学位論文要旨



No 115578
著者(漢字) 呉,暁林
著者(英字)
著者(カナ) ゴ,ギョーリン
標題(和) 三線建設の政治経済学 : 毛沢東時代の工業化戦略
標題(洋)
報告番号 115578
報告番号 甲15578
学位授与日 2000.06.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第273号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 田嶋,俊雄
 東京大学 教授 石井,明
 東京大学 教授 柳沢,悠
 帝京大学   高橋,満
内容要旨 要旨を表示する

 論文「三線建設の政治経済学-毛沢東時代の工業化戦略」は、文革期中国において採られた「三線建設」戦略を毛沢東の後期経済発展戦略の具体的展開過程とみて、その過程を、国際要因を背景として、政治的、経済的側面から全面的に分析し、いわば現代中国経済政策史の空白ともいうべき「三線建設」戦略に新しい光をあて、その現代史的意義を明かにしたものである。

 序章では、先行研究を踏まえ、問題提起と本論文の課題と方法が述べられている。そして、第1章では「歴史的源流」、第2章から第5章までが「政策決定過程」、第6章と終章では「経済実績と戦略の転換」が扱われている。

 序章では、先行研究を「三線建設を中国西南・西北地区(三線)に軍事産業を建設することを主とした、毛沢東時代の非効率・非合理な戦略の象徴と位置づけている」と総括し、近年新たに明らかになった資料をもとに、三線建設をたんに三線地区に重点的に投資された内陸重視の地域的戦略ではなく、文革期の基本経済戦略として、また同時に「後期毛沢東経済発展戦略」として「中国国民経済建設の基本路線」の具体的表れであるという論点を提示し、その解明を課題とする、としている。

 第1章「三線建設の歴史的源流」では、内陸開発の先行事例である、抗日時期から戦後期にかけての国民政府資源委員会による大後方重工業建設と、同時期の延安方式が主として取り上げられ、それが大躍進・三線建設期の毛沢東の工業化戦略に受け継がれていることを、明らかにしている。特に、国民政府資源委員会による重工業化の遺産が三線建設につながっているという位置づけは独創的なものである。

 第2章と第3章は、三線建設の政策決定と実施過程を、国際環境と国内の政治経済の両面から分析している。三線建設戦略は第3次5ヶ年計画の計画立案の段階で、毛沢東の独自の構想によって生まれたものだった。第3次5ヶ年計画の草案は、64年の早い時期に周恩来を中心に準備されたが、それは「衣・食・日用品」(農業・軽工業)を重視したものだった。毛沢東はこれに賛成せず、独自に「二つの拳、一つの腰」論を提起した。「二つの拳」とは農業と国防、「一つの腰」とは「二つの拳」を支える基礎産業であった。つまり、国民の生活向上より、内陸の資源開発と重工業建設を重視するものである。毛沢東案は当初計画立案者たちの賛成をえられず、むしろ、周恩来、国家計画委員会のペースで進んでいたが、トンキン湾事件とベトナム戦争のエスカレーションは、毛沢東の戦略構想を広く受け入れさせることになった。こうして、第3次5ヶ年計画から第4次、第5次とおよそ14年間にわたって三線建設が実施されたのである。

 三線建設は三線地域に重点的に重工業投資を集中させる内陸重視の戦略を意味するばかりでなく、毛沢東特有の経済発展戦略の形成と確立を示すものだった。とりわけ重視されているのが、毛沢東による「小計画委員会」の設立である。ここに任命されたのは、多くは大慶油田の発掘と開発に功績のあった、余秋里石油工業部長を始めとする「石油派」であった。この「石油派」の登用による国家計画委員会の再編は、三線建設が、「大躍進政策」の中でほとんど唯一といってもよい成功例で、しかも中ソ断絶による石油不足を救った「大慶油田大会戦」を受け継いだ戦略であることを示している。つまり、三線建設戦略は、後期毛沢東経済発展戦略である「大躍進政策」の精髄を受け継ぎ、新たな戦略へと発展したものである。後期毛沢東経済発展戦略が確立したといってもよい。三線建設が大躍進期の工業化戦略を再編・発展させたものであるのは、人民公杜が「整社工作」によって三級所有制に整頓され、自留地などが容認されるのに対応しているというべきである。

 第4章では、三線建設計画が、1965年から70年代末までの間にどのように変化したのかを考察している。主として、プロジェクトの選定、立地の選択、調整の過程を追跡し、実施内容を明らかにした。その特徴は以下の4点にまとめられる。(1)建設規模は巨大で、鉄道等のインフラ、電力、石炭などのエネルギー、鉄鋼、非鉄などの素材産業、機械産業、化学工業などすべての産業部門を含んでいた。(2)軍需工業は投資全体の12%で、思ったほど大きくはない。しかし、軍事関連から立案されたプロジェクトは多かった。(3)計画の策定が政治の変動に振り回され、一貫性を欠き、ひいては無駄な投資を生んだ。(4)プロジェクト全体が分散的に立地され、とりわけ軍事工業は分散していた。

 第5章では、三線建設の建設方式と実施状況を検討している。三線建設では、大慶油田開発で実行された大会戦方式が広範に応用された。大会戦という建設方式は、ヒト、モノ、カネを集中的に動員し、技術集団を中核とする大衆建設運動である。三線建設では、大会戦の経験をさらに発展させ、自力更生、軍隊式の管理運営方法を優先させ、中央から地方まで一貫した「指揮部」が設けられ、鉄道建設兵団が投入され、基本建設工程兵が創設された。

 大会戦の建設方式は技術移転、産業技術開発、工場建設に適用され、多くの工業基地を作り出した。

 文革の混乱の中でも、軍事管制化したプロジェクト現場指揮部がプロジェクトの実施を可能とした。しかし、即効性を追求するあまり、「現場設計」や「設計、施工、生産の平行作業制」などの手法が用いられ、周到な事前調査、実験が軽視され、工事の質を損なうことがしばしばあった。

 また、三線建設は全国的な、中央レベルの工業基地の建設であり、地方経済とのつながりを欠く場合が多く、例えば貴州省では「閉鎖的な、孤立した飛び地」であった。

 第6章では、工業成長の視点から三線建設の実績を分析し、その効率性について検討している。工業投資の工業総生産の比率で見た三線建設地域の資本効率は決して高いものではない。投資収益の低下は長期間続き、第4次計画期が最も悪かった。投資規模の大きいプロジェクトが多く、懐妊期間が長かったこと、立地やコストなど問題企業も多かったためであった。しかし、第5次計画期になると、資本効率が上昇に転じたことにも留意すべきである。

 三線建設の実績評価の上で、次の2点が重要である。まず、三線地域の鉄道、道路、電力、通信などの社会共通資本がかなり整備され、金属、機械、化学、軍事などの工業部門がひととおり形成されたことである。沿海地区との工業資産ストックの格差は縮小し、中国国民経済の工業体系が空間的に拡大した。次に、三線建設時期に、中国経済の蓄積率が一段と上昇し、30%を越える水準になったことである。50年代の20%台から高成長水準の30%への飛躍は、十分に注目すべきことである。しかし、この段階の発展戦略は労働力の増投と資本投資に依存し、技術革新を伴うものではなかった。したがって、三線建設の発展方式は「資本の外延的発展パターン」であった。

 終章では、これまでの考察に基づいて、三線建設を後期毛沢東経済発展戦略体系であると位置づけ、若干の展望を述べている。

 三線建設は、冷戦体制の中での一国経済建設方式であり、農業、重工業に重点を置いた発展戦略は決して非合理な面ばかりでなく、当時の中国の要素賦存状況を反映していたのである(小三線建設)。重工業建設も国際市場へのアクセスが不可能であった状況では、自力建設は必然であったろう。

 三線建設が終焉を迎えるのは、改革開放政策への移行によってであった。アジアの冷戦体制が緩和され、対外開放が進めば、一国体制を前提とする三線建設が転換されるのは、自然の成り行きである。また、1970年代末には、三線建設自体、技術革新的契機を持たず、外延的発展の限界を露呈しつつあったのである。

審査要旨 要旨を表示する

I.本論文は、三線建設の政策過程分析を基軸とし、新しい資料を可能なかぎり渉猟し、独創的な論点を展開することによって、三線建設がたんに「非効率で、不合理な軍事建設戦略」ではなく、文革期毛沢東の後期経済発展戦略の具体的形態であることを明らかにした。本論文の学術的貢献として評価しうるのは、以下の諸点である。

 1. 本論文の最も独創的な点は、毛沢東が三線建設を遂行する際に、既存の国家計画委員会を外して、「小計画委員会」を作ったことの意味を的確にとらえ、「石油派-余秋里石油工業部長-大慶油田開発方式」の関連を読み解き、大躍進政策と三線建設の関係を、いわば「正規の軌道」に乗せることができたということにある。このことによって、三線建設はたんなる三線地域の国防建設ではなく、大躍進政策の失敗と成功をふまえた、毛沢東の発展戦略の新たな展開と見ることが可能になったのである。大躍進の失敗後、都市ないし工業の調整は、再び中央集権化され、たんに旧体制に戻されたにすぎなかった。つまり、大躍進失敗後の工業面での再編は未だできていなかったのである。そこに三線建設登場の意味がある。

 2. この論理の発見と関連して、大慶油田大会戦方式を基礎として、三線建設の具体的な建設方式を提示している点も、三線建設が基本発展戦略であったことを裏付ける上で、きわめて説得的である。

 3. 三線建設の一つの歴史的源流として、国民政府資源委員会の大後方における重工業や資源探査の遺産を位置づけたのは、たいへんユニークな発想である。これまで両者の関係を指摘した研究は皆無といってよい。確かに、毛沢東が三線建設を発想してから実行に移されるまで、きわめて短時間であったのに、大規模、大量の建設に着手できたのは、それ以前の資源委員会の遺産があったからという説明は、それなりに説得力がある。

 4. 1970年前後に目立ってくる「五小工業」について、「小三線建設」との関連でその形成過程に新しい光をあてていることも、十分に評価に値する。「五小工業」は、農業機械、小型鉄鋼、小型水力発電、小型セメント、小型炭坑を意味するが、いずれも小型重工業といわれるものであり、毛沢東発展戦略で重要な位置を占めるものである。

 5. 本論文は、全体として、これまでの先行研究を大きく超える水準を達成している。これまでの研究が、多く二次資料に基づいた研究であるのに対して、本論文は、一次資料と関係者の回想録に依拠し、現在入手可能な限りの資料に基づいた、三線建設に関して最も包括的な研究であると評価することができる。

II. 本論文の問題点をあげれば、次のとおりである。

 1. 「三線建設の歴史的源流」として、国民政府資源委員会、延安モデル、東北モデル、第1次5ヶ年計画の5つが取り上げられている。資源委員会に最も多くのスペースがさかれているが、概して並列的である。三線建設との関係では、自ずから精粗があるはずである。もう少し立体的な論理構造にすべきであろう。

 2. 本論文は、三線建設が文革期の発展戦略の主流であることを主張するあまり、三線地域以外の地域(沿海、二線、辺境)と三線建設との関係についてほとんど言及がない。これは、一面で説得力を欠くきらいを残すことになった。

 3. 三線地域内の地方としては貴州省の例がとくに取り上げられているが、必然性は希薄である。最も重要な地方は四川省であることは論を待たない。

 4. 政治過程の分析が分かりにくい。むしろ時系列で叙述したほうがよかったのではないか。

 5. テクスト・クリティークを必要とする箇所が若千ある。

 6. 誤字、脱宇が散見される。

III.このように若干の問題点はあるが、いずれもその瑕疵の程度は軽微である。本論文は、きわめて独創的な論点を展開しており、先行研究を超える水準にある。

 以上の理由により、審査委員会は全員一致して、本論文が博士(学術)を授与するのにふさわしいものであると判断した。

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