学位論文要旨



No 115550
著者(漢字) 矢野,善郎
著者(英字)
著者(カナ) ヤノ,ヨシロウ
標題(和) 討議論としてのヴェーバー社会学
標題(洋)
報告番号 115550
報告番号 甲15550
学位授与日 2000.04.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会学)
学位記番号 博人社第283号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 庄司,興吉
 東京大学 教授 船津,衛
 東京大学 教授 稲上,毅
 東京大学 教授 盛山,和夫
 東京大学 教授 金井,新二
内容要旨 要旨を表示する

 この論文は,マックス・ヴェーバーの社会学が有している「討議論」としてのアスペクトに着目することで,そこで採用された社会科学像および文化・歴史認識のためのグランド・デザインを,より明晰かつ整合的に把握し,そしてそれを,今日的な問題状況に応えうる「討議的な社会理論」を構築していくための礎石とする試みである。

 ここで言う「討議論」とは,討議の社会的意味を,それを論じる社会科学そのものの討議の再帰的な反省も含めて探求するという研究のプロジェクトのことを指す。この論文では,ヴェーバーの社会学の認識論的考察や方法論が,彼が〈価値討議〉と呼ぶ独特な討議像を中心軸として,こうした再帰的な反省の構造をとっていたことを示す。そしてそれを明らかにすることで,従来のヴェーバー研究では分裂的に描かれることの多かった,彼の認識論・方法論(とりわけ「価値自由」論)と,彼のより具体的な歴史社会学の成果とされてきたもの(とりわけ「合理化」論)とを,より総合的な視野の下に納めうることを論じる。

 ヴェーバーは,「何故そしてどの点で一致しあえないのかについての認識。そうした認識こそ一つの真理の認識に他ならない。そして,この認識に仕えるものこそ〈価値討議〉なのである」と論じた。

 この博士論文の第2章から第4章までは,ヴェーバーが,そうした〈価値討議〉に奉仕しうるように,その人間行為の理解社会学の骨格を尖鋭化させていった過程を描き出す。とりわけ第4章では,彼が晩年に述べた二つの「理解」概念,「現実理解」と「説明的理解」について(ヤスパース等の学説的な系譜をたどりながら)考察する。ここでは,前者の「現実理解」で比較文化的な位置価という横糸を確定し,後者の「説明的理解」で歴史因果関係という縦糸の分析を行うという形で,二層の相互媒介的な理解をともなう方法論を構想していたことを論じる。

 そして第5章から第7章では,こうした基礎的な方法論の再構成を承け,ヴェーバーのより具体的・内容的な社会学(『宗教社会学論集』・いわゆる『経済と社会』)で実際に用いられた分析手法についての再構成を,とりわけヴェーバー研究史で分析の焦点とされてきた「合理化」・「合理主義」などの〈合理〉概念群についての分析を中心として展開する。

 まず第5章では,ヴェーバーの〈合理〉概念群についての方法論的な規定について整理し,それを「二重の方法論的合理主義」と名付ける。つまりヴェーバーが,a)分析のプロセスにおいて〈合理的構成〉という手法を用い,b)比較文化の分析の照準点として〈合理主義〉概念を置いたという意味で,彼の社会学の方法論が二重に〈合理的であること〉に関わっていると整理する。そして,そうした二重の関わりが混同されることで,彼の社会学の研究史において,様々な解釈が派生したことを論じる。

 次に第6章では,その結果,ヴェーバー研究史において「ヴェーバーの合理化論」なる言辞が,しばしば曖昧なまま一人歩きしてきた現状について理論的なサーヴェイを行う。ここではまず,ヴェーバー社会学における「合理化」概念の解釈史を分析するために,1)「一方向的・特殊的」,2)「一方向的・普遍的」,3)「多方向的・特殊的」,4)「多方向的・普遍的」の「合理化」論の四類型を構成する。そしてそのそれぞれの解釈類型についてヴェーバー自身のテキスト上の概念使用とつき合わせて検討することで,4)以外の解釈類型では,多かれ少なかれ「合理化=近代化」または「合理化=西洋化」との実体化を伴った形でヴェーバーを解釈しているか,あるいはヴェーバーが「西洋的な合理化」を価値的に特権視していると解釈してきたことを批判的に論じる。そして今後のヴェーバー解釈では,ヴェーバーが,その〈合理〉概念群を「多方向的・普遍的」に使用していたものとして把握すべきとの解釈仮説を呈示する。

 引き続く第7章では,以上の仮説を展開検証するため,彼が〈合理〉概念群を最も集約的に分析に利用した領域として,「宗教社会学」および「法社会学」を検討する。ここでは,彼が〈合理〉概念群を「多方向的・普遍的」に使用した方法論的合理主義の社会学を展開していることを,具体的な分析スキームを抽出しながら明らかにする。そして従来の解釈史でしばしば同一視されてきた「合理化=脱呪術化」などの実体的な解釈とは裏腹に,ヴェーバー自身は「呪術の合理化」という用語を用いるまでに「合理化」の視点相対化を行っていたことを論証する。総括としては,むしろヴェーバーの社会学は,「近代」・「西洋」と「合理的であること」との仮想的な結びつきを断ち切り,そうした「合理的であること」の文化相対化を経て,“Ratio”の比較社会学的な価値相対化を行い,最終的には“Ratio”そのものの〈価値討議〉にも寄与しようとしていたことを論じる。

 結論章である第8章では,“Ratio”の比較社会学の成果の最も重要な例として,ヴェーバーがその晩年の宗教社会学の中で「科学」の比較文化社会学を展開していたことを論じる。そしてそれを承けて,ヴェーバーの社会学では,「科学的な討議」についての経験的・歴史的認識が,翻って,あるべき科学的討議についての方法論に反映されるという再帰的な構造がとられていたことを論じる。

 この博士論文では最後に,こうした討議的な構造を伴うヴェーバーの社会学の思想的なインプリケーションに関しての考察を行う。ここでは,従来まで「神々の闘争」・「決断主義」等の言辞が過度にペシミスティックに解釈されてきたことを批判し,ヴェーバーの社会学が,実践的な〈価値討議〉との相互奉仕を通して「日常」に対峙していくための,むしろポジティブかつプラグマティックな社会理論の礎石として継承されるべきことを論じて,論を結ぶ。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、マックス・ウェーバーの社会学を著者(矢野)のいう「討議論」の立場から再検討し、これまでの研究で見落とされていた点や不十分にしか指摘されていなかった点などを指摘したうえで、より正確に再構成して、その現代における意義を明らかにしようとしたものである。討議論とは、著者によれば、ウェーバー自身がその社会学の前提としていた立場で、われわれの日常の社会生活そのものが、われわれ個々人が立脚する異なった諸価値のあいだの絶えざる討議をふまえて成り立っている、とする説である。

 全体は8章からなり、第1章でまず、このような問題意識とそれに基づいてウェーバー社会学を再検討することの意義を述べたうえで、第2章で、価値自由(Wertfreiheit)論として知られるウェーバー科学論の基礎に、すでに社会生活の基礎は「価値討議」であるとする考え方があったことを述べる。そのうえで第3章と第4章では、「成果」を重視するウェーバーの科学論における理解が、具体的には「現実理解」と「説明的理解」の2層からなり、現実に起こっていることの理解が相互に意味的に関連づけられて初めて説明されうる、というものであったという。第5章と第6章とは、このような科学論を前提にした「合理化」論の緻密な読みにもとづく再構成で、著者によると、宗教社会学を中心に展開されたウェーバーの合理化論は、「多方向的・普遍的」なものとして解釈されるべきであり、さまざまな合理化や合理主義にいっさい優劣をつけない、徹底して文化相対的なものであった。そのうえで第7章と第8章で、著者は、このような合理化論はじつは近代の合理(Ratio)をも解体するものであり、「神々の闘争」というウェーバーの社会認識が、かれ晩年の特殊な社会状況にのみ適用されるべきものではなく、社会生活の日常がたえざる価値討議にほかならないという普遍性を内包したものであった、と主張している。

 このような著者のウェーバー解釈は、たしかに、先行研究の適切な位置づけという点からすると、それらをやや性急に一面的とする不十分さを残しており、この点を十分に補うべき著者自身の主張の一貫性という点からすると、なお十分に強烈とはいえない難点を残してはいる。しかし、本研究で著者の打ち出した討議論的解釈の視点はこれらの不十分さや難点を乗り越えるほどに独創的なものであり、この視点からするウェーバー社会学のテキストの読みの緻密さはこれまでの諸研究のそれに勝るとも劣らないと言っていい。この意味でこの研究は、日本のみならず世界のウェーバー研究および社会学研究の流れに、新鮮な問題意識にもとづく独自な貢献をなしていると評価することができるであろう。

 以上により、審査委員会は、本論文が博士(社会学)の学位を授与するに値すると判定する。

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