内容要旨 | | 一変数関数論において,もっとも重要な定理の一つは「複素平面内の単連結で複素平面全体ではない領域は単位円板と双正則同値である.」というリーマン(Riemann)の写像定理である.多変数関数論においてはこのような定理は存在しない.実際,ポアンカレ(Poincare)によって複素2次元における超球と多重円板は,位相的には同値だが双正則同値ではないことが証明ている.したがって,具体的に表すことのできる互いに双正則同値ではない領域たちを決め,任意の領域がこのうちの一つに双正則同値であることを示すという領域の分類をしようとする試みは,たとえ原理的にできるということを示すだけにせよ,非常に大切なことであろう.そこまではすぐには達成できなくとも,ある程度は具体的な形で与えられた二つの領域が双正則同値であるかどうかを判定できるようにするのが目標である. このような目標を成し遂げるために大切なことは,すべての領域に定められる量で,双正則写像で変わらないものを見つけることである.このようなものを双正則不変量という.1926年カラテオドリ(Caratheodory)は有界正則関数全体を使って双正則不変量であるカラテオドリ擬距離を定義した.この擬距離は正則写像によって縮むという性質をもち,単位円板ではポアンカレ距離に一致する.この擬距離はピック(Pick)が改良したシュワルツ(Schwarz)の補題を高次元までに一般化したものになっている. 一般に任意の領域Dに対して,その上の擬距離dDが定義され次の性質を満たすときdDを(正則)不変擬距離と呼ぶ. (i)単位円板上でははPoincare距離に一致する. (ii)短縮原理を満たす.すなわち,任意の二つの領域D1とD2,正則写像F:D1→D2に対して が成り立つ. この定義から不変擬距離は双正則不変量である.もちろん,双正則不変量としてはベルグマン(Bergman)によって導入されたベルグマン計量なども有名ではあるが,ここでは上のようなものに注目することにする.いうまでもなく,さきほど述べたカラテオドリ擬距離は上の条件を満たすので不変擬距離である.不変擬距離の中で別の重要なもの例として,単位円板から領域へのすべての正則写像全体を用いて定義されるものがある.これは1967年に小林昭七によって導入されたもので,小林擬距離と呼ばれている.これらの擬距離は冒頭に述べた双正則同値かどうかという問題にのみならずピカール(Picard)の定理の高次元化,モンテル(Montel)の正規族の理論の一般化,ネヴァンリンナ(Nevanlinna)の値分布論,複素力学系などに広く応用されていることを注意しておく. 不変擬距離はさきに述べたように有用なものであるが,いまだ基本的と思われる性質で分かっていないことが多い.本論文ではそのうちの一つである,領域の変動に応じた不変擬距離の変動,特に,減少する領域上の不変擬距離のふるまいを論じている.その概要を以下に述べる. 複素n次元ユークリッド(Euclid)空間の領域Dを一つとる.領域の増加列{Dj}があってD=UjDjを満たしているとする.このときカラテオドリ擬距離の列{}と小林擬距離の列{}はそれぞれcD,kDに各点収束する.この事実はリストフ(Hristov)[1]によって証明された.その方法は定義にかえって考えれば難しくはない.与えられた領域Dについてほとんど何の仮定を課さないで成り立つことに注意すべきであろう.それにひきかえ,減少列の場合は事態が複雑になる.まず,領域の減少列の定義から始めよう. 定義.領域の列{Dj}がDに収束する減少列とは, (i)任意の正の整数jに対してDj+1はDjの相対コンパクトな部分集合である. (ii)すべてのDjたちの共通部分はDの閉包に一致する.の二条件を満たすときをいう. この定義のもとでは,短縮原理により不変擬距離の収束は減少列のとりかたによらないことがすぐ分かる.領域の減少列上の不変擬距離については以下のことが知られている. 定理.擬凸でC1-級の境界をもつ領域をDとし,Dに収束する領域の減少列を{Dj}とする.このとき,ランパート(Lempert)関数の列{}はに各点収束する. このプフリュック(Pflug)とヤルニッキ(Jarnicki)[2]による結果に現れるランパート関数とはD×D上の,三角不等式を一般には満たさない,(正則)不変な関数である.ランパート関数は凸領域ではすべての不変擬距離に一致し,また,小林擬距離の特徴づけに関連するなど,不変擬距離を考える上で大切なものであることを注意しておく. 定理.領域Dに収束する領域の減少列{Dj}が存在して,さらにカラテオドリ擬距離についての任意の極値関数(extreamal function)に対して,に収束する正則関数の列{j:Dj→}が存在するとする.このとき,カラテオドリ擬距離の列{}はcDに各点収束する. 定理.領域Dに収束する領域の減少列を{Dj}が存在して,さらに,D上の恒等写像に収束する正則写像の列{j:D→Dj}が存在するとする.このとき,小林擬距離の列{}はkDに各点収束する. リストフ[1]によって得られたこれら二つの定理の仮定はあまりにも強すぎて,適用できる領域の例が凸領域のほかはほとんど考えられないのが欠点である. 本論文では不変擬距離のふるまいについての以下の結果を得た. 主定理A.C2-級の境界をもつ強擬凸領域をDとする.このとき,Dに収束する領域の減少列{Dj}が存在してカラテオドリ擬距離の列{}はcDに広義一様収束する. 主定理 B.有界な領域Dで,その境界の各点は弱峰関数(weak peak function)をもち,Dに収束する領域の減少列{Dj}が存在するとする.このとき,小林擬距離の列{}はkDに広義一様収束する. 強擬凸領域,有限個の強擬凸領域の共通部分,解析的多面体は主定理Bの仮定を満たすことを注意しておく. 主定理Aと主定理Bは結果はよく似ているが,証明法はまったく異なる.これは小林擬距離は内的(inner)であるがカラテオドリ擬距離は一般には,それどころか比較的強い条件と思われる定理Aの仮定のもとでさえ,内的ではないためである. 参考文献[1]V.Z.Hristov,Limits of Caratheodory and Kobayashi pseudometrics,C.R.Acad.Bulgare Sci.29(1976),no.7,951-954.[2]M.Jarnicki and P.Pflug,Invariant distances and metrics in complex analysis,Walter de Gruyter & Co.,Berlin,1993. |
審査要旨 | | 一変数関数論において,もっとも重要な定理の一つは「複素平面内の単連結で複素平面全体ではない領域は単位円板と双正則同値である」というリーマン(Riemann)の写像定理である.多変数関数論においては,このような定理は存在しない.実際,ポアンカレ(Poincare)によって複素2次元における超球と多重円板は,位相的には同値だが双正則同値ではないことが証明ている.したがって,具体的に表すことのできる互いに双正則同値ではない領域たちを決め,任意の領域がこのうちの一つに双正則同値であることを示すという領域の分類をしようとする試みは,たとえ原理的にできるということを示すだけにせよ,非常に大切なことであろう.そこまではすぐには達成できなくとも,ある程度は具体的な形で与えられた二つの領域が双正則同値であるかどうかを判定できるようにするのが目標である. このような目標を成し遂げるために大切なことは,すべての領域に定められる量で,双正則写像で変わらないものを見つけることである,このようなものを双正則不変量という.一般に任意の領域Dに対して,その上の擬距離dDが定義され次の性質を満たすときdDを(双正則)不変擬距離と呼ぶ (i)単位円板上でははPoincare距離に一致する. (ii)短縮原理を満たす.すなわち,任意の二つの領域D1とD2,正則写像 F:D1→D2に対して が成り立つ. 不変擬距離は有用なものであるが,いまだ基本的と思われる性質で分かっていないことが多い.本論文ではそのうちの一つである,領域の変動に応じた小林擬距離とカラテオドリー擬距離の変動,特に,減少する領域上の不変擬距離のふるまいを論じている、その概要を以下に述べる. 複素n次元ユークリッド(Euclid)空間の領域Dを一つとる.領域の増加列{Dj}があってD=UjDjを満たしているとする.このときカラテオドリ擬距離の列{}と小林擬距離の列{}はそれぞれcD,kDに各点収束する.証明は,定義にかえって考えれば難しくはない.与えられた領域Dについてほとんど何の仮定を課さないで成り立つ.それにひきかえ,減少列の場合は事態が複雑になる.まず,領域の減少列を次のように定義する. 定義.領域の列{Dj}がDに収束する減少列とは,次の二条件を満たすときをいう. (i)任意の正の整数jに対してDj+1はDjの相対コンパクトな部分領域である. (ii)すべてのDjたちの共通部分はDの閉包に一致する. この定義のもとでは,短縮原理により不変擬距離の収束は減少列のとりかたによらないことがすぐ分かる. 領域の減少列の場合に,小林擬距離とカラテオドリー擬距離はともに"距離"になり,それらの収束についてリストフ(1976)による結果があるが,条件が強く満足のゆくものとは考えられない.本論文では,小林距離とカラテオドリー距離のふるまいについて以下の結果を得た. 主定理 A.C2-級の境界をもつ強擬凸領域をDとする.このとき,Dに収束する領域の減少列{Dj}が存在してカラテオドリ距離の列{}はcDに広義一様収束する. 主定理 B.有界な領域Dで,その境界の各点は弱峰関数(weak peak function)をもち,Dに収束する領域の減少列{Dj}が存在するとする.このとき,小林距離の列{}はkDに広義一様収束する. 強擬凸領域,有限個の強擬凸領域の共通部分,解析的多面体は主定理Bの仮定を満たす重要な例である. 主定埋Aと主定理Bは結果はよく似ているが,証明法はまったく異なる.これは小林距離は内的(inner)であるがカラテオドリ距離は,比較的強い条件と思われる定理Aの仮定のもとでさえ,内的であるとはいえないためである. 主定理Aの証明では,コウル・ランゲ(1972)による有界正則関数のノルムを保つ近似定理が重要な役を果たす.主定理Bの証明では,弱峰関数の概念が有効に働くことが分かった. これらの結果は,多変数関数論における双正則不変擬距離の研究に重要な新たな知見を与え,数理科学上貢献するところが大きい.よって,論文提出者 小林正史 は,博士(数理科学)の学位を受けるにふさわしい充分な資格があると認める. |