学位論文要旨



No 115525
著者(漢字) 北村,雅季
著者(英字)
著者(カナ) キタムラ,マサトシ
標題(和) 多体励起子状態及びその光学応答に関する研究
標題(洋)
報告番号 115525
報告番号 甲15525
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(数理科学)
学位記番号 博数理第145号
研究科 数理科学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 時弘,哲治
 東京大学 教授 薩摩,順吉
 東京大学 教授 山田,道夫
 東京大学 教授 菊地,文雄
 東京大学 教授 荒川,泰彦
 東京大学 助教授 白石,潤一
内容要旨 §1.はじめに

 正の電荷を持つ粒子があたかも負の電荷を持つようにふるまう,キャリアドラッグ(carrier drag)と呼ばれる現象がある.本研究の目的は,この現象を量子力学的に説明する1つのモデルを提案し,そのモデルの中核をなす量子力学的準粒子-多体励起子-の解折を行う事にある.

 キャリアドラッグは図1のように,多数の負電荷をもつ粒子(電子)と少数の正電荷をもつ粒子(正孔)からなる系で起こる.この系に外部より電界を加えると,負の電荷をもつ電子は電界により正電極に向かう力を受け同じ向きに移動する.一方,正の電荷をもつ正孔は電界からは負電極に向かう力を受けるが,ある条件下ではその力とは反対に電子と同じ向きに移動することがある.これは,電子により正孔が「引きずられた」と考えられ,キャリアドラッグと呼ばれている.この現象は,擬2次元的構造(量子井戸)中に光学的に生成された正孔の再発光現象により,実験的に確認されている.

図1:キャリアドラッグを説明する概念図

 これまでのキャリアドラッグの理論的研究は,その原因が,電子,正孔およびフォノン間の散乱にあると仮定している.これに対して本研究では,キャリアドラッグは電子-正孔間の相互作用が本質的な要因であるという立場をとる.具体的には,多電子1正孔からなる系において2つ以上の電子が正孔に束縛された状態(多体励起子という)が安定に存在すれば,多体励起子は全体として負に帯電しているためキャリアドラッグ現象が生じると考える.この仮説を正当化するためには,(i)多体励起子がこの系で安定であること.(ii)多体励起子が光学的に十分に励起されること,を示さねばならない.この2点を示すことができれば.このモデルの妥当性が示されたことになる.本研究の主題は以上の2点の解析である.具体的には以下の手順で解析する.多電子1正孔の系において.

 (a)それぞれの電子数について固有エネルギーおよび波動関数を求める.

 (b)それぞれの電子数の固有エネルギーの比較から最も安定な状態となる電子数を求める.

 (c)多体励起子の光吸収について考察する.

 本研究では,2次元系及び1次元系についてN電子1正孔の系について考察したが,本要旨では,2次元系についての結果のみを述べる.

§2.多電子1正孔系のHamiltonian

 2次元のN電子1正孔系における正孔に対する電子の相対運動のHamiltonianは,

 

 と表すことができる.ここで,は正孔と電子の質量比m*e/m*h,i≡(xi,yi)はi番目の電子の正孔に対する相対座標,である.式(1)で電子数N2では,多体問題となり,このHamiltonianに対する解を厳密に求めることはできない.そこで,本研究では,変分計算により近似的に固有状態および固有エネルギーを求めた.

§3.変分計算と軌道関数

 電子の波動関数の座標の置換に対する反対称性を保証するために,変分計算に使う関数としては,スレーター(Slater)行列式

 

 の線形結合で表される関数

 

 を選ぶ事にする.ここで,j=(j,j),j=(j,j),l=(l1,l2,…,lN),jはスピン座標,およびclは変分パラメーター,はスピン軌道関数(spin-orbitals)で軌道関数とスピン関数の積である.以後,スレーター行列式を式(2)の最後の式のように簡略化して表す事にする.また,軌道関数と上向きのスピン関数の積を,下向きスピン関数の積をと記述することにする,関数列{l}としては電子数およびスピン量子数S・スピン角運動量Msにより分類した結果,次の6種類の関数列:

 

 を選んだ.変分計算はこれらの関数列についてそれぞれ行った.軌道関数としては,

 

 を使用した.

§4.固有エネルギーと波動関数の計算結果

 本節では固有エネルギーと波動関数の主な計算結果を示す.ここに示した結果は,すべて=0の場合である.

 図2は前節で示した変分関数についての固有エネルギーの計算結果である.図中には電子数および電子状態(使用した変分関数)を示した.図2よりエネルギーが低い方から2電子一重項状態,3電子二重項A状態,そして1電子状態(励起子)であることが分かる.これより,2電子一重項状態が最も安定な状態であるといえる.

図2:エネルギー固有値

 2電子の場合のように電子数が同じでも.変分関数によってエネルギーが異なる.そこで,2電子の場合の確率密度|(1,2)|2について調べた.図3には確率密度P(1)(1)≡1∫d1∫d2P(1,2)を示した.P(1)(1)は電子が1に存在する確率を表す.図3より一重項では1〜0.3に1つのピークがあるが,三重項では,1〜14にもピークがある.波動関数を1つのスレーター行列式で近似(ハートリー近似)した場合の状態に例えるならば,一重項状態は2つの電子が基底状態に入り,三重項状態は1つの電子が基底状態に.もう一方が励起状態に入った状態に対応すると言える.このことは,図4,5より更に明らかになる.

 図4,5には一重項および三重項のを示した.両状態とも,極大となる点が=0を中心とした円状に現れているが,三重項状態では1〜0,3だけでなく1〜14でも確率密度が極大となっている.これらは,図3で示したP(1)(1)の2つのピークに対応するものである.

図3:2電子の場合の確率密度P(1)(1)図4:一重項状態の確率密度(1,1)図5:三重項状態の確率密度(1,1)

 図6には一重項のを示した.ここで,maxはP(1)(1)が極大となる1である.確率分布は,一つの電子が2maxに存在するときの,もう一方の電子の分布を表す.図6から分かるように,電子の分布は2maxの電子を避けるような分布となっている.これは.電子-電子間のクーロン反発の結果と言える.

 図7には電子数N=2,3,4の場合のP(1)(1)を示した.(N=3,4の場合もN=2と同様に確率密度Pを定義し,P(1)(1)はPを1以外で積分した確率密度である.)2電子および3電子については,同じ電子数の中で最もエネルギーが低い一重項状態と二重項A状態について示した.図7から,2電子の場合には1つのピークが,3電子,4電子の場合には2つのピークがある事が分かる.2電子の場合と同様な議論により,3電子の状態は,2つの電子が基底状態に,1つの電子が励起状態に存在する状態,4電子の状態は,2つの電子が基底状態に,2つの電子が励起状態に存在する状態に対応するといえる.以上のように,電子数が増すにつれて,より大きい1での電子の存在確率が増加することになる.

図6:一重項状態の確率密度図7:電子数N=2,3,4の場合の確率密度P(1)(1)
§5.まとめ

 本要旨では,本研究のうち2次元多体励起子の固有エネルギーおよび波動関数に関する計算を中心にまとめた.結果として,2電子1正孔一重項状態が最もエネルギーが低く,安定な状態であることを示した.これにより多体励起子の安定性については示したことになる.多体励起子の光学的な性質については,ここではふれなかったが,2電子1正孔による光の吸収が,電子密度の増加とともに、強くなる事などを示した.以上,多体励起子の安定性と光学的な性質により,本研究で提案したモデルがキャリアドラッグを説明する一つのモデルとして有効であると言える.

審査要旨

 正の電荷を持つ粒子があたかも負の電荷を持つようにふるまう,キャリアドラッグ(carrier drag)と呼ばれる現象がある.論文提出者北村雅季は,この現象を量子力学的に説明する1つの理論を提案し,その理論の中核をなす量子力学的準粒子-多体励起子-の解析を行い理論の正当性を示した.さらに,この理論を実証するための実験を提案した.

 キャリアドラッグは多数の負電荷をもつ粒子(電子)と少数の正電荷をもつ粒子(正孔)からなる系で起こる.この系に外部より電界を加えると,負の電荷をもつ電子は電界により正電極に向かう力を受け同じ向きに移動する.一方,正の電荷をもつ正孔は電界からは負電極に向かう力を受けるが,ある条件下ではその力とは反対に電子と同じ向きに移動することがある.これは,電子により正孔が「引きずられた」と考えられ,キャリアドラッグと呼ばれている.この現象は,擬2次元的構造(量子井戸)中に光学的に生成された正孔の再発光現象により,実験的に確認されている.従来のキャリアドラッグ理論は,電子,正孔およびフォノン間の散乱を仮定し,半古典的なBoltzmann方程式を解く事によって正孔の移動を説明していた.

 これに対して論文提出者は,2つ以上の電子が正孔に束縛された状態(多体励起子という)が安定に存在し,多体励起子は全体として負に帯電しているためキャリアドラッグ現象が生じるという仮説を提出した.そして,この仮説を正当化するために,(1)多体励起子が安定であること,(ii)多体励起子が光学的に十分に励起されること,を示した.具体的には,2次元及び1次元のfermion Fock空間の完全系を与えるBloch函数の基底をもとに,多電子1正孔の多体系のSchodinger方程式を導き,その最低固有値と対応する波動函数を考察した.電子数N2では,多体問題となり,解を解析的に求めることができないため,変分原理に基づく数値的な近似解の構成を行っている.その結果,2次元量子井戸構造においては,2電子一重項状態がもっとも安定であり,ついで3電子二重項状態,そして1電子状態(励起子)であることを示した.また1次元量子井戸構造においても,2電子一重項状態がもっとも安定である事を示した.これにより多体励起子の安定性について示されたことになる.特に,3電子二重項が通常の励起子よりの安定である事,1次元系においても2電子一重項状態が安定である事を示した点は従来ない結果であり,評価できる.また,変分計算によって得られた波動函数をもとに,多体励起子の光吸収確率をFermiの黄金律を用いて数値計算を行った.その結果,2電子1正孔による光吸収が許容遷移であり,励起子の光吸収は電子密度にほとんど依存しないが,2電子1正孔の光吸収確率は電子密度の増加に比例して強くなる事を示した.この結論は,他の系において観測されている実験事実に一致する.以上の多体励起子の安定性と光学的な性質に関する解析結果により,本研究で提案したモデルがキャリアドラッグを説明する一つのモデルとして有効であることが示された.さらに,電界を加えた状態での位置依存性のある光学スペクトル測定など,このモデルを検証する具体的な実験方法についての提案を行っている.

 論文提出者の研究は,キャリアドラッグという物理現象を量子論的に説明する初めてのモデルを構築し,数理的な解析によってその正当性を示し,さらに実証実験まで提案したものであり,数理科学に対する貢献が大であると認められる.

 よって本論文提出者北村雅季は博士(数理科学)の学位を授与されるに十分な資格があるものと認める.

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