞においてはDtx2が特異的に発現しており、さらにDA-Notch1を発現した細胞株ではDtx2の発現が著しく亢進していた。従って、Notchシグナルの活性化によって内在性のDtxの発現誘導が起こり、これが神経幹細胞の分化制御に関与する可能性が示唆された。
以上の知見を元に、Dtx1の作用機構を解析した。Dtx1およびNotch1の細胞内ドメインをCos7細胞において共発現させたところ、両者が複合体を形成することが免疫沈降実験により明らかとなった。種々の変異体を用いた解析から、Dtx1の3つのドメイン(ドメインI,II,III)のうち、N末端側のドメインIがNotch1受容体のankyrinドメインと直接相互作用することが判明した。
上記のMNS-70細胞を用いた解析から、Dtx1はbHLH型転写因子Mash1の機能を抑制することが示唆された。Notchの下流では、RBP-Jと呼ばれる転写因子がHes1,Hes5遺伝子の発現を誘導するシグナル伝達経路が知られている。Hes1,Hes5は、Mash1とヘテロ2量体を形成することでその機能を抑制する分子である。従って、Dtx1がこのRBP-J/Hes経路を介して機能している可能性が考えられた。しかし、Dtx1は細胞内で高発現した場合でも、Hes1遺伝子の発現を活性化しなかった。さらに、Mash1の転写活性化能に対するDtx1の効果を検討したところ、Dtx1はRBP-J/Hes経路を介さずにMash1を抑制し得ることが判明した。また、ドメインIIIを欠失させたDtx1変異体は、いわゆるdominant-negative変異体として機能し、DA-Notch1によるMash1の機能の抑制に対して阻害的に働くことが判明した。従って、Notchシグナルの下流でMash1の転写機能の抑制が起こる際には、内在性のDtxの機能が必須であることが示唆された。
Mash1などのbHLH型転写因子は、p300と呼ばれる転写のcoactivatorを介して、遺伝子発現を制御していることが知られている。そこで、Dtx1がp300を標的として機能している可能性を検討した。その結果、p300を細胞内で高発現させると、DA-Notch1あるいはDtx1によるMash1の機能抑制が解除される現象が見出された。p300のN末端には、転写開始複合体と直接に相互作用することで転写を促進する領域が存在する。Dtx1は、このp300のN末端領域のもつ転写促進機能を強く阻害することが明らかとなった。以上の結果から、Dtx1は細胞内でp300を標的とし、そのcoactivatorとしての機能を阻害することによって、遺伝子発現の制御を行う可能性が強く示唆された。
p300/CBPは細胞内で核に存在し、種々の転写因子の機能を制御する。そこで、核および細胞質に存在するタンパク質を生化学的に分画し、Dtxの細胞内局在を解析した。その結果、Cos7細胞に高発現させたDtx1、およびMNS-70細胞あるいはラット胎児組織に発現する内在性のDtx2タンパク質は、いずれも核分画および細胞質分画の両方に分布していた。従って、Dtxは核内で機能し得る分子であることが明らかになった。次に、p300とDtx1がタンパク質レベルで直接相互作用する可能性を検討した。Cos7細胞で発現させたDtx1はp300と複合体を形成し、免疫沈降実験によりp300とともに共沈した。また、p300のN末端領域(アミノ酸残基2-745)およびC末端領域(アミノ酸残基1510-1922)の2箇所の領域が、それぞれ独立にDtx1と相互作用することが明らかになった。また、Dtx1をCos7細胞において高発現させると、細胞内でのp300とMash1の間の複合体の形成がDtx1によって競合的に阻害された。さらに、Dtx1のドメイン断片をp300とともに酵母細胞で発現させ、両者の直接の相互作用をyeast two-hybrid法により検討した。その結果、Dtx1のドメインIがp300のN末端領域と、またドメインIIIがC末端領域と、それぞれ特異的に相互作用することが判明した。
以上の結果より、神経幹細胞の増殖と分化の制御においてNotchシグナル伝達系が重要な役割を担っていること、さらにDtxがNotch受容体の下流で機能する新規のシグナル伝達分子であることが明らかになった。DtxはNotchシグナルによってその発現が誘導され、核内で転写のcoactivatorであるp300と直接相互作用することで遺伝子発現を制御する、これまでに知られていない新しい生理機能を持つ分子である。Dtx2が未分化な神経幹細胞に発現していることから、幹細胞の自己複製と分化の運命選択の過程で働くNotchシグナル伝達系において、Dtx2が重要な役割を担っているものと推定される。
さらに、本研究の成果は、神経幹細胞を用いた神経組織の再生・修復療法の開発のために重要な知見を提供することが期待される。損傷神経組織を内在性の神経幹細胞を用いて再生させる場合、あるいは単離・培養した幹細胞を移植して修復する場合のいずれにおいても、幹細胞を未分化状態で維持しつつ増殖させることは、臨床的な応用のための重要な課題である。今後は、本研究の知見を元に、Dtxなどの機能分子を標的とした遺伝子操作によりNotchシグナル伝達系の活性を修飾することで、幹細胞の増殖と分化を制御する技術を開発する可能性を検討していきたいと考えている。