学位論文要旨



No 115563
著者(漢字) 松井,貴子
著者(英字)
著者(カナ) マツイ,タカコ
標題(和) 写生の変容 : フォンタネージから子規、そして直哉へ
標題(洋)
報告番号 115563
報告番号 甲15563
学位授与日 2000.05.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第270号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川本,皓嗣
 東京大学 助教授 三浦,篤
 東京大学 助教授 今橋,映子
 東京大学 助教授 エリス,俊子
 神奈川大学 教授 復本,一郎
内容要旨 要旨を表示する

 近世以前の日本では、文学も美術も中国からの影響が圧倒的であり、西洋とのつながりはごく限定されたものに過ぎなかった。近代以降の西洋受容は、質量ともに、その渇きを癒すかの如くである。このような動きのなかで、西洋美術、特にその理論から大きな示唆を得て、正岡子規によって文学理論としての写生論が形成された。文学は美術と連関しつつ、明治以降も歩みを続け、写生は近代の日本文学を考える上で欠かせないものとなっている。

 しかし、この写生が美術に起源を持つにもかかわらず、これまで近代文学の写生を考えるときには、美術とのつながりという視点が忘れられがちであり、文学作品や文学理論に偏って着目し、文学に限定した視野で自己完結して論じられ続けて来た。子規から、虚子とその周辺を合わせたホトトギス派、漱石、茂吉という枠内に限って考えるならば、すでに、写生俳句、写生歌人、写生文派などの研究として、多くの研究がなされている。しかし、いずれも国文学研究としてなされているためか、ほとんどが作家たちの著作(理論、作品)のみによって考察が進められており、文学以外の分野に目を向けたものは少ない。

 日本でのこのような動きに対し、西洋では、文学と美術はいかなるつながりをもつか、古くから様々に論じられてきた。ある時代には類似性の強調に傾き、またある時代には差異の強調に傾いている。

 美術と文学の類似性は何であろうか。子規の写生論に即して言えば、ともに描くべき材料を現実の世界から取り出すことができ、それらを再構成した作品によって享受者に感動を与えることができることである。しかし、美術と文学は表現の手段を異にすることは明白であり、作品中に効果的に表現できるものは同じではない。子規は、絵画の特質が空間的であるのに対し、散文の特質は時間的であるとしている。

 文学と美術の連関という視点を取り戻し、子規写生論の起源となっているイタリア人画家アントニオ・フォンタネージから、日本人画家達を経た子規までの美術理論の伝承と文学論としての写生論の成立までと、子規没後、様々な作家たちによって写生が継承され、発展していった系譜を、それぞれ文学の美術への接近と離反、文学としての写生の自立という観点から、新たにとらえる試みをした。

 文学と美術は表現手段を異にするものである。言葉によって絵画作品そのものを表現することには限界があり、そこに、美術から文学へとジャンルを超えることに対する疑問も生じ得る。しかし、子規にとっては、言語は決して絵画に従属するものではなく、言葉によって絵画を忠実に再現することを目的としているわけでもなかった。文学に役立つことを美術から抽出すれば十分であるとして、疑問や問題意識から目を背けていたかのようである。子規の西洋美術受容が、描かれた絵画作品そのものを中心としたものではなく、主として理論によるもの、つまり、文学と同様に言語によって表現されたものであったことが、専門の画家ではない子規にも視覚の変容をもたらし、美術から文学への応用を可能にした大きな要因であろう。明治六年に開催されたウィーン万博規約の訳文に、西洋では美術の語が、音楽、画学、彫刻、詩学などを意味すると記されているように、子規が学生時代に読んだと思われるウィリアム・D・コックスの修辞学教科書(明治18)にも、詩は美術の一要素であること、美術は絵画、彫刻、建築、音楽、詩を含むことが書かれている。そして不折の画論にも同様の記述が見られ、子規は自身の文学論の中で美術と文学の同質性を力説している。子規の時代にはまだ、文学と美術を同一ジャンルと見る見方が生きており、これも美術を土台とした子規写生の成立を援護するものとなったと考えられる。

 美術用語としての「スケッチ」と「写生」は、区別して使用されている。美術用語としての「スケッチ」は、あくまでも未完成作品である。しかし、一般的にはこの二つの語は明確な用法の区別が認識されていない。従って、子規をはじめとする文学における写生を論じる場合にも、全く無自覚に混同され、安易に同一視されて使われていることが多い。これは、子規の写生と美術とのつながりに関して、「美術からの影響があった」という認識は定着しているものの、子規がフォンタネージの美術理論からどんな内容をどのように受容したかということについて、具体的な考察がなされないままに事柄としての認識だけが定説として独り歩きしてしまった結果であると思われる。しかし、子規の周辺にいた画家の言葉や子規の弟子坂本四方太が「ホトトギス」に発表した写生論には、美術と同様の用法を見出すことができる。日本人画家によって忠実に伝えられたフォンタネージの美術理論が、子規の写生論にほとんど改変されることなく取り込まれていることから考えて、少くとも子規とその周辺では、子規没後それほど時を経ない頃まで、美術理論での語の用法に倣って、「スケッチ」と「写生」の語が区別して使われていた可能性が高い。

 子規は、まず俳句において試みた写生を、続いて短歌、散文へと、それぞれの文学形式の特性(十七字の定型に縛られる俳句、三十一字の定型に拘束される短歌、定型の制限のない散文)に応じて、少しずつ修正しながら応用していった。子規が晩年の病床で楽しんだ水彩画体験が、子規の写生論の深化に影響を与え、例えば、「寂事文」に見られる写生についての新たな用語の模索に現れていると思われる。

 子規の死によって、その写生論は一応完結し、高浜虚子や斎藤茂吉によって、それぞれの独自性を加えられながらも着実に継承されていった。子規没後に展開された写生論においては、茂吉の方がより独自性を強めているが、子規の写生につながろうという意識が消えることはなく、子規の彩色画体験を追体験しようと、「果物帖」に描かれたのと同じ野菜や果物を描いてもいる。また、散文では、虚子の写生文や漱石を介して志賀直哉にも、作家としての自立を確信させた表現法の獲得に影響を与えている。

 子規存命中の明治三十一年、松山から東京に移った「ホトトギス」では、写生文につながる散文の試みが始められた。毎月、題が課され、比較的短い文章が募集、掲載された。この兼題募集文では、視覚的再現性を充分に具えた文章の完成には至らなかったが、事物や事柄を細叙すること、時間の経過に従って心の動きや事柄を写しとることについては一応の進展があったとみることができる。子規は、後には、事象を視覚的に再現する文章が形を整えてきたと認識している。

 漱石は、子規の同輩として、写生の展開を冷静に、客観的に評価し批判した。子規は、様々な文体を試み、写生文の文体としては言文一致体を提唱した。言文一致体の獲得については、漱石をはじめとする親しい人々との書簡のやりとりが影響していると思われる。「倫敦消息」は、漱石がロンドンから子規に書き送った手紙である。視線の動き、時間の経過に沿った描写のなかに、主観を表す言葉がはさまれている。自己の内面に密着して、自らの思考過程を描写している。時間の経過を伴った心理描写は、志賀直哉の作品と共通するものが感じられる。

 志賀直哉は、写生文に影響を受けたと自覚している。作家として自立しようとしている時期に、虚子の写生文的小説に関心を抱き、視覚性、短編性、日常性といった写生文の特質を取り込んだ。しかし、直哉は、そこにとどまらず、父親との不和に由来する烈しい感情を描き出すことを通して、近代小説に脱皮した。写生文的描写と心理描写が絡み合った直哉の小説が完成したのである。

 写生は、現代の短詩でも依然として大きな柱である。散文では、もはや特別な表現技法としては意識されないほどに、様々な描写の中に溶けこんでしまっているのではないだろうか。

 文学における写生は美術から示唆を受けて成立した。子規によって写生論が構築され、文学作品に具現されたのである。文学理論構築のための美術理論受容では、言語表現と絵画表現の差異は大きな障害とはならなかった。しかし、文学作品を創作するにあたっては、表現様式や表現効果の違いは十分に考えられなければならないものであった。近代文学としての写生の端緒を示しながら、写生文派は文学と美術の共通性をあまりにも素朴に信じたために、結局は近代文学の傍流となってしまった。しかし、写生文は批判されながらも、近代文学にもたらした新しい要素は評価された。絵画表現に及ばない部分は捨てられ、言語表現の進展に有益なものが生き残っていった。写生は、美術から自立し、近代文学の一要素として確たる位置を占めるに至ったのである。

 この博士論文では、文学の領域にとどまらず、子規が美術理論を取り込んで写生理論を構築したことを出発点としている。そして、子規の写生が文学者に受け継がれる中で変容し、美術から離れて自立し成熟していった様相を明らかにし、さらに、子規や虚子が属したホトトギス派の枠外とされて、従来の写生文に関する研究ではほとんど目を向けられてこなかった志賀直哉への子規写生の影響を考察した。

審査要旨 要旨を表示する

 もともと美術用語であった「写生」の概念が、イタリア人の画家で明治初期のお雇い美術教師であったアントニオ・フォンタネージからその日本の弟子たちに伝わり、やがて正岡子規によって文学の世界に導入されて、近代日本の詩歌・小説の創作と批評の両面で重大な影響を及ぼしたことは、よく知られている。ことに俳句の世界では、今日でも創作や批評の場で「写生」の語がさかんに用いられている。

 とはいえ、この外来の理念が具体的にどのような状況のもとで、どんな経緯をへて日本の画家たちの間に根づき、さらには子規の耳にまで届いたか、また子規はこの美術用語をどのように理解し、それをどんな形で文学というまったく異なる芸術領域に応用したか、そして子規以来、その「写生」の概念が俳句や短歌や小説などの分野でどのような変容と深化を遂げていったかといった点については、これまで十分明らかにされて来たとは言い難い。従来の研究では、もっぱら国文学の範囲内で、写生俳句、写生短歌、写生文の理論と実践の歴史が問われて来たに過ぎない。

 本論文は、画家フォンタネージから小説家志賀直哉に至るまで、日本近代文学における「写生」の運命を、比較文学比較文化の視点から、すなわち西洋と東洋、絵画と文学の双方に目を配りつつ、きわめて綿密に、かつ首尾一貫して跡付けたものであり、日本近代文学史と美術史の両面にわたる知見と理解に、重大な寄与を果たすものである。

 本論文は、3部から成っている。第1部「フォンタネージから子規まで」では、これまでごく表面的に語られるに過ぎなかったフォンタネージから子規までの「写生」理念の流れ、具体的な摂取と実践と伝達の経過が、イタリア語の資料を含む膨大な文献にもとづいて、生き生きと詳細に明らかにされる。明治の初めに工部大学校で直接フォンタネージから教えを受けた画家小山正太郎と浅井忠、その両名から中村不折へ、不折から子規へと、「写生」をめぐる美術理論の忠実な継承の跡がたどられる。理論の中核を成していたのは、(1)写生の材料は身近に無限に見出されること、(2)対象の形、色、明暗、遠近を正確に再現すること、(3)描く対象を取捨選択すること、(4)選んだ対象を構成して作品に仕立てること、そして(5)中心となる対象に焦点を当てて「主意」を表現すること、の5点であったことが指摘され、フォンタネージや日本の弟子たちの作品にもとづいて、具体的に例証される。

 第2部「子規とその周辺」では、まず美術以外の場、ことに文学論などで混同されやすい「写生」と「スケッチ」の意味と用法の違いに焦点が当てられる。当時の文献を検証した結果、子規とその周辺では、「スケッチ」はもっぱら未完の習作の意味で用いられ、美術の領域での両語の使い分けがそのまま厳密に守られていることが、初めて明らかになった。また、子規が絵画の「写生」論を受容する素地として、すでにハーバート・スペンサーの「文体論」から取捨選択の原理などを学んでいたこと、また「写生」にかかわる実践として、画家中村不折と「画俳交流」の試みを行っていたことなどが、絵とテクストの分析を通じて論証され、こうして構築された子規の「写生」論が、俳句から短歌、そして散文へと、それぞれの形式に応じた修正を伴いつつ展開していく様相が跡付けられる。そして、子規が晩年に病床で親しんだ水彩画が、「写生」概念のさらなる深化をうながしたと思われ、例えば「叙事文」における新たな用語の模索は、その現れであるという。

 第3部「子規以後」では、子規没後の文壇で「写生」が受け継がれ、さまざまに屈折・変化していった経過が、高浜虚子、夏目漱石、島崎藤村、斎藤茂吉、そして志賀直哉の作品その他を中心として考察される。虚子と茂吉は、子規を継承するという強い自覚をもちながら、それぞれ独自の解釈による「写生」を推し進めていく。雑誌『ホトトギス』では、子規の存命中から、のちの「写生文」につながる兼題の短文が募集され、虚子らの作品によってある程度の成果が挙げられた。子規の友人漱石は、「写生」の展開には一定の距離を置いていたが、子規がロンドン時代の漱石その他と交わし合った手紙には、自由闊達な言文一致体のなかに、周囲の観察と心理の動きが微妙に織り交ぜられた、ある新たな写実的文体の萌芽が認められる。そして志賀直哉は、作家として自立し始めた時期に虚子の「写生文」小説に関心を抱き、視覚性・短編性・日常性などの特質を自作に取り込んだが、その後、父親との不和による激しい感情の描写を通じて、「写生文」的な客観描写とこまやかな心理描写が絡み合う近代小説の文体を確立した。今日でも、「写生」は俳句や短歌など短詩型ジャンルの大きな支柱となっている。一方、散文では、もはや特別な表現技法としては意識されないほどに、さまざまな文体のなかに溶け込んでいると見られる。

 本論文の功績は、このように、フォンタネージから直哉に至る「写生」の流れを、初めて一貫した論考のテーマにすえ、その追跡に成功したこと、さらには内外、ことにイタリアその他で博捜した文献を踏まえて、画家フォンタネージ、その美術史的位置、日本での教育のようす、弟子たちの学習と実践のようす、その後の「写実」理論継承のあとを、きわめて詳細に明らかにしたことである。また「写生」という理念が、文学と絵画という2つの芸術形式にまたがるゆえに本来抱え込んでいる厄介な問題を直視して、いわば美術から文学への「翻訳」が具体的にどのような形をとのるかという難問に挑んでいる点も、これまでの研究に欠けていた姿勢として、特筆される。その他、フォンタネージからイタリアの弟子に宛てた手紙を発掘したり、東京大学に残された記録によって志賀直哉の経歴に関する通説を訂正するなど、本論文によって初めて明らかにされた事実や見解、資料や文献は少なくない。今後、本論文が文学・美術両分野において「写生」に関する第一の基本文献となることは、疑いをいれない。

 なお将来の検討が期待される点としては、問題の枠組みを明確に設定する序文の追加、引用された証言のより子細な検討、より豊富な絵画・文学作品の具体的分析に基づく論証、美術と文学の界面へのさらなる理論的接近の必要などが挙げられる。

 このように、なお今後の論考に俟つ余地はあるものの、それは本研究の価値を損なうものではなく、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。

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