学位論文要旨



No 115498
著者(漢字) 中矢,正
著者(英字)
著者(カナ) ナカヤ,タダシ
標題(和) 陸棲軟体動物ナメクジ(Limax marginatus)を用いた嗅覚-味覚連合学習により発現を変化させる遺伝子LAPS18の単離と解析
標題(洋)
報告番号 115498
報告番号 甲15498
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第914号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 助教授 西山,信好
 東京大学 助教授 鈴木,利治
 東京大学 講師 加藤,晃一
内容要旨 序章・学習・記憶に関わる遺伝子発現1.脳高次機能の記憶

 複雑な神経回路によって構成される脳は多くの動物種にとってその根源をなす最も重要な器官である。記憶については古くから研究の対象として多くの知見が得られている機能である。その理由として、記憶は多くの動物において生命に重要な機能でありその機能は良く保存されていることなどが挙げられる。またヒトにおける脳組織の傷害によりその成立には大脳基底核の辺縁系に存在する海馬のみが必須であるということが明らかとなり膨大な脳領域の一部にその研究対象を限定できたということも一因である、と考えられる。

2.記憶機構解明における研究

 パブロフの犬などに見られる古典的条件付け、すなわち条件刺激(Conditioned Stimuli:CS)と無条件刺激(Unconditioned Stimuli:US)の組み合わせによる条件反応(Conditioned Responce:CR)の表出を用いた数々の実験により、多くの動物種において同様の条件付けが可能であることが示された。また記憶中枢としての海馬をスライスして用いた実験からシナプスにおける長期増強(long-term potentiation:LTP)の発見され。記憶の電気生理学的modelが見つかった。更に小脳でみられていた長期抑圧(long-term depression:LTD)が海馬でも見つかり、記憶形成の神経回路的機構がおぼろげながら明らかとなりつつある。

3.記憶成立における分子生物学的研究

 記憶の分類として、数分程度しか保持できない短期記憶と数日から数年、あるいは一生保持される長期記憶があることが知られている。また蛋白質合成阻害剤やmRNA合成阻害剤を用いた研究によりマウスなどの哺乳類からショウジョウバエ、アメフラシに至るまで、その長期記憶の成立にのみ新規遺伝子発現が関与しているということが明らかとなってきた。

 細胞接着因子として知られるependyminが金魚の学習において学習から30分後、及び3時間後にその発現増加を示したこと、CREBの活性化にはリン酸化によってなされるが、そのリン酸化はLTPを生じさせてから20分後と2時間後に見いだされたことなどから、学習に関わる遺伝子の発現は学習から30分後の初期、及び3時間後の後期に発現する、ということが分かってきた。更にその初期においてはCREB、c-fosといった転写因子群が活性化し、次に必要な因子の転写を促進すると考えられた。しかしながら、後期どのような遺伝子発現が起きるのかは未だ良く分かっていない。

4.陸棲軟体動物ナメクジ(Limax)を用いた研究

 アメフラシやウミウシ、カタツムリ、ナメクジなどの軟体動物は哺乳類などに比較して単純な脳神経回路をもつことが知られている。情報の入力から出力に至る系が単純であり、且つ、それが行動レヴェルと対応していることからこれらの動物は古くから学習・記憶の電気生理学的研究に用いられてきた。

 我々の研究室では陸棲軟体動物ナメクジ(Limax marginatus)を用いている。Limaxは嗅覚-味覚連合学習において一次条件付けや消去といった基本的な条件付けから二次条件付けやblockingといった哺乳類など高等動物でみられるような高度な学習を行うことが知られている。また記憶の成立は一回の条件付けで成立することも知られていた。このような行動学的研究からLimaxは学習・記憶研究に適した動物であると考えられた。

 またLimaxにはNO陽性の細胞が存在し、哺乳類などで逆行性伝達物質として学習・記憶における役割が注目されていたNOの分子的経路がLimaxにもあることが示唆されている。

 そこで、本研究では学習・記憶の成立過程において明らかにされていない、後期に発現する遺伝子の単離を、陸棲軟体動物ナメクジ(Limax marginatus)を用い、嗅覚-味覚連合学習により遺伝子発現の後期相に発現する遺伝子をdifferential display法により見いだしその機能解析を行うことを目的とした。

第一章・学習により発現を変化させる新規遺伝子LAPS18の単離1.1Limaxを用いた嗅覚-味覚連合学習

 絶食を2週間行った後に個体に対してニンジンジュース(CS)を提示するとその匂いに寄ってくる。寄ってきた直後に苦い味のするキニジン水溶液(US)を与えると、その後CSを忌避するようになる。この条件付けをpairedとし、匂いと味を2時間離して記憶が成立しないようにした条件付けをunpairedとして実験に用いた。その結果、pairedにおいて70%以上の個体が少なくとも20日間程度学習した内容を覚えていた。この実験からこの条件付け一回で長期的な記憶が形成されたことが分かった。

1.2.differential display

 上記に示した条件付けを行い、記憶成立の遺伝子発現においてその後期に当たる、条件付けから3時間後に個体の脳神経節を摘出し、これからtotal RNAを得て、differential displayを行った。更にnorthern blot、insitu hybridizationを行ってscreeningしたところ、#4遺伝子についてpairedとunapiredで発現変化が認められた。

1.3.#4遺伝子の全長クローニング

 D.D.で得られた配列は327bであったが、northern blotの結果から全長はおよそ600b程度であることが分かったので、5’RACE法により全長遺伝子のクローニングを行った。その結果578bの遺伝子を得ることが出来た。

 全長遺伝子配列をgenbankによるhomology searchにかけたところ、これまでに知られている機能既知の遺伝子とは有意な相同性を示さず、新規な遺伝子である可能性が示唆された。#4全長遺伝子の配列には121アミノ酸をコードしているopen reading frameが存在したが、そのアミノ酸配列の特長として、Lys残基が非常に多く含まれ、Am残基と合わせて全体の28%が塩基性アミノ酸であり、塩基性の高い蛋白質であることが予測された。

1.4.#4cDNAのLimax組織における発現

 得られた#4遺伝子がLimaxのどの組織に発現しているかを調べる為に、northern blot及びwestern blotを行った。

 naiveのLimaxから主な脳神経節である、visceral ganglia、cerebral ganglia、これらのbrainを除いたheadのtotal RNAを用いてnorthern blotを行った。その結果、#4遺伝子はLimaxにおいて学習・記憶の中枢であるとされているcerebral gangliaに強いシグナルを認めた。またvisceral gangliaにもシグナルを認めたが、headにおいては全くシグナルが認められなかった。この実験から#4遺伝子は脳特異的な発現をもつことが分かった。

 抗体を用いたwestern blotにおいてもnorthern blotと同様にcerebral gangliaに特異的であることが分かった。またその分子量はl8kDaであり、一次構造から予測した12kDaとは異なるものであった。これは塩基性アミノ酸が豊富にあることによる効果と考えられた。この分子量から、この蛋白質をLearning Asscoiated Protein of Slug in M.M.18kDa:LAPS18と名付けた。

第二章・LAPS18の学習による発現変化の解析2.1Limax嗅覚-味覚連合学習によるLAPS18の発現変化

 学習後のLAPS18の発現変化を調べるために条件づけてから一定時間後にcerebral gangliaを摘出し、そこに含まれるLAPS18をwestern blotにより定量解析した。

 western blotは絶食のみをかけたnaive個体を基準としてpaired、unpairedの定量値を規格化して調べた(fig.8a:N=5,各々のNにおいてn=5)。その結果、unpairedにおいては条件付け後もその値はnaive個体と殆ど変化しなかったが、pairedにおいて条件付けから12時間後に発現量の有意な増加が認められた(P<0.02)。更に48時間後においても有意な発現の増加が認められていた(P<0.05)(fig.8b)。RNAレヴェルでは条件付け後3時間でしか調べていないが、この蛋白質レヴェルにおける実験からもLAPS18は学習の後期に発現が変化する遺伝子であることが支持された。

2.2Limax cerebral ganglionにおける発現局在の変化

 2.1においてLPAS18はpaired群において有意な発現増加を認めた。そこで、条件付け後のcerebral ganglionにおいてその発現がどのように変化しているかを調べる為に、最も発現が増加していた12時間後のcerebral ganglionを摘出し、その局在を免疫染色法により調べた。

 その結果、naive、unpairedの切片においては細胞体層が染色されたのに対し、pairedの切片においては細胞体層及び神経突起層が染色された。LAPS18は通常細胞体に存在し、条件付けによりその発現は細胞体層から神経突起層に発現局在を大きく変えることが明らかとなった。

第三章・LAPS18の機能解析3.1分泌型蛋白質LAPS18

 LAPS18の一次構造においてそのN末側11残基がシグナルシーケンスの可能性を持つことがmotif searchにより示唆されたことから、LAPS18が実際に分泌されるかどうかを、mammalian COS7細胞を用いて調べた。その結果、LAPS18はUT-59特異的に培地中に存在していることが観測された。

3.2Limax cerebral ganglionの前葉(Procerebrum:PC)初代培養細胞におけるLAPS18の発現

 LAPS18のPC初代培養細胞における発現局在を調べる為に免疫染色を行った。PC細胞を培養後48時間後に固定して用いた。

 細胞を固定後triton処理を行わずに細胞表層を染色した場合、LAPS18は細胞体の一部、特に細胞同士が接触している部分、及び、突起の末端が染色された。このことから、細胞同士の接触過程に機能していることが考えられた。

 細胞を固定後triton処理を行って細胞内部を染色した場合には細胞体及び神経突起全体が染色された。これらのことから、少なくともLAPS18は突起内部に存在し、3.2.2.1の結果から分泌されて細胞表層に結合していることが考えられた。

3.3細胞外におけるLAPS18の機能

 COS7細胞、PC初代培養細胞の両実験においてLAPS18は細胞外に認められたことから、分泌されたLAPS18は細胞外からPC細胞に対して機能することが考えられた。そこでLAPS18を細胞に与えた時の効果を調べた。

 PC初代培養細胞に対して1Mの濃度で、精製したrecombinant LAPS18を培養開始時から加えた場合、同濃度のUT-59IgGを加えた細胞の動きを定点観測を行って記録し、その写真をNIHimage programにより解析して細胞の動きを定量化した。その動きの平均値を取ると、コントロールの細胞では24〜36時間では??±??pixelであったものが、36〜48時間では??±??pixelになっており、時間がたつに連れて速く動いていることが分かったが、LAPS18を加えた細胞においては24〜36時間において??±??pixelとなり、コントロールに比較して有意に速く動いていることが明らかとなった。36〜48時間においてはコントロールとほぼ同程度(??±??pixel)になっていた。またUT-59IgGを加えた場合には24〜36時間,36〜48時間共に??pixeld程度になっており(24-36:??±??pixel,36-48:??±??pixel)、この場合細胞の移動が抑制されていることが分かった。これらのことから、LAPS18はPC初代培養細胞に対して細胞外からその移動に関与した機能を持つことが示唆された。

3.4LAPS18をコートしたbeadsのPC初代培養細胞に対する効果

 これまでの実験からLAPS18は接着性因子である可能性が考えられた。そこで、蛋白質自体に細胞接着能があるかどうかを調べるためにLAPS18をコートしたbeadsをPC初代培養細胞に与えた時の効果を調べた。

 その結果、コントロールのbeadsには細胞は殆ど結合していなかったが、LAPS18をコートしたbeadsには多くの細胞が付着しているのが観測された。

 この実験から、LAPS18はそれ自体で接着活性を持つことが明らかとなった。

3.5LAPS18の機能ドメインについて

 LAPS18の細胞移動・接着活性を持つ部位を知る目的でN末を欠損したコンストラクトを作成し、その効果をPC初代培養細胞を用いて調べた。

 用いたコンストラクトは、分泌シグナルシーケンスであるN末12アミノ酸を欠損したコンストラクトB、全長およそ3分の1のアミノ酸である45アミノ酸を欠損したコンストラクトC、及び全長のコンストラクトAを使用した。

 これらを1Mの濃度で培養開始時から作用させ、培養から48時間後までを定点観測により、その細胞の移動の様子を観測した。その結果、何も加えないコントロールの細胞に比較して、Aを加えた場合には3.3で示したような移動の促進によるaggregateが観測された。更にBを用いた場合にはより大きなaggregateが観測され、その移動促進活性がより高くなったことが観測された。しかしながら、Cを用いた場合には3.3で抗体を加えた時とほぼ同様の効果、移動の抑制が観測され、48時間培養したにも関わらず、細胞は殆ど移動していなかった。これらのことからN末アミノ酸13〜45の間に強い細胞移動活性を持つ部位が存在し、アミノ酸46以降は移動促進作用とは別の役割を持っていることが示唆された。

第四章・LAPS18の相同遺伝子について

 新規分泌型蛋白質LAPS18は本研究により細胞凝集・接着活性を持つことが明らかにされたが、そのin vivoにおける機能は明らかにできてはいない。in vivoにおける機能を示すためには遺伝学的背景が充分に確立されている動物を用いることが重要であると考えられた。そこで、LAPS18の相同遺伝子産物が他の動物に存在するかどうかをhomology searchにより調べた。するとhuman、mouse、zebra fishにおいて有意な相同性を持つ蛋白質があることがわかった。

総括

 本研究により得られた遺伝子(LAPS18)について

 1.121アミノ酸からなる新規分泌型蛋白質をコードしており、Limaxの嗅覚-味覚連合学習の成立によりその後期に発現量を増加させ、また発現局在を細胞体から神経突起にまで広げることが明らかとなった。

 2.またLimax PC初代培養細胞を用いた実験から、LAPS18は細胞の移動凝集に関わる接着性の機能を持つことが明らかとなった。

審査要旨

 長期記憶の形成には遺伝子発現と蛋白質合成が必要であることは広く認められている.学習により,転写因子をコードする最初期遺伝子群の発現が誘導され,ついで,それらにより長期記憶関連遺伝子の発現が誘導されるものと考えられている.しかしながら,実際にどのような遺伝子が長期記憶の形成に関与しているのか,同定された例はほとんどないのが現状である.本研究は,高い連合学習能力と単純な中枢神経系を有する陸棲軟体動物ナメクジ(Limax marginatus)を用いて,長期記憶形成に伴い発現する遺伝子を同定し,その遺伝子産物の機能を解析したものである.

 匂い忌避連合学習から3時間後において,嗅覚-味覚連合学習させた個体群とさせなかった個体群の間で発現が異なる遺伝子をmRNA differential display法により3種同定した.これらの遺伝子の部分cDNA配列を用いて,Northern blot hybridizationを行った結果,両群の間で発現に明確な差が認められた1クローンについてさらに研究を進めた.得られた部分cDNA配列から,5’-RACE法により全長cDNA配列を得た.そのサイズは578bp(121アミノ酸をコード)であった.蛋白質はSDS-PAGE上で18kDaの分子量を示すことから,Learning Associated Protein of Slug with molecular weight of 18kDa(LAPS18)と命名した.Liamx組織に対するNorthern blot hybridizationおよびWestern blot解折から,LAPS18のmRNAおよび蛋白質ともに,感覚中枢であり,かつ記憶の場と考えられている脳神経節に主に発現していた.

 Limax脳神経節におけるLAPS18蛋白質の発現量の学習後の経時変化を調べたところ,学習から12時間後に発現量が増大し,48時間後にも保たれていた.さらに免疫組織化学的解析から,学習後12時間において,学習させていない個体の脳神経節ではLAPS18は細胞体に留まっていたのに対し,学習させた個体の脳神経節では,細胞体及び神経突起に多く認められた.すなわち,記憶の獲得によりLAPS18の局在が変化することが示された。

 LAPS18遺伝子をCOS7細胞で発現させた実験から,LAPS18は分泌タンパク質であることが示された.そこで,Limax PCの初代培養細胞においてLAPS18の細胞内局在を免疫組織化学的に調べた.Triton X-100処理を行った細胞では,神経突起が染色された.Triton X-100処理を行わなかった場合には,細胞同士が相互に接触している部分,及び神経突起の末端のみが染色された.従って,LAPS18は細胞体で生合成された後,神経突起を経由して末端で分泌され,神経末端および細胞接着面に分布するものと考えられた.また細胞同士が接着する部位で分泌される可能性も考えられる.初代培養細胞の培地中にLAPS18は見出せなかったが,これは分泌されたLAPS18が膜上などにある蛋白質などに直ちに結合するためと考えられる.

 LAPS18は分泌型であり,細胞外から細胞に作用している可能性が示されたことから,Limax脳神経節前葉初代培養細胞にLAPS18を作用させた時の効果を調べた.初代培養細胞は通常培養条件下で,細胞が移動し凝集体を作る性質を持っているが,1Mのrecombinant LAPS18を培養液に加えると,有意に細胞の移動凝集を促進した.また1Mのanti-LAPS18IgGを加えると細胞の移動は完全に抑制された.さらに,LAPS18をコートしたbeadsを初代培養細胞に添加すると,細胞はbeadsに集まり,beads上を動くのが観測された.以上より,少なくとも培養細胞においてはLAPS18が細胞の移動,接着を促進する機能がある事が明らかにされた.

 以上,本研究は,新規学習関連蛋白質LAPS18を発見し,その一次構造,局在,性状を解析したもので,神経科学,細胞生物学に寄与するところが大であり,博士(薬学)の学位を授与するに値するものと判断した.

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