学位論文要旨



No 115581
著者(漢字) 松村,尚
著者(英字)
著者(カナ) マツムラ,ヒサシ
標題(和) 液体表面の溶媒和構造とリュードベリ分子の解離反応
標題(洋) Solvation Structure on Liquid Surface and Dissociation of Molecules in Rydberg States
報告番号 115581
報告番号 甲15581
学位授与日 2000.06.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3848号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 浜口,宏夫
 東京大学 教授 永田,敬
内容要旨 要旨を表示する

I.緒言

 液相中や液体表面における分子の存在形態や反応過程を明らかにするためには、これらの分子種や反応生成物を分子レベルで観測する必要がある。分子レベルで液体表面を研究する手段として、近年液体分子線にレーザー光を照射し、生成するイオンを飛行時間質量分析法によって検出する方法が導入された。本研究では、この手法を用い、電解質溶液の溶液表面における溶質分子の溶媒和構造を明らかにすることを試みた。電解質は溶液中で電離する傾向があるが、これはイオンが溶媒和により安定化するからである。しかし、溶液表面ではイオンの溶媒和が不完全なため、イオンの安定化が抑えられ、会合平衡において大きな会合体の形成が有利になると期待される。本研究ではヨウ化ナトリウムのエタノール溶液を対象とし、溶質分子が溶液表面において会合体を形成する様子を観測した。また、液体中の反応として、アルコール溶液中における溶媒和電子の捕捉反応の存在が、アルコキシドイオンの観測によって初めて示された。

 また、液体表面や液体中における溶媒和電子とその電子状態を明らかにするために、液体分子線法と、光電子の飛行時間分析法を組み合わせた、新しい光電子分光装置を開発した。光電子スペクトルから得られる情報は、多光子イオン化法により予め液体表面の組成を調べておくことによって、より明確に解釈できると考えられる。

 一方、分子のリュードベリ状態ではリュードベリ電子とイオン核の運動の結合によってその電子状態が特徴づけられる。しかもその結合が主量子数nに依存するため、遷移強度や解離速度のn依存性から、振電相互作用の本質が明らかにされると期待される。本研究では、二硫化炭素(CS2)について、親分子と解離生成した硫黄原子のそれぞれを検出し、リュードベリ状態の励起スペクトルを測定することによって、解離反応を追跡した。またスペクトルに現れる回転構造を、多チャネル量子欠損理論によって検討した。

II.アルコール溶液表面における準安定化学種の検出および解離反応過程

 NaIのエタノール溶液(0.5M)を直径20μmの小孔から噴出させ、波長220nmの紫外レーザー光を照射したところ、図1に示すクラスターイオンの質量スペクトルを得た。クーロン放出により真空中に生じたイオンとしてNa+(EtOH)m(m=0-3)、Na+(NaI)n(n=1-7)、およびNa+(NaI)n(NaOEt)k(k=1,2)が観測された。Na+(EtOH)m(m=0-3)やNa+(NaI)n(n=1-7)が生成することは、溶媒和されたNa+とNaI会合体が溶液表面に存在していることを示している。アルコキシドイオンを含むクラスターの生成はKI、CaI2、MgI2などのヨウ化物塩のアルコール溶液からもみられている。波長220nmの光吸収はヨウ化物イオン(1)から溶液中へ電子脱離をもたらし、脱離した電子は溶媒和電子を生じると考えられている。アルコキシドイオンは、溶媒和電子の捕捉反応es-+ROH→RO-+H、による生成物だと考えられる

 溶液表面付近に存在する分子種の分布やその構成を決定するためには、放出されたクラスターの分布ばかりでなく、クラスターが生成する過程を明らかにする必要がある。そのために紫外レーザー強度や溶質濃度を変えたときのNa+(EtOH)mクラスター強度分布の変化を調べた。紫外レーザー強度を変えたときの、Na+(EtOH)m(m=0-4)クラスターイオンの分布の変化を図2に示す。レーザー強度の増加とともに、全クラスター強度が増加するだけでなく、分布が溶媒和数mの少ない方へ移ることがわかる。

 検出されるクラスターの最大溶媒和数がm=6であり、溶液中においてNa+の第一溶媒和殻が6個の溶媒分子の配位から成ることから、真空中に第一溶媒和殻を反映したクラスターNa+(EtOH)6がまず生成し、これがEtOH分子をいくつか蒸発させ内部エネルギーを解放した後、観測されるようなクラスター分布を実現すると考えることができる。この内部エネルギーは、発色団であるIがレーザー光により励起された後、溶媒和電子の生成と消滅を伴う過程によってもたらされると考えられる。したがって、レーザー強度が増加すると、Iの励起頻度が増加し、発生期のクラスターNa+(EtOH)6の内部エネルギーが増え、その結果EtOH分子の蒸発が盛んになる。

 一方NaIの濃度を増加させると、Na+(EtOH)mクラスターについては全クラスター強度が増加し、クラスター分布が溶媒和数mの少ないクラスターへ移る(図3(a))。このことはNal濃度の増加に伴いIが増加し、発生期のNa+(EtOH)6の内部エネルギーが増加したためと考えられる。実際、発生期のクラスターの内部エネルギーを見積もると、内部エネルギーがレーザー強度やNaI濃度に比例して増加する傾向が確認された。

 Na+に対する(NaI)の結合エネルギーはEtOH分子より二倍程度大きいため、(NaI)の蒸発はほとんど起こらず、観測されるNa+(NaI)n(EtOH)mクラスターは溶液表面におけるNaI会合体のサイズを反映すると考えられる。図3(b)に示すようにNa+(NaI)nクラスターの強度分布はNaI濃度が増加してもほとんど変化しない。このことは溶液表面における(NaI)nのサイズはNaIの濃度にほとんどよらないことを示している。

III.液体表面分子の光電子分光装置の開発

 液体表面分子や溶媒和電子の電子構造を調べることを目的とし、液体表面から放出される光電子を測定するための光電子分光装置を開発した(図4)。残留気体による光電子の散乱を防ぐために、液体試料を3気圧程度に加圧し、直径20μmの小孔から連続液体流として真空中に導入し、真空槽の圧力を5×10-6Torr以下に抑えた。光電子スペクトルの解釈を明確にするためには、一光子でイオン化する必要がある。そのため、XeとKrの混合気体に355nmのナノ秒レーザー光を導入し、第三高調波である波長118nmの真空紫外パルス光を発生させ、液体分子線に照射した。放出された光電子の運動エネルギーを飛行時間型エネルギー分析器を用いて分析し、光電子スペクトルを得た。なお、飛行管内部は差動排気により2×10-7Torr以下に保持した。

 装置の特性を調べるため、エタノールを試料に用い、光電子スペクトルを測定した。光電子スペクトルには、約9〜10eVの結合エネルギーの領域に幅の広い構造が現われた。この構造は、気相エタノール分子の光電子スペクトルの対応する構造よりも1eV程度低エネルギーにシフトした。これは、周囲の液体分子によりエタノール分子イオンが安定化したためである。この様に、この装置を用いて液体表面分子の光電子分光が可能であることが確認された。

IV.CS2分子リュードベリ状態の解離経路と回転構造

 CS2分子のリュードベリ状態はイオン核由来のスピン軌道相互作用により一重項状態と三重項状態が強く混ざりあっているため、解離反応

CS2(4Pσ1Πu,3Πu) → CS(X1Σ+)+S(1D2,3PJ)

においてはスピン許容な経路とスピン禁制な経路の双方を経て解離が進行すると期待される。本研究では、解離フラグメントの硫黄原子についてS(1D2)とS(3P2)を状態選別しながら検出し、CS2の4Pσリュードベリ状態の励起スペクトルを初めて測定した。

 超音速分子線中で冷却したCS2の4Pσリュードベリ状態の励起スペクトルを図5に示す。励起に用いた真空紫外光は、Xe気体を非線形媒質とした二光子共鳴差周波四波混合法により発生させた。また、生成したイオンは飛行時間型質量分析計によって質量選別ののち検出した。

 図5(a)は親分子イオンであるCS2+イオンを(1+1')REMPI法で検出した場合、図5(b)、(c)は解離生成物であるS(1D2)とS(3P2)を2光子共鳴3光子イオン化によって検出した場合に得られるスペクトルである。図5(b)、(c)から、全ての振電準位において、スピン許容な経路とスピン禁制な経路の双方を経て解離が進行することがわかる。

 バンドA(62 808cm-1)はS(3P2)の分岐比が大きく、従来の三重項状態への帰属(4Pσ3IIu220/110)を支持している。また、バンドBは周囲の振電バンドに比べバンド幅が狭く解離が遅い。これはCS2+イオンを検出するとバンドB強められることに反映されている(図5(a))。さらにバンドBのみが低波数側に裾をひいた非対称な形状を示し、このバンドが特異な存在であることがわかる。

 次に、CS2リュードベリ状態の回転構造を多チャネル量子欠損理論により計算し、それから予測される回転包絡線を推定した。主量子数の異なる3つのCS2のリュードベリ状態についての計算結果を図6(a)-(c)に示す。nが増すにつれ、回転包絡線が対称形から非対称形へと変化している。この変化は、nが増すにつれ、リュードベリ電子とイオン核の角運動量の結合が弱くなり、リュードベリ状態の回転構造にイオン核の回転構造が強く反映されるようになるためである。この様に、光励起後のリュードベリ電子のダイナミクスが、回転スペクトルに反映されることが示された。

図1:NaIのエタノール溶液(0.5M)からの質量スペクトル

図2:Na+(EtOH)m(m=0-4)のレーザー強度依存性

図3:クラスターサイズのNaI濃度依存性 (a) (b)

図4:液体表面分子の光電子分光装置の概略図

図5:CS励起スペクトル (a)CS2+イオンモニター (b)S(1D2)モニター (c)S(3P2)モニター

図6:回転構造の計算結果 (a)4Pσ1IIu準位 (b)[1/2]10Pσ準位 (c)[1/2]15Pσ準位

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は6章からなり、第1章は序章、第2〜3章は「アルコール溶液表面における準安定化学種の検出および解離反応過程」、第4章は「液体表面分子の光電子分光装置の開発」、第5〜6章は「CS2分子リュードベリ状態の解離経路と回転構造」について述べている。

 まず、第1章では、分子レベルで液体表面を研究する手段として、液体分子線にレーザー光を照射し、生成するイオンを飛行時間質量分析法によって検出する手法を用い、電解質溶液の溶液表面における溶質分子の溶媒和構造を明らかにすることを試みたという研究手法の概要を述べている。また、分子のリュードベリ状態の研究について述べている。

 第2〜3章では、液体分子線法とレーザイオン化法を組み合わせるという新しい手法によって、溶液表面付近の構造を推定することができることを報告している。そして、溶液表面付近に存在する分子種の分布やその構成を決定するためには、放出されたクラスターの分布ばかりでなく、クラスターが生成する過程を明らかにする必要があり、そのために紫外レーザー強度や溶質濃度を変えたときのNa+(EtOH)mクラスター強度分布の変化を調べている。レーザー強度の増加とともに、全クラスター強度が増加するだけでなく、分布が溶媒和数の少ない方へ移ることがわかり、一方、NaIの濃度を増加させると、Na+(EtOH)mクラスターについては全クラスター強度が増加し、クラスター分布が溶媒和数mの少ないクラスターへ移ることを考察している。実際、発生期のクラスターの内部エネルギーを見積もると、内部エネルギーがレーザー強度やNaI濃度に比例して増加する傾向が確認されている。また、Na+(NaI)nクラスターの強度分布はNaI濃度が増加してもほとんど変化しないことを示し、溶液表面における(NaI)nのサイズはNaIの濃度にほとんどよらないことを述べている。

 また、第4章では、液体表面分子や溶媒和電子の電子構造を調べることを目的とし、液体表面から放出される光電子を測定するための光電子分光装置を開発している。この装置の特性を調べるため、エタノールを試料に用い、光電子スペクトルを測定した結果、この装置を用いて液体表面分子の光電子分光が可能であることを確認している。

 第5〜6章では、CS2分子リュードベリ状態の解離経路と回転構造について述べている。まず、解離フラグメントの硫黄原子についてS(1D2)とS(3P2)を状態選別しながら検出し、CS2の4pσリュードベリ状態の励起スペクトルを初めて測定している。その結果、全ての振電準位において、スピン許容な経路とスピン禁制な経路の双方を経て解離が進行することを解明している。

 次に、CS2リュードベリ状態の回転構造を多チャネル量子欠損理論により計算し、それから予測される回転包絡線を計算している。

 以上、論文提出者の液体表面の溶媒和構造とリュードベリ分子の解離反応に関する研究は、独創性が高いものと認められる。なお、本論文第2章、第3章、および第4章は、近藤保、真船文隆との共同研究、第5章および第6章は、山内薫、菱川明栄との共同研究によるものであるが、いずれの場合にも、論文提出者が主体となって実験および解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、審査委員会は、論文提出者松村尚に博士(理学)を授与できると認める。

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