I.はじめに 日本の乳児死亡率は平成10年3.6と世界でも最も低率であり、これが達成された背景には、高い生活、医療保健水準、そして母親を主とする育児者の子どもの健康に対する知識と意識が高まってきたことにある。母子保健の普及と全国の保健所のネットワークを通じた乳幼児健診の実施も、乳児死亡率の低下に貢献している要因である。 しかし近年になって、育児困難を訴える母親の増加や育児ストレスによる精神疾患等が報告されるようになってきた。そこでは低い乳児死亡率とは裏腹に、子育てが困難な母親の増加が大きな社会問題となりつつある。このような状況をふまえて、厚生省が育児支援策を提案した。 子どもの成長発達には内因性の遺伝情報と生活する環境の相互作用の中で達成される。最近の乳児心理学の発展によって、すでに新生児期から子どもは子どものとりまく環境に敏感に反応していることが明らかになってきた。子どもをとりまく環境は大きく2つに分けられる。1つは住居、気候、物などの物理的環境である。もう1つは母親を中心とする社会的環境である。この2つの環境は、新生児期から子どもの発達に大きな影響を与えている。母親は通常、乳児の人間的環境の大部分を占め、子どもと母親の相互作用が、子どもの身体発達のみならず、言語、社会性の発達に影響を与えていることは多くの研究者が報告していることである。例えば、育児困難な母親の精神状態や、そのような母親の子どもへの対応の仕方が健全な母子愛着関係の樹立の妨げになっていれば、その結果、子どもの体と心の発達に悪影響がでることが容易に想像できることである。 母親の子育て困難が、子どもの体と心の発達に悪影響を及ぼしているとしたら、それを防止することは急務である。母子相互作用は母親をとりまく環境により影響されることが報告されており、早期の母子関係の重要性がいわれている。1歳までという短期間で子どもの発達に関連する母親をとりまく環境の因子を評価することは、早期に発達に対するリスクに対応することができ、今後その対応策の評価を短期間でできるという利点もある。そこで、乳児健診システムを利用した方策を探ることは有用であると考えられる。 本研究においては、(1)乳児の発達には母親の精神状態と育児環境が関連する。(2)乳児期早期の母親をとりまく環境は乳児期後期の発達に関連する。という仮説を立て、それを検証する中から、母子相互作用に影響を与える因子を抽出する。さらに、その結果をもとに、乳児健診の場を利用した子育てへの支援によって、母子相互作用の障害を是正する方策を検討することを目的にした。 II.対象と方法 1.対象:埼玉県戸田市において4ヶ月健診を受診した母児で12ヶ月時点の追跡調査が可能であった母親727名とその児733名(双胎6組)を対象とした。 2.調査期間:4ヶ月児健診の期間は1997年11月から1998年10月、その後追跡した12ヶ月児健診は1998年7月から1999年6月であった。 3.調査方法:4、12ヶ月児健診の通知を個別に郵送する際に母親の日常生活、精神状態などについて、留置方式で健診時に持参して貰う質問紙を同封した。健診の時点では妊娠・出産や栄養状況などについての問診を行い、小児科医師の診察により全身状態や発達状況を確認した。質問紙、問診、診察の3つより得られた情報を解析した。 4.調査項目:4ヶ月児の発達指標は市で使用されている(1)定頚、(2)腹位での頭部挙上、(3)アイコンタクト、(4)追視、(5)音に対する反応の5項目、12ヶ月児では(1)つたい歩き、(2)2指把握、(3)言語理解、(4)視聴覚の4項目をスコア化して評価を行った。母親の精神状態の把握にはSDS(Self-rating Depression Scale,Zung,1965)を75%規模に縮小し評価した。これは得点が高いほど抑うつ傾向を示すものである。環境因子は質問紙の回答より因子分析を行い父親の支援、コミュニケーション、児との関わり、育児知識の4因子を抽出し、因子得点とした。 5.分析方法:4、12ヶ月の発達に母親に関連する要因(属性、環境因子、精神状態)の関連を明らかにするために、児を発達に問題なし(スコア満点)と問題ありの2群に分け、児自身の持つ因子、母親属性と精神状態についての検定(量的変数にはWilcoxson rank sum test,離散変数には2test)を行った。4、12ヶ月の発達の各項目と母親に関連する要因の順位相関(Spearman)を算出し、発達に関連する因子を検討した。これらから有意に関連(p<0.05)する因子を独立変数として用いて、発達問題なしを従属変数にしたロジステック回帰分析によりリスク因子を探索した。その際に(1)4ヶ月時点の母親関連要因と4ヶ月児の発達との関係(2)4ヶ月時点の母親関連要因と12ヶ月児の発達との関係(3)12ヶ月時点の母親関連要因と12ヶ月児の発達との関係の各々について検討を行なった。 III.結果 1.対象者の属性 対象児の性別は男児354人、女児379人であった。4ヶ月時に発達に「問題なし」が636名(86.8%)、「問題あり」が97名(13.2%)であった。さらに12ヶ月時では発達に「問題なし」が532名(72.6%)、「問題あり」が201名(27.4%)であった。母親の平均年齢は30.4±4.0歳であった。4ヶ月、12ヶ月時のSDSの平均は30.4±6.5点(最小15、最大57)、30.6±6.6点(最小16、最大55)で4ヶ月と12ヶ月の期間における個人ごとの変動はみられなかった。家族形態は92%が核家族であり、対象児の出生順位では第1子が55%を占めていた。発達に問題がある群ない群について、関連する因子を検討すると、4ヶ月時では「母親の年齢」、「出生場所J、「居住期間」と、12ヶ月時では「居住期間」と「出生順位」に有意な関連がみられた。SDSを用いた母親の精神状態の評価は子どもの発達の問題ありなしに有意に関連を示さなかった。 2.4ヶ月時の母親関連要因(属性、環境因子、精神状態)と4ヶ月児の発達との関係4つの環境因子は、ほとんどの児の発達項目と正の相関を示した。「育児情報」は「定頚」ならびに「腹位」と「児との関わり」は「腹位」、「アイコンタクト]、「追視」と有意な相関を示した。SDSによる母親の精神状態は全ての発達項目と負の相関傾向を示し、特に「アイコンタクト」とは有意な負の相関を認めた。また「母親の年齢」と「定頚」、「居住期間」と「定頚」、「腹位」の間にはそれぞれ有意な相関を認めた。児の発達に関連する因子の影響力の比較においては、環境因子の「児との関わり」と「母親の年齢」に有意な関連が認められた。 3.4ヶ月時の母親関連要因(属性、環境因子、精神状態)と12ヶ月児の発達との関係「父親の支援」、「コミュニケーション」、「児との関わり」は、ほぼすべての項目と正の相関が認められた。「コミュニケーション」は「つたい歩き」ならびに「言語理解」と、「児との関わり」は「つたい歩き」、「2指把握」、「言語理解」と有意な相関を示した。母親の精神状態を示すSDSは「言語理解」と有意な負の相関が認められた。「出生順位」は「つたい歩き」、「居住期間」は「言語理解」と有意な相関が認められた。同様に行なった発達に対する検討においては、環境因子の「父親の支援」と、「居住期間」が有意な関連因子であった。 4.12ヶ月時の母親関連要因(属性、環境因子、精神状態)と12ヶ月児の発達との関係「コミュニケーション」と「児との関わり」は全て児の発達項目と正の相関を示した。「コミュニケーション」と「言語理解]、「児との関わり」と「視聴覚」とならびに「つたい歩き」、「父親の支援」と「居住期間」は「言語理解」に有意な相関を示した。母親の精神状態を示すSDSは4ヶ月時と同様に「言語理解」と有意な負の相関が認められた。同様の発達に対する検討では、環境因子の「コミュニケーション」と「出生順位」、「居住期間」が有意であった。 IV.考察 本研究の対象となった児はJDDST(日本式デンバー式発達スクリーニング)による発達里程票の通過率からみると、ほぼ日本の平均に一致する標準的な乳児である。その標準的な乳児において、4ヶ月、12ヶ月時において13〜27%が「問題あり」と判定されていた。問題の大部分は、生命に影響を与えたり、成長発達に重篤な後遺症を残すものではないが、育児者にとって大きなストレスを与えるのみならず、その後の発達に潜在的に悪影響を与える可能性がある。 本研究は、この標準的な乳児集団に発達上の問題を生じさせる一因として、母親の属性や精神状態と育児環境があるのではないかという仮説を検証するために行われた。結果に示したように4ヶ月児においては「母親の年齢」と「児との関わり」が12ヶ月においては「居住期間」、「出生順位」、「コミュニケーション」が、児に発達に有意に影響を与えていることが明らかになった。これらの因子が児に影響を与えることはそれぞれについては報告されているが、乳児期を通しての報告は少ない。これらは健診における育児指導の際にどのような指導に重点をおくべきかの目安になる。特に母子相互作用に含まれる「児との関わり」や「コミュニケーション」が児との発達に影響を与えることは、すでに多くの研究者によって報告されていることとはいえ、重要な事実であることが確認された。 本研究の新知見は、4ヶ月時における「父親の支援」が12ヶ月時における児の発達に有意に関連を示したことである。12ヶ月時における「父親の支援」と有意な関連が示せなかったことと伴わせて考察すると、乳児期早期こそ「父親の育児支援」が必要であるという結論が導くことができる。これは、乳児期後期のすで社会性や運動の発達のみられる乳児と父親が直接コンタクトするより、まだ母親が育児に不慣れな乳児期早期に「育児支援」をするほうがより重要であると思われる。 さらに、「居住期間」が児の発達に影響を与えるという知見も育児におけるコミュニティの影響力の大きさを示唆している。居住期間が短ければ必然的にコミュニティから育児者が受ける様々なサービスや人間関係が乏しくなるが、その結果として、児の発達にに負の影響がでるという事実は、育児者をとりまくコミュニティの整備の重要性を示している。 V.結論 1.本研究の対象児の発達に母親をとりまく環境や精神状態が関連し、乳児期早期の父親の支援が後期の(12ヶ月)の発達に影響することが示し得た。 2.本研究により子どもの発達に影響する因子は4ヶ月では、母親と児の関わり、父親の支援という家庭内の環境が、一方12ヶ月では、近隣との付き合いなどのコミュニケーション、つまり地域社会での環境が重要であることが明らかになった。 3.母親の精神状態を示すSDSは12ヶ月時の「言語理解」と有意な関連が認められた。子どもの言語、社会性の発達に今後影響を及ぼしうることが考えられることから、その後の発達経過との関連の検討が必要である。 4.健診システムの中で、子ども自身の発達だけでなく、家族、特に母親をとりまく環境にも留意して、適切な保健指導を行なうことの重要性が明らかになった。さらに一歩進めて、地域での子育て支援センターや育児サークル等のコミュニティが主体となる育児支援の整備を行なうことにより、環境性の発達障害を予防することが可能となると考えられる。 |