学位論文要旨



No 115477
著者(漢字) 金,春林
著者(英字)
著者(カナ) キン,シュンリン
標題(和) 1991-97年における中国の病院経営の変革 : 上海の32の大型病院の比較研究
標題(洋) Transformation of Hospital Performance inChina from 1991 to 1997 : A Comparative study for 32 Large Hospitals in Shanghai
報告番号 115477
報告番号 甲15477
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第1663号
研究科 医学系研究科
専攻 国際保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 若井,晋
 東京大学 教授 小林,廉毅
 東京大学 教授 甲斐,一郎
 東京大学 講師 佐藤,元
 東京大学 講師 福原,俊一
内容要旨 背景

 1970年代までの中国では、医療サービスにおける費用便益比が高いといわれていた。しかしながら、1978年以来の中国政府による計画経済から市場経済への政策転換にともなって、医療供給システムをとりまく社会経済環境は大きく変化した。本研究で対象とした上海も市場経済への移行にともなって経済発展を遂げたが、特に1992年以降、中央政府の浦東改革開放特区政策によって急速な経済発展を経験してきた。1991年から1997年にかけての年平均経済成長率は7%である。

 急速な経済発展にともなって、上海における病院経営の環境は激変し、その結果、数多くの新しい問題が生じつつある。最も大きな問題は総医療費の高騰であり、上海市全体でみた場合、1991年から1997年にかけて53億人民元から105億人民元に増大した(年平均増加率8.9%)。その一方で、年間の外来患者数は8420万人から5860万人へと減少し、入院患者数は94万人から100万人へとわずかに増加したにすぎない。これらのデータから推測されることは、1991年から1997年にかけて患者一人あたりに費やされる医療費の増加、すなわち医療効率が低下した可能性である。この背景には、上海の病院経営において、総医療費に占める薬剤費の割合が国際水準に比較して遥かに高く、平均入院日数も長いことが指摘されている。すなわち、社会経済の変化に即した医療政策がとられなかったために、上海における病院は経営効率を低下させていると考えられる。現在、社会情勢に対応した医療政策の立案と病院経営の改善施策の策定が緊急課題となっている。

目的

 本研究では、上海市の32大型病院を対象に、1991年から1997年まで7年間の経営指標の分析を通して、以下の3点を明らかにすることを目的とした。

 1.病院間の経営効率を比較しながら、その経時変化を明らかにすること。

 2.病院の経営効率に影響を与える因子を探索すること。

 3.以上の結果に基づいて、現在の上海における病院経営の問題点を明らかにし、医療政策が病院経営に影響する際のインセンティブメカニズムを考慮しながら、効率的な病院経営に関する政策提言を行うこと。

対象と方法

 1998年の5月から12月にかけて、上海における病床数500以上の32大型病院を訪問し、1991-1997年の病院運営に関する以下のデータを、会計報告書と人事記録から収集した上で、病院の経営管理者に対するインタビューを行った。

 1.規模(病床数、医師、看護婦などの病院スタッフ数、外来患者数、入院患者数、収入、支出、純利益)

 2.患者の費用負担レベル(外来患者一人あたり費用、入院患者一人あたり費用、一日あたり入院患者費用)

 3.病院の収入レベル(全職員一人あたり医療収入、医師一人あたり医療収入)

 4.生産性(ベッド稼動率、平均在院日数、全職員一人あたり外来患者数と入院患者数)

 5.経営構造(総費用に占める人件費の割合、総収入に占める薬剤費の割合、外来患者からの収入と入院患者からの収入の比:以下、外来入院比とする)。

 経時的な(7年間の)病院経営の変化を検討する場合、および経済効率(収入/支出)によって分類した3群間の病院経営指標の相違を検討する場合、一元配置の分散分析を用いた。経済効率と病院経営指標の関係については、Spearmanの相関係数を用いて検討した。さらに、自己相関を考慮したうえで、経済効率に影響する変数(独立変数)として11を選択し、経済効率を従属変数とする時系列分析(MIXED procedure)を行った。

結果

 対象とした上海の32大型病院全体としての病院経営の主たる特徴は、以下の5点にまとめられる。

 1.1991年から1997年にかけて、支出に対する収入の比はおよそl.10であった。病院経営は薬価差益に強く依存していた。総収入に占める薬剤費の割合は、1991年の60%から1997年の52%へ減少したものの、国際的にみれば、この割合は依然として高水準であった。

 2.外来患者一人あたり医療費、入院患者一人あたり医療費、一日あたり入院費用は、1991年から1997年にかけて、それぞれ年平均10.1%、11.4%、12.3%増加した。

 3.平均在院日数と平均ベッド稼動率は、1991年にそれぞれ31.7日、95.1%であったが、1997年には26.9日、88.3%と短縮および低下した。

 4.総費用に占める人件費の割合は、1991年の20.1%から1997年の27.3%へ大きく増加した。

 5.外来入院比は、7年間でV字型に変化した。すなわち1991年には1.75であったものが1994年には1.09と最小となり、その後1997年の1.25まで漸増した。

 上記の変化のうち、外来入院比は1994年を境に明瞭なV-字型を示したが、他の多くの項目も1994年前後に不連続的な変化がみられた。この背景には、1994年に上海市によって施行された「総額予算・構造調整」が影響したと考えられる。

 経済指標にみられた病院間の多様性を分析した結果、病院の経営効率に影響する要因として、以下の点が明らかになった。

 1.32病院の経営指標には大きなばらつきが観察された。

 2.32病院を経済効率によって3群に分類し23の経営指標を群間で比較した結果、純利益、支出に対する収入の比は1991-1997年を通して有意な差がみられた。また、病床数、入院患者一人あたり費用においては1995-1997年で、看護婦数、ベッド稼動率においては1995年に、医師一人あたり医療収入は1996年、外来入院収入比率は1997年に群間差がみられた。

 3.経済効率と病院経営指標のSpearmanの相関係数を用いて検討した結果、病院の経営効率を上昇させる傾向にあった変数は、純利益、ベッド稼動率、医師一人あたり医療収入、入院患者一人あたり費用、職員一人あたり外来患者数、病床数、平均在院日数であり、逆に低下に寄与した変数は外来入院比、収入に占める薬剤費の割合。

 4.経済効率(収入/支出)を従属変数、11変数(ベッド数、外来患者一人あたり費用、入院患者一人あたり費用、職員一人あたり医療収入、医師一人あたり医療収入、ベッド稼働率、職員一人あたり外来患者数、職員一人あたり入院患者数、総支出に占める人件費の割合、収入に占める薬剤費の割合、外来入院比)を独立変数とした時系列分析(MIXED procedure)の結果、病院の経済効率を寄与した変数はなかった。

考察

 上海の32大型病院を対象に、それぞれの病院における経済効率を、規模、患者の費用負担レベル、病院の収入レベル、生産性、経営構造にまとめられる属性と関連づけて分析した結果、以下の点が明らかとなった。

 1.病院の経済効率は、入院患者一人あたりの費用が高いほど高く、外来入院比が高いほど低い傾向がみられた。全体としてみると、1991年から1997年にかけて、入院患者一人あたり費用が増加した一方で、外来入院比は低下した。したがって、大型病院が入院患者への比重を増すことによって、経済効率の上昇を目指してきた状況が明らかになった。いいかえれば、外来患者からの利益がみこめないような医療政策がこの背景として存在すると考えられる。

 2.病院の総収入に占める人件費の割合が高いほど、あるいは職員一人あたりの外来患者数が少ないほど、病院の経済効率は低い傾向がみもれた。1991年から1997年にかけて、人件費の割合は増加し(1991-92年に20%から1995-1997年は27%)、職員一人あたりの外来患者数は減少した。この労働効率の低下が、上海の大型病院の経済効率にマイナス影響を与えたのは間違いない。

 3.総収入に占める薬剤費の割合は、1994年以来の「総額予算・構造調整」政策の影響で低下する傾向にあった。しかしながら、その割合は1997年でも50%を超えており国際水準に比較して依然として高い。薬剤費の割合が高いことは、病院の経済効率を低下させ、また患者の負担を増加させる主たる原因になっていた。

 4.平均在院日数、一人あたり医療費などが病院間で大きくばらついてきた。このことは、市場経済への移行が、病院経営に損益の自己責任システムをもたらし、各病院が独自の経営戦略をとる方向に作用し、結果として医療需要に必ずしも相応せず、利益をあげるための医療行為(過剰医療を含む)が発生する原因になった可能性を示唆している。

 本研究の以上の結果をふまえながら、上海市における病院経営にかんする望ましい政策を五項目に分けてのべる。

 1.1994年以降の「総額予算・構造調整」政策は、医療費高騰の抑制に一定の効果をあげたが、今後、各病院で総収入額を決定するには、患者の属性、疾患の重篤度、診療科などに配慮することが重要である。

 2.実際のコストにみあった診療報酬の設定には、会計システムの整備によって実際のコストを評価するシステムが必要である。さらには、サービスごとの労働投入量の違いも診療報酬の設定の際に考慮すべきであろう。一方、患者の医療費支払い制に関しては、医療費の高騰の原因である現在の出来高払い制から、定額支払い制へ移行する必要がある。

 3.現在、病院の総収入に占める薬剤費が高い理由の一つは、15-20%の薬剤差益率が存在することにある。この薬剤差益への過度な依存を解消するために、薬剤差益の会計とそのほかの診療報酬会計を区別したうえで薬剤差益率を徐々に低下させ、それと同時に、薬剤費以外の日常的な診療行為(注射、問診など)の診療報酬を妥当な額に上昇させることが必要であろう。

 4.現在、上海の大型病院を所有、経営しているのは、市政府、区/県政府、大学、企業、軍のいずれかである。それぞれの経営母体がそれぞれの既得権益を主張するために、全体としての医療システムが十分に機能しなくなっている。医療資源の重複的存在を改善するためには、市政府が中心となって、病床数、高度な医療機器の購入などを含む総合的な地域医療計画を作成する必要がある。

 5.市場経済への移行にともなって、病院は自律的な経営をすることができるようになった。しかしながら、人事権は病院そのものでなく経営母体である行政機関、大学、企業、あるいは軍が強い影響力をもち、病院側の自律性が十分に達成されたとはいえない。その結果、人的資源の利用効率の低下が続いている。この状況を解消し、各病院に自律的な人事権を付与することが重要である。

審査要旨

 本研究では、病院の経営効率に影響を与える因子を明らかにすることと効率的な病院経営に関する政策提言を行うことを目的として、上海市の32大型病院を対象に1991年から1997年まで7年間の経営指標の分析を行った。主たる結果は以下の通りである。

 1.32大型病院全体としての病院経営の主たる特徴は、以下のように要約される。1991年から1997年にかけて、支出に対する収入の比はおよそ1.10であった。病院経営は薬価差益に強く依存していた。総収入に占める薬剤費の割合は、1991年の60%から1997年の52%へ低下したものの、国際的にみれば、この割合は依然として高水準であった。外来患者一人あたり医療費、入院患者一人あたり医療費、一日あたり入院費用は、それぞれ年平均10.1%、11.4%、12.3%増加した。平均在院日数と平均ベッド稼動率は、1991年にそれぞれ31.7日、95.1%であったが、1997年には26.9日、88.3%と短縮および低下した。総費用に占める人件費の割合は、1991年の20.1%から1997年の27.3%へ大きく上昇した。外来入院比は、7年間でV字型に変化した。すなわち1991年には1.75であったものが1994年には1.09と最小となり、その後1997年の1.25まで漸増した。上記の変化のうち、多くの項目は1994年前後に不連続的な変化がみられた。この背景には、1994年に上海市によって施行された「総額予算・構造調整」が影響したと考えられる。

 2.経済指標にみられた病院間の多様性を分析した結果、病院の経営効率に影響する要因として、以下の点が明らかになった。(1)32病院の経営指標には大きなばらつきが観察された。(2)32病院を経済効率によって3群に分類し23の経営指標を群間で比較した結果、純利益、支出に対する収入の比は1991-1997年を通して有意な差がみられた。また、病床数、入院患者一人あたり費用は1995-1997年に、看護婦数、ベッド稼動率は1995年に、医師一人あたり医療収入は1996年に、外来入院収入比率は1997年に群間差がみられた。(3)経済効率と病院経営指標についてSpearmanの相関係数を用いて検討した結果、病院の経営効率を上昇させる傾向にあった変数は、純利益、ベッド稼動率、医師一人あたり医療収入、入院患者一人あたり費用、職員一人あたり外来患者数、病床数、平均在院日数であり、逆に低下に寄与した変数は、外来入院比、収入に占める薬剤費の割合であった。(4)経済効率(収入/支出)を従属変数、11変数(ベッド数、外来患者一人あたり費用、入院患者一人あたり費用、職員一人あたり医療収入、医師一人あたり医療収入、ベッド稼働率、職員一人あたり外来患者数、職員一人あたり入院患者数、総支出に占める人件費の割合、収入に占める薬剤費の割合、外来入院比)を独立変数とした時系列分析(MIXED Procedure,SAS)の結果、病院の経済効率に有意に寄与した変数はなかった。

 3.それぞれの病院における経済効率を、規模、患者の費用負担レベル、病院の収入レベル、生産性、経営構造の五属性と関連づけて分析した結果、以下の点が明らかとなった。(1)大型病院が入院患者への比重を増すことによって、経済効率の上昇を目指してきた状況が明らかになった。いいかえれば、外来患者からの利益がみこめないような医療政策がこの背景として存在すると考えられる。(2)1991年から1997年にかけて、人件費の割合は上昇し(1991-92年に20%から1995-1997年は27%)、職員一人あたりの外来患者数は減少した。この労働効率の低下が、上海の大型病院の経済効率にマイナスの影響を与えたのは間違いない。(3)薬剤費の割合が高いことは、病院の経済効率を低下させ、また患者の負担を増加させる主たる原因になっていた。

 4.上海市における病院経営にかんする政策提言を五項目に分けて指摘した。(1)「総額予算・構造調整」政策は、今後、各病院で総収入額を決定する際、患者の属性、疾患の重篤度、診療科などに配慮することが重要である。(2)実際のコストにみあった診療報酬の設定には、会計システムの整備によって実際のコストを評価するシステムが必要である。一方、患者の医療費支払い制に関しては、医療費の高騰の原因である現在の出来高払い制から、定額支払い制へ移行する必要がある。(3)薬剤差益への過度な依存を解消するために、薬剤差益の会計とそのほかの診療報酬会計を区別したうえで薬剤差益率を徐々に低下させ、それと同時に、薬剤費以外の日常的な診療行為(注射、間診など)の診療報酬を妥当な額に上昇させることが必要であろう。(4)医療資源の重複的存在を改善するためには、市政府が中心となって、病床数、高度な医療機器の購入などを含む総合的な地域医療計画を作成する必要がある。(5)人事権は病院そのものでなく経営母体が強い影響力をもち、病院側の自律性が十分に達成されたとはいえない。その結果、人的資源の利用効率の低下が続いている。この状況を解消し、各病院に自律的な人事権を付与することが重要である。

 以上、本論文では、上海における病床数500以上の32大型病院を対象に、1991年から1997年まで7年間の経営指標の分析を通して、病院経営の現状及び病院経営効率の影響因子を明らかにした。さらに、医療政策が病院経営に影響する際のインセンティブメカニズムを考慮しながら、効率的な病院経営を実現するための政策提言を行った。本研究は、中国においてこれまでほとんど行われてこなかったシステマティックな病院経営分析であり、市場経済化にともなう変化に直面する中国における病院経営のメカニズム及び問題点の解明に重要な政策的貢献を行ったと判断され、学位の授与に値するものと考えられる。

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