学位論文要旨



No 115583
著者(漢字) 古市,大輔
著者(英字)
著者(カナ) フルイチ,ダイスケ
標題(和) 中国東北の地域形成と清朝行政 : 18-19世紀盛京における採買・倉儲政策と官僚制
標題(洋)
報告番号 115583
報告番号 甲15583
学位授与日 2000.07.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第289号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 教授 濱下,武志
 東京大学 教授 宮嶌,博史
 東京大学 助教授 黒田,明伸
 一橋大学 教授 江夏,由樹
内容要旨 要旨を表示する

 本稿で議論する課題の第一は東北地域という地域概念の形成過程である。具體的に言えば,歴史的にみて東北地域という概念は何を意味するのか,そして,どのように形成されてきたのかという問題を指すものである。第二の課題は,清代と近現代を切り離さず連續的に論じることにより,長いタイムスパンのなかでの東北地域の形成過程をとらえることである。第三の問題は,東北地域内のさまざまな主體が一方で大規模經濟圏との結合を求め,他方で東北地域獨自の自立的經濟圏の形成を模索しながら,地域意識が形成されてゆくという,この過程をとらえることである。本稿は第I部と第II部の二部構成となっている。第I部では,18-19世紀の米穀流通問題,清朝の米穀流通政策と盛京(奉天)[以下,盛京]による對應などを考察對象とした。清朝の米穀流通政策に對する盛京での對應のありかたを考察した部分である。また,本稿第II部ではこの盛京という領域における行政曲基本構造に注目した。具體的には,官僚人事面からみた盛京行政のありかたや光緒初年に断行された盛京行政改革について考察した部分である。

 第I部と第II部で論じた歴史過程と歴史的意義とには至極共通する特徴が確認できた。いずれも盛京における行政面での「地域」[以下,括弧を外す]形成を促進した側面を有していたことである。兩者に共通してみられた盛京における行政面での地域形成過程は以下の三點から説明することができる。第一に,18-19世紀における盛京行政の行政面での地域形成過程は,19世紀における當該領域の經濟の地域分業的なありかたと深い關わりがあった。盛京は,經濟的には中國内地との流通關係を擴大し,地域的分業體制に参加した。しかし一方では,中國内地各省との相對的行政關係を構築し,いわば「盛京將軍を中心とする合理的,一元的な行政」を形成したのである。第二に,しかし盛京では‘地方分權化’に不可缺な「地方備蓄」が缺如しており,19世紀後半の盛京における‘地方分權化’が確認できない。つまり,盛京における行政面での地域形成過程は‘地方分權化’や‘自立化’を伴うことのない過程であった。第三に,18-19世紀における盛京行政はいわば「北京政治の言いなり」という地位に置かれていた。こうした盛京行政のありかたは19世紀前半に至っても變化することはなかった。盛京における19世紀前半という時期は,北京による政治的強制や政治的介入がさらに強められた時期であり,それを受ける盛京側でも依然として受諾するだけの位置に置かれていたわけである。こうした「北京政治」の影響から盛京行政が脱却する時期が19世紀後半であった。19世紀後半における盛京行政の變容過程は,盛京五部勢力の衰退過程であり,盛京における京師勢力の相對的後退という過程であり,また「北京政治」からの別離過程であった。ただ,行政面での地域形成を達成しつつある盛京は,巨大な政治勢力・北京という影を拂拭しなければならなかったが,盛京が北京のお膝元という地理的位置に置かれていたため,北京を完全に相對化することも不可能であった。北京と盛京との兩者關係は,一面では「省間關係」であり,一面では「中央・地方關係」と位置づけられる關係であり,この二つの關係が同じ局面で表現された。盛京では他省では問題とならないような北京との「省間關係」があったため,非對等關係や「言いなり状態」をまず問題視しそれを解決しなければならないという,他省に比べて段階の一つ多い過程を歩まざるを得なかった。よって,19世紀後半の盛京における‘地方分權’過程は北京からの脱却過程に集中せざるを得なかった過程であるといえるのである。

 清代における中國東北の形成過程に關し,これまでの研究成果での把握のありかたは‘中國内地への一體化’という方向に集中してきた。しかし,本稿での考察とその考察から得られた結論からは,むしろその方向性とは逆の過程を歩んでいたことが確認できる。盛京は清朝の直轄地たる「省」以上に北京の「直轄地」であり,18-19世紀の盛京はそうした「直轄地」としての地位から清朝の直轄地たる「省」への道程を歩んでいた。盛京はもともと清朝の各省よりもさらに清朝中央の近くに位置しており,盛京における18-19世紀の歴史過程とはその中心からの離脱努力の過程であった。そして,19世紀後半の盛京では清朝の直轄地たる「省」的な性格に變容するばかりか,‘地方分權化’や分業體制の必要性も一擧に到來しており,盛京ではこの過程を數十年の間に經験しなければならなかったわけである。つまり,北京の影響に引きずられたまま‘地方分權’的な整備を目指す方向に進まざるを得なかったわけである。北京の影響に引きずられながらの‘地方分權化’指向という獨特のこの過程こそが清代における中國東北の地域形成過程であったといえる。

審査要旨 要旨を表示する

 現在の遼寧・吉林・黒龍江三省の領域を「中国東北」という一つの「地域」と見なす観念は、どのような歴史的過程を経て形成されたのか。本論文は、このような問題関心から、清代後期(18〜19世紀)の盛京(奉天)における米穀流通と官僚制の変化を詳細に検討し、「東北地域」という観念の形成過程を明らかにしようとしている。

 第一部では、清朝による採買・倉儲(官による穀物の買い上げと備蓄)制度の変遷を扱い、18世紀の穀物採買制度を機として奉天一内地間の商業的穀物流通が促進されたこと、その後19世紀に、財政的見地から北京への穀物輸送を命ずる清朝中央の要求に対して奉天官僚が抵抗するなかから食糧政策における奉天行政の「自主性」が形成されていったこと、を論ずる。第二部では、同時期の盛京における官僚制の変化を、制度上の機構改革のみでなく具体的な官僚の昇進パターンの検討を通じて考察し、清朝中期にはいずれも北京中央官僚の昇進コースに組み込まれていた盛京の複雑な官制が、19世紀後半の土匪討伐・財政再建の課題のなかで改革され、盛京将軍への権力集中、地方官の経験をもつ実務派官僚の登用、という形で北京の影響からの脱却が図られること、を解明している。作者によれば、この時期の奉天(盛京)が北京との経済上・行政上の特殊な強い結びつきから脱却してゆこうとする過程は、内地他省と同等化する「内地化」の過程であるとともに、中央の支配から自立する「分権化」の過程でもあった、という。

 本論文は、大量の公文書の分析に基づいて多くの新事実を実証的に解明した労作であり、特に、従来の研究の空白部分であった19世紀の奉天の支配体制の変化を跡づけた意義は大きい。問題関心の大きさに比して史料的な限界から推測に止まる部分も見られ、特に東北内の奉天以外の地域や官僚層以外の動向、さらに中国全般の変化との関係については十分に論じられているとはいえない。しかし、それらは今後の更なる考察の課題となすべきものであり、博士(文学)論文として十分な水準に達したものと認めることができる。

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