学位論文要旨



No 115569
著者(漢字) 張,季琳
著者(英字) Chang,chi-Lin
著者(カナ) チャン,チリン
標題(和) 台湾プロレタリア文学の誕生 : 楊逵と「大日本帝国」
標題(洋)
報告番号 115569
報告番号 甲15569
学位授与日 2000.06.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第287号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤井,省三
 東京大学 教授 若林,正丈
 横浜国立大学 助教授 垂水,千恵
 コロラド大学 助教授 Faye,Kleeman
 成蹊高校 教諭 河原,功
内容要旨 要旨を表示する

 日本統治期の台湾文学においては台湾人日本語作家が大きな役割を果たしているが、彼らの中で最も重要な作家の一人が本論文でとり上げる楊逵(本名楊貴、1905-85)である。彼は1930年代プロレタリア作家として活躍し、当時の日本の中央文壇にも登場した。本論文は楊逵(本名楊貴、1905-85)の生涯と文学に関わる諸問題の中から、彼の一九三〇年代における文芸活動及び彼と日本知識人との交流の二つを主題として選び、現存文献資料や関係者の証言、書簡などに基づいて調査考察し、その結果をまとめたものである。本論文は全九章及び付録からなっている。

 第一章では、台湾文学史上における楊逵の位置付けを試みた後、従来の楊逵研究を概観する。

 第二章では、楊逵の略年譜を挙げながら、彼の生涯を通覧し、彼の経歴を九期に区分する。

 第三章では、楊逵の公学校の恩師沼川定雄の生涯と台湾における経歴を概観し、彼の台湾観を吟味し、彼が楊逵の人生と文学に及ぼした影響について考察する。楊逵をして文学に開眼せしめ、彼の文学活動に一定の方向を与えたというところに、楊逵と沼川定雄の交流の最大の意義がある。

 1932年楊逵の執筆した出世作「新聞配達夫」は、1934年に改造社『文學評論』賞を受賞し、それによって楊逵は日本の中央文壇に登場した最初の台湾人日本語作家となる。第四章では、楊逵のこの受賞の経緯を辿り、当時のプロレタリア作家らの楊逵への評価を吟味する。「新聞配達夫」は台湾人の真情を伝える佳作であるが、芸術的には未熟である、というのが大方の日本人作家の評価であった。ともあれ、この受賞により楊逵は朝鮮を代表する張赫宙と並んで台湾を代表する植民地作家の地位を獲得する。

 楊逵は1935年暮臺灣新文學社を興し、37年6月まで文芸誌『臺灣新文學』を主宰する。第五章前半では、この雑誌編集をめぐる楊逵の苦心の跡を辿り、彼が『臺灣新文學』誌上に試みたさまざまな新企画や新機軸がいかなるものであったかを確認する。同章後半では、楊逵と日本文壇の交流の実態と意義および1937年夏の楊逵の東京再遊の経過を解明する。

 第六章では、左翼系の新文学運動に携っていた頃の楊逵の文学観を吟味する。当時の彼の文学観とは、「芸術は大衆のものである」の一言につきるが、これはトルストイの芸術論に由来するものである。

 第七章では、1937年楊逵の新文学運動の挫折の諸原因を解明する。挫折の外的要因はプロレタリア文学の衰退、日華事変勃発、台湾の文学的土壌の未成熟であり、内的要因は楊逵の文学観の限界性による行き詰まりである。

 1937年末、日本人警察官入田春彦の援助により、楊逵は窮地を脱することを得る。第八章では、入田春彦の経歴と文学、彼の自殺までの経緯、入田春彦と楊逵の交友の意義について考察する。この交友の最大の意義は、入田春彦の遺贈した改造社版『大魯迅全集』により、楊逵が魯迅文学を本格的に受容しえたということにある。

 第九章では、本論文で論じた楊逵の新文学運動と彼の日本知識人との交流の意義を確認し、本論文の成果が今後の楊逵研究にいかなる展望をもたらすかを検討する。

 巻末に付録として台湾・中国における楊逵研究論考一覧表などを収める。

 19世紀末の台湾においては、先住民はそれぞれの部族語を話し、明清二王朝の時代に大陸から移民してきた漢族は大別して〓南語と客家(はっか)語を話していた。しかも〓南語も客家語もさらに下位の方言に枝分かれしていた。19世紀末の台湾人の識字率は10パーセント程度と推定され、ロ語文はいまだ存在せず、古典中国語が読み書きされていた。その言語状況は「国語」制定以前の明治初期の日本、あるいは標準語制定以前の18世紀から19世紀半ばのヨーロッパ諸国とそれほど異ならぬ状況であったことが推測できよう。ただし大きく異なるのは台湾の俗語がその後「国語」化されなかった点である。

 台湾に近代国家の国語制度を持ち込んだのは、1895年から五一年間にわたり宗主国であった日本である。初期には抵抗もあったものの、1943年末には日本語理解者は島民の60%近くに達した。台湾島民は全島規模の言語的同化を通じて日本人化されていったが、それと同時に全島共通の「国語」は諸方言と血縁・地縁で構成されていた各種の小型共同体意識を越えた、台湾大の共同体意識を形成したのである。それは台湾ナショナリズムの萌芽であったといえよう。

 1930年代に入ると日本語読書市場が形成され始め、台湾人による日本語文学も本格化し日本語作家の作品が続々と内地の総合誌、文芸誌の誌面を飾って高い評価を受け、台湾島内でも文芸誌が盛んに刊行され始めている。楊逵(ヤン・クイ、ようき、1905〜85)はそのような作家群の中でも最初期に頭角を現し、日本プロレタリア文学と連携しながら台湾文壇のリーダーとして活躍した。

 本論文はこの楊逵に焦点を絞りつつ各種文献を渉猟するいっぽう、楊逵およびその文学形成に大きな影響を与えた日本人の遺族・関係者に膨大なインタビュー、アンケート調査を行って、全九章により日本統治下台湾における楊逵文学の形成過程解明を試みたものである。第一章では日本・台湾・中国における楊逵研究史を概観し、第二章では楊逵の生涯を九期に区分して略年譜を作成した。第三章では楊逵の公学校(台湾人向け小学校)時代の恩師沼川定雄(1898-1994)の生涯と彼が楊逵文学に及ぼした影響を考察し、第四章では楊逵の出世作「新聞配達夫」のナウカ社『文學評論』賞受賞(1934)の経緯と日本中央文壇、特にプロレタリア作家たちの「新聞配達夫」に対する評価を検討した。第五章では台湾で楊逵が主宰した文芸誌『臺灣新文學』(1935〜37)の意義と廃刊の経緯、およびその直後に再遊した東京での活動を明らかにし、第六章では30年代左翼文芸運動期の楊逵の芸術観や台湾文学観を探っている。第七章では、プロレタリア文学運動の衰退、日中戦争の勃発、楊逵夫妻の病気などのため挫折していく楊逵の文学運動を展望し、第八章ではその楊逵の窮地を救い、のちに「赤い警官」として自殺する日本人警察官入田春彦の経歴とその文芸活動、楊逵との交友の意義を解明した。第九章は総括と今後の研究展望で、最後に補論一章を付して日台プロレタリア文学史を概観した。

 本論文の主な成果は次の通りである。

(1)楊逵、沼川定雄、入田春彦らの遺族、関係者多数にインタビュー、手紙による調査を行い、教員と警官という二人の日本人が楊逵文学形成に重大な影響を与えた状況を具体的に詳細に描き出した。

(2)楊逵の東京体験、特に東京再遊体験、さらには東京文壇との関係を綿密に調査して、楊逵と東京文壇との関わりを十分に明らかにした。

(3)楊逵を中心として台湾プロレタリア文学の誕生から衰退までを解明した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は楊逵の主な文学運動の場であった台中の田中保男ら日本人文化人との関係にまでは論が及んでいない。また楊逵の作品を巡る分析が欠乏しており、日台プロレタリア文学の歴史とその影響関係の検証が十分になされてはいない。しかしこれまでの楊逵研究がややもすれば日本帝国主義の圧迫に対する抵抗という些か単純な図式に傾いていたのに対し、植民地支配の根幹を支えていた教師と警察官という帝国の先兵が台湾人プロレタリア作家の出現を助けたという点を明らかにし、帝国主義支配下における台湾ナショナリズムの萌芽という弁証法的ダイナミズムを指摘した点を中心に顕著な成果をあげており、その内容は博士(文学)論文として十分な水準に達しているとの結論を得た。

 特に1937年に肺結核罹患と極度の困窮の中、20円の借金のために米屋から裁判所に訴えられた楊逵に月給二か月分相当の100円を与えて彼の危機を救った警察官入田春彦が実は政治的転向者であり、翌年入田の自殺後に無二の親友たる楊逵に残された蔵書の中の改造杜版『大魯迅全集』全7巻が楊逢を魯迅文学受容へと導いたという指摘には、深い感慨を禁じ得ない。

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