学位論文要旨



No 115548
著者(漢字) 門脇,むつみ
著者(英字)
著者(カナ) カドワキ,ムツミ
標題(和) 近世初期の人物画における<かたち>の問題 : 風俗画と肖像画を中心に
標題(洋)
報告番号 115548
報告番号 甲15548
学位授与日 2000.04.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第281号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,康宏
 東京大学 教授 河野,元昭
 東京大学 教授 小川,裕充
 東京大学 教授 黒田,日出男
 大阪大学 教授 奥平,俊六
内容要旨 要旨を表示する

 近世初期は、日本絵画史上、人物画が最も盛んに制作された時期のひとつであり、特に風俗画、肖像画に多彩な展開が認められる。また、その方法として<かたち>が意識的に用いられるようなったことが目をひく。<かたち>とは、特定の画題や意味と結び付いて使われる人物の定型、その容姿、髪形、着衣、ポーズなどを含めた像容のおよそを意味する、本稿における造語である。<かたち>に焦点をあてると、画題、時代、国籍などにとらわれず作品をめぐる図像的ネットワークを探ることができる。類似する<かたち>との表現や意味の相違に基づき、当該作晶の創意工夫を明らかにしたり、主題をより深く解釈することも可能となる。本稿はこれら<かたち>による分析の利点を生かし、近世初期の人物画、主に風俗画、肖像画を考えるものである。

 第一部では、この時代を代表する風俗画のひとつ「伝本多平八郎姿絵」(徳川美術館)を取り上げる。無背景素地の画面の向かって左扇に若衆に文を渡そうとする禿、右扇に文を囲む四人の女のあわせて六人を描く。基本的には、遊里の往来の情景と理解できる内容である。しかし、一見そのようにみえながら、特定の人物の恋物語を表していると推定できる点が本図の眼目である。そのための工夫が<かたち>を中心とする画面構成と主題に関わる場面設定にみられる。本図の六人の<かたち>は全て既成のものである。しかも、複数の画題における<かたち>の扱いを参照し、それらを本図が目指す人物の呼応関係や構図にあわせて練り上げ、配置している。その結果、本図の<かたち>はさまざまな典拠への連想に基づいて、隣合う人物の<かたち>を互いに引き寄せ、鑑賞者の視線を一巡させる構成をつくりだしている。そして、それによって文を渡す、読む場面が恋物語としてつながる。従って、特定の典拠のもつ意味が主題に投影される、いわゆる見立て絵ではない。本図の<かたち>のこのような扱いは、無背景に人物を大きく描く点で共通する同時代の「彦根屏風」との比較によってより鮮明になる。また、文をめぐる恋の情景という主題において連関が想定できるのが、当時流行の画題文使い図と出会い図である。文使い図は遊里の女が禿から文を受け取る場面を描く。出会い図は男女の集団が野外で出会い、男が女へ文を渡す場面を表すものを指す。「伝本多平八郎姿絵」は、文を渡す場面の発想を前者に得、男を登場させ、男女を文と視線によってつなぐ構成などを後者に学んだといえる。しかし、独自に文を読む場面を加えており、そのために文使い図、出会い図よりも男女二人の関わり、恋の行く末を具体的に描き出している。従来いわれてきた、三葉葵紋を散らす着物をまとう女を千姫(一五九七〜一六六六)、若衆をその再婚相手本多平八郎忠刻とする伝承の根拠は現時点では確認できない。ただし、<かたち>の工夫、独自の場面設定は、本図が特定の恋の逸話を表す注文制作であることを強く示唆していると結論できる。尚、本図の画家は、狩野孝信(一五七一〜一六一八)に近い人物、制作期は寛永年間(一六二四〜四四)前半と考える。また、表装は当初からのものではないが、本来、現在とほぼ同じサイズ、左右の並びが同じ二曲屏風(一隻かどうかはともかく)であったと判断する。

 第二部として、江戸時代初期に活躍した大徳寺の僧江月宗玩(一五七四〜一六四三)の参禅者や友人たちの肖像画を考える。これらは、<かたち>を用いたり、像主個人に由来する極めて個人的なモチーフを描き込むことで、制作者側の趣味や思いを直接画面内容に反映させている。関係者の共通の知識、認識があってこそ可能な図様であり、それ故、これらの肖像画は彼らの親しい交流の証ともいえる。そのことを特定の像主、佐久間将監、黒田忠之、春屋宗園、江月らを表す作品について、次に脇息にもたれるという<かたち>が共通する肖像画群についてみる。前者はこれまであまり知られることのなかった作品も多いが、いずれも像主や注文主、画家、賛者が一体となってつくりあげた個性的な図様をもつ。また、狩野探幽(一六〇二〜七四)がその多くに関わっており、年記の明らかな彼の肖像画の優品を新たに提示できる点でもこれらは重要である。一方、後者の肖像画の数点は、従来も注目され、同じ姿勢を定型として表す古人維摩や人麿に像主をなぞらえる意図があると説明されてきた。しかし、実は、現在残るこの<かたち>の肖像画のかなりの部分は江月周辺でつくられたものであり、その内容をこの集団内での共通認識に基づいて理解することがある程度可能である。それによれば、維摩図の像容にかなり忠実にならい賛にも『維摩経』の文言を記すものから、脇息そのものに維摩や人麿その人からは離れて隠棲の高士という象徴的な意味を込めるものなどおよそ四種がある。江月をめぐる人々がこのように肖像画制作に熱心であったのは、時代状況との関わりが大きい。これらが主に制作された寛永年間を中心とする頃は、三代将軍家光のもと徳川政権が確立した時期である。そこに生まれる閉塞感、過去への哀惜といった心理的陰影が、自らのあらまほしき姿を絵画に留める衝動として大きく作用したと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、17世紀前半の日本で作られた風俗画と肖像画が、いかなる制作過程と制作事情によって特色ある表現に至ったかを明らかにしようとしている。当時の風俗画や肖像画には、伝統的な人物画に存在した形態の型を利用して現代の人物の姿を描くという手法が顕著に見られる。しばしばその手法は、もとの形態が担っていた意味までを当世人物に重ねて、画面内容を豊かなものにする。本論文が〈かたち〉という概念を用いて考察するのは、主にそのような絵画の作られ方である。第1部は、寛永年間に描かれたと推定される遊楽人物図の名作「伝本多平八郎姿絵」(徳川美術館)を、第2部は禅僧江月宗玩周辺で制作された肖像画群を中心的な考察対象としている。

 第1部冒頭で、「伝本多平八郎姿絵」に描かれる遊女、禿、若衆らの構成や姿態が、竹林七賢図、商山四皓図、寒山拾得図といった古代中国の人物を描く絵画をもとにしている事実を指摘したのは、独創的な発見ということができる。それに続いて、同様に維摩や寒山の姿を遊女に転用する「彦根屏風」や「湯女図」との比較、男女が文を遣わすという主題との関係など、多岐に亘る問題群を論じ、先行研究のほとんどない「伝本多平八郎姿絵」の研究を通じて、寛永年間の風俗画に対する理解を深めた考察を評価できよう。また、この作品の制作事情に関する綿密な調査を経て、尾張徳川家の姫君の婚礼の記念という可能性を説いたのは、従来の単なる伝承を批判する意義がある。

 第2部では、佐久間将監の肖像画が寒山拾得に擬して描かれるなど、像主と画家を含む文化人たちの遊びとして制作される肖像画の実態を論じて興味深い。また、脇息にもたれる像主を描く肖像画が、そのポーズの原型である維摩や人麿の像と意味的に結びついているのかという問題を、多数の作例をもとに細かく検討し、意味的関連の度合を解明した。総じて前代までの遺作に比して軽視されてきた江戸時代初期の肖像画について、新たに狩野探幽に帰属させる作例など多くの作品を調査発掘し、様式分析と賛文の解読を通じてそれらの性格を明確にした功績は大なるものがある。結論として、寛永年間の京都を、武家政権の首都という地位を奪われた都と位置づけ、その状況と江月を中心とする肖像画の特質を結びつける解釈は新鮮であり、寛永文化論に新たな展望を開くものと思われる。

 本論文については、<かたち>という用語の概念規定が不十分である、第1部と第2部の関連性が必ずしも明快でない、論述の細部に再考を要する箇所が見られるなど、批判されるべき点も指摘された。しかし、審査委員会は、これらの点を今後の研究で克服すべき問題点として留保しつつも、大筋において本論文が日本美術史研究に貢献し得る内容を備えるものと考え、博士(文学)の学位を授与するのを適当と判断した。

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