学位論文要旨



No 115576
著者(漢字) 李,胜天
著者(英字) LI,SHENGTIAN
著者(カナ) リ,ショウテン
標題(和) 高Ca2+/低Mg2+灌流液により形成されるラット海馬CA1錐体細胞の長期抑圧現象
標題(洋) High Ca2+/Low Mg2+ Solutiopn Induces Long-Term Depression in Rat CA1 Pyramidal Neurons
報告番号 115576
報告番号 甲15576
学位授与日 2000.06.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1674号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 官下,保司
 東京大学 教授 清水,孝雄
 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 教授 井原,康夫
 東京大学 助教授 郭,伸
内容要旨 要旨を表示する

 1973年BlissとLomoにより脳の皮質でのシナプス伝達効率の長期増強現象(LTP)が報告されて以来、LTPや逆に伝達効率の下がる長期抑圧現象(LTD)などのシナプス可塑性は記憶や学習といった脳の高次機能における細胞レベルでの基礎過程と考えられてきた。LTPの誘導には入力線維への高頻度刺激(通常は100Hz、1秒間)が必要であることに対し、LTDの誘導には低頻度刺激(通常1Hz、15分間)が必要である。またLTPと同様にLTDの誘導には入力特異性という性質がある。すなわち、入力の神経線維に低頻度刺激を受けた特定のシナプスだけにLTDが誘導される。そのため、試料の量が要求される生化学、分子生物学などの手法で、LTPやLTD等のシナプス可塑性の形成に関わる物質を調べることは困難であった。

 LTPやLTDの形成には細胞内Ca2+濃度の増加が必要であると考えられている。BlissとCollingridge(1993)はLTPの誘導のメカニズムに関して次のような仮説を提唱した。高頻度刺激により大量のグルタミン酸がシナプス小胞から放出された結果、多くのα-amino-3-hydroxy-5-methyl-4-isoxazolepropionic acid (AMPA)型グルタミン酸受容体が活性化され、大量のNa+がAMPA型グルタミン酸受容体を通して細胞内に流入し、シナプス後膜が大きく脱分極する。そのため、普段Mg2+により阻害されているN-methyl-D-aspartate(NMDA)型グルタミン酸受容体がグルタミン酸により活性化され、大量のCa2+ が後シナプス内に流入し、リン酸化酵素を活性化させ、LTPを誘導する。それに対して低頻度刺激の場合には、高頻度刺激に比べて少量のCa2+が後シナプス内に流入し脱リン酸化酵素を活性化させ、LTDを誘導すると考えられている(Mulkey&Malenka,1992)。私は以上の仮説に基づいて、電気刺激なしの状態でも、細胞外灌流液のCa2+の濃度を上げることにより自発性のグルタミン酸放出を増加させ、同時に細胞外灌流液のMg2+濃度を下げてMg2+のNMDA型グルタミン酸受容体に対する阻害を解除することによってNMDA型グルタミン酸受容体を活性化すれば、その結果海馬CA1領域の広範囲のシナプスでLTDが誘導されるのではないかと考えた。

実験の材料及び方法

 生後21-25日齢のSprague-Dawleyラットから海馬スライス(厚さ500μm)を作成した。刺激電極を用いて、シェーファー側枝と交連繊維に対して20秒間隔で電気刺激を与えた。field potential recording法を用いて興奮性後シナプス電位(EPSP)を、whole-cell patch clamp recording法を用いて単一の神経細胞の興奮性後シナプス電流(EPSC)をそれぞれ記録した。

結果及び結論:

 1 細胞外灌流液のCa2+、Mg2+濃度をそれぞれ2mM、 2mMから4mM、0.1mMに変化させて高Ca2+/低Mg2+灌流液を作成し、電気刺激を与えずに20分間投与した結果、平均29%のLTDが誘導された。したがって、高Ca2+/低Mg2+灌流液の投与によりCA1領域の広範囲のシナプスでLTDが誘導されたと考えられる。

 2 細胞膜電位を-80mVに固定し、単一のCA1神経細胞の自発性whole-cell EPSCを記録した。field potential recordingとなるべく同じ条件にするため、通常自発性whole-cell EPSCを測定するときに用いられるTTX(膜電位依存性Na+チャンネルの阻害剤)とbicuculline(GABAA受容体阻害剤)を投与しない状態で、標準灌流液と高Ca2+/低Mg2+灌流液投与後の自発性EPSCを記録した。その結果、標準灌流液と比べて、高Ca2+/低Mg2+灌流液の存在下では自発性EPSCの平均振幅と出現頻度とも増加した。また、AMPA型グルタミン酸受容体の阻害剤であるCNQXとNMDA型グルタミン酸受容体の阻害剤であるD-AP5をそれぞれ20 μMと50 μM同時投与した結果、自発性whole-cell EPSCがほぼ完全に阻害された結果から、以上で観察された自発性whole-cell EPSCは自発性のグルタミン酸放出に伴うシナプス反応であることが判明し、高Ca2+/低Mg2+灌流液の投与により自発性のグルタミン酸放出が増加したことが示唆された。

 3 高Ca2+/低Mg2+灌流液の投与によりLTDを誘導してから低頻度刺激を与えてもそれ以上のLTDは誘導されず、又逆に低頻度刺激によりLTDを誘導してから高Ca2+/低Mg2+灌流液を投与してもそれ以上のLTDは誘導されなかった。以上の結果から、この二種類のLTDは少なくとも一部のメカニズムを共有していることが示唆された。

 4 高Ca2+/低Mg2+灌流液により誘導されるLTDはD-AP5(50μM)と代謝型グルタミン酸受容体の阻害剤であるMCPG(1mM)のそれぞれ単独投与では抑制されなかったが、D-AP5とMCPGの同時投与によって有意に抑制された。従って高Ca2+/低Mg2+灌流液の存在下ではNMDA型グルタミン酸受容体依存性と代謝型グルタミン酸受容体依存性の二つの経路が活性化され、いずれの経路もLTDの誘導に貢献していると考えられる。

 5 高Ca2+/低Mg2+灌流液により誘導されるLTDは、カルシニューリンの特異的阻害剤であるFK506の細胞外投与により有意に抑制されたことから、カルシニューリンの活性がこのLTDの誘導に必要であることが示唆された。又、従来の低頻度刺激により誘導されるLTDの形成にもカルシニューリンの活性が必要であることから、カルシニューリンの活性がこの二種類のLTDの共通したメカニズムであることが示唆された。

今後の展開

 高Ca2+/低Mg2+灌流液により誘導されるLTDは従来の低頻度刺激により誘導されるLTDとの間に加算性がなく、NMDA型グルタミン酸受容体依存性、代謝型グルタミン酸受容体依存性とカルシニューリン依存性などの共通した性質を持っている。また、低頻度刺激により誘導されるLTDと違い、高Ca2+/低Mg2+灌流液はCA1領域の広範囲のシナプスでLTDを誘導するため、試料の量が要求される生化学、分子生物学などの手法でLTDの形成に関わる物質を調べるのに有効であると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、神経系の可塑性として知られている海馬の長期抑圧現象(LTD)の分子機構を解明する一環として、電気刺激を用いずに、脳切片の細胞外灌流溶液のCa2+とMg2+の濃度を調整することによって、海馬CA1領域の広範囲でLTDを誘発することを可能にしたものである。主な実験結果は下記の通りである。

 1 細胞外灌流液のCa2+、Mg2+濃度をそれぞれ2mM、2mMから4mM、0.1mMに変化させて高Ca2+/低Mg2+灌流液を作成し、電気刺激を与えずに20分間投与した結果、平均29%のLTDが誘導された。したがって、高Ca2+/低Mg2+灌流液の投与によりCA1領域の広範囲のシナプスでLTDが誘導されたと考えられる。

 2 細胞膜電位を-80mVに固定し、単一のCA1神経細胞の自発性whole-cell EPSCを記録した。field potential recordingとなるべく同じ条件にするため、通常自発性 whole-cell EPSCを測定するときに用いられるTTX(膜電位依存性Na+チャンネルの阻害剤)とbicuculline(GABAA受容体阻害剤)を投与しない状態で、標準灌流液と高Ca2+/低Mg2+灌流液投与後の自発性EPSCを記録した。その結果、標準灌流液と比べて、高Ca2+/低Mg2+灌流液の存在下では自発性EPSCの平均振幅と出現頻度とも増加した。また、AMPA型グルタミン酸受容体の阻害剤であるCNQXとNMDA型グルタミン酸受容体の阻害剤であるD-AP5をそれぞれ20 μMと50 μM同時投与した結果、自発性whole-cell EPSCがほぼ完全に阻害された結果から、以上で観察された自発性whole-cell EPSCは自発性のグルタミン酸放出に伴うシナプス反応であることが判明し、高Ca2+/低Mg2+灌流液の投与により自発性のグルタミン酸放出が増加したことが示唆された。

 3 高Ca2+/低Mg2+灌流液の投与によりLTDを誘導してから低頻度刺激を与えてもそれ以上のLTDは誘導されず、又逆に低頻度刺激によりLTDを誘導してから高Ca2+/低Mg2+灌流液を投与してもそれ以上のLTDは誘導されなかった。以上の結果から、この二種類のLTDは少なくとも一部のメカニズムを共有していることが示唆された。

4 高Ca2+/低Mg2+灌流液により誘導されるLTDはD-AP5(50μM)と代謝型グルタミン酸受容体の阻害剤であるMCPG(1mM)のそれぞれ単独投与では抑制されなかったが、D-AP5とMCPGの同時投与によって有意に抑制された。従って高Ca2+/低Mg2+灌流液の存在下ではNMDA型グルタミン酸受容体依存性と代謝型グルタミン酸受容体依存性の二つの経路が活性化され、いずれの経路もLTDの誘導に貢献していると考えられる。

5 高Ca2+/低Mg2+灌流液により誘導されるLTDは、カルシニューリンの特異的阻害剤であるFK506の細胞外投与により有意に抑制されたことから、カルシニューリンの活性がこのLTDの誘導に必要であることが示唆された。又、従来の低頻度刺激により誘導されるLTDの形成にもカルシニューリンの活性が必要であることから、カルシニューリンの活性がこの二種類のLTDの共通したメカニズムであることが示唆された。

 以上、本研究はラット海馬のCA1錐体細胞において、低頻度電気刺激の代わりに高Ca2+/低Mg2+灌流溶液を20分間投与することによりCA1領域の広範囲のシナプスでLTDが誘導されることを明らかにした。これまで、生化学や分子生物学などの手法によりLTDの形成に関わる物質を解析することは困難であったが、本研究はそれらの手法による解析を可能にするために重要な方法論を提案するに至った。本研究で見出された結果はLTD形成の分子機構の解明に重要な貢献をなすものと考えられるので、学位の授与に値する。

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