学位論文要旨



No 115590
著者(漢字) 南,基正
著者(英字)
著者(カナ) ナム,キジョン
標題(和) 朝鮮戦争と日本 : 「基地国家」における戦争と平和
標題(洋)
報告番号 115590
報告番号 甲15590
学位授与日 2000.07.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第274号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石井,明
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 助教授 加藤,淳子
 東京大学 助教授 木宮,正史
 東京大学 名誉教授 和田,春樹
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は、戦後日本の国家のあり方を「基地国家」と捉え、その誕生を朝鮮戦争の関わりのなかで見いだそうとする試みであると同時に、戦後日本国家を「平和国家」と捉える見方の不完全さを補正しようとする努力である。日本型外交の核心に「平和国家」を国是として据えようとする日本の多くの論者の見方は、日本国内においてこそその定着をみていたとしても、アジアの諸国はもちろんアメリカのような同盟国を含め、外国からは十分な理解が得られたとはいえない。外国からしばしば指摘される、戦後日本の対外政策の曖昧さは、アメリカと同盟関係を結んでいるにもかかわらず、軍事的な手段が「平和国家」という方針に抵触することから生じた安全保障上の特有のディレンマによるものである。問題はここでいう「平和国家」という言葉が、「現実を律する理念」として信奉されたというよりも、一方ではナショナル・アイデンティティを表現する体制イデオロギーと化して「現実を覆い隠すための理念」となり、他方では「現実を否定するための理念」になっていたということである。その現実とは何か。それが「基地国家」であった。「平和国家」はもちろん「武装国家」「国防国家」「兵営国家」ではなく、これらの対概念として用いられ概念化されたものではあったが、「基地国家」という現実とは平行していたのである。

 本稿では「基地国家」を「国防の兵力としての軍隊をもたず、同盟国の安全保障上の要の位置で基地の役割に徹することで集団安全保障の義務を果たし、これによって安全保障の問題を解消する国家」と定義する。そして、この言葉は、「世界戦争の時代」であった20世紀を生きる上で他の国々が選択した生き方と区別される、日本だけの独特の生き方を表現する特殊概念である。では、この「基地国家」はいつ誕生し、どのような運営をしてきたのか。本稿はこのような問題意識のもと、日本と朝鮮戦争との独特の関わり方についての考察からはじめる。その際、いくつかの関連研究の成果にもかかわらず、次のような残された問題を念頭に置いた。まず、朝鮮戦争と関わりを持つことによって強いられた日本国家の現状-すなわち「基地化」の現状分析である。第二に、「基地化」のなかで展開された日本共産党の運動の分析において、在日朝鮮人運動の分析の弱さである。第三に、戦後平和主義批判と関連し、この時期形成された日本国家のイデオロギー分析である。

 以上の問題意識に対応し、本稿は、それぞれ独立した三つのテーマから成り立っている。それは、第一に、日本国家の現実としての「基地国家」の誕生、第二に、「基地国家」解体を試みた左右二つの方向からの働き、第三に、「基地国家」の現実に対する「平和国家」理念の創出、である。

 第一の問題と関連しては、まず、朝鮮戦争勃発とともに「戦闘基地」および「生産基地」として急速に姿を変えていく日本の実状を実証的に描きだすことに重点をおき分析をすすめ、そのうえで、「基地国家」と化した日本の国連協力・戦争協力の具体的内容とその意味について考察した。資料としては各地方自治体および各種団体の公刊歴史記録と日本外務省第10回公開分の資料が重要である。

 第二の問題と関連しては、「基地国家」化に反発し、これを解体しようとすることを目標に動いていた二つの社会勢力に焦点を合わせて分析した。前半においては、朝鮮戦争勃発で活発化した元右翼と旧軍人たちの動きを「国防国家」の再建動きとして注目し、後半の日本共産党の武装闘争とこれに呼応した在日朝鮮人運動の「基地国家」解体努力と対比させてその意味を把握した。こうした動きに注目し展開を把握することは、逆説的にも、当時進行していた「基地国家」化の現状をはっきりと映し出す契機になる。ここでは運動を取り締まる側であるGHQ文書と運動を展開した日本共産党および在日朝鮮人側の資料が重要である。

 第三の問題と関連しては、現実としての「基地国家」を理念の面で支えた「平和国家」のイメージを初期の「戦後平和主義」の展開のなかで抽出してみようと試みた。とくに、「戦後平和主義」の立場で「基地国家」の現状はどう受け止められ、どのように把握されたのかに関心を持って分析を進めた。また、こうした知識人のイデオロギー創出努力にたいし、一般国民の態度についても分析した。とくに『世界』を含め当時のいわゆる大衆啓蒙雑誌の論文、そして『世界』の創刊40周年記念臨時増刊『戦後平和論の源流』(1985年)が重要なテキストであり、新聞論調と世論を追跡する上では、1949年から1953年までの『朝日新聞』、『読売新聞』、『毎日新聞』の社説および世論調査を分析した。

 以上の分析の結果として、次の三点が上げられる。

 まず第一に、日本は「基地画家」として朝鮮戦争を戦った。日本はアメリカの戦争戦略上の純軍事的な観点から見て、朝鮮戦争の全期間、後方基地、中継基地、そして一部、後方戦闘区域での前進基地の役割を担う「戦闘基地」であり、また物資補給のための「生産基地」であった。こうして戦争遂行のための基地と化した体制を維持し、その方法として「全土基地方式」が採用されたことによって日本は「基地国家」として国際社会に復帰することになる。朝鮮戦争における日本の戦争協力の具体的事例は、「基地国家」の国連協力の可能性と限界を規定しており、戦争協力の新しいあり方を理解する上で重要な先例である。日本は戦線における戦闘行為を除いて、後方支援のあらゆる場面で協力をしていた。こうした日本政府の国連協力方針は短期的には早期講和の実現を目指したものであったが、最終的には、様々な国際問題、特に、停戦以後の朝鮮問題への積極的な参加と発言力の獲得のための実績作りという長期目標にそったものであった。

 第二に、「基地国家」の解体を目指す運動が、「国防国家」を再建しようとする動きと「武装革命」により「基地国家」の背景となっている日米安保体制を突き崩そうとする動きの二方向で展開されたが、結果として両方とも失敗した。多くの元右翼・軍人は朝鮮戦争の勃発を大日本帝国復活への好機として捉えていた。彼らは政治勢力化を試み、「基地国家」を解体し正式の軍隊を有する「国防国家」を創出する方向への変化を促す世論を作りだそうと動き出した。一方、日本共産党は軍事方針を採用し、これに呼応した在日朝鮮人たちは積極的に運動を展開した。その行動の評価については、朝鮮人排斥と朝鮮人無視の両端の陥穽に落とされることなく、朝鮮人の果たした戦後日本政治史における積極的役割を評価することが切実に求められているが、その際には当時彼らのおかれた境遇と存在理由を併せて考慮しようとする観点が必要である。いずれにせよ、こうした「基地国家」解体の努力は失敗した。それは第三の結論と関係する。

 第三に、「戦後平和主義」のイデオロギーは「平和国家」という仮想の現実を創り出すことによって「基地国家」の運用を牽制した。「戦後平和主義」は、丸山真男という「司祭」の力によって、平和問題談話会という「聖職者集団」をとりまとめる聖典となり、ひいて安全保障と憲法第9条のあいだの解釈の基準と化して「神学」の領域にまで引きあげられた。平和問題談話会は「身に寸鉄を帯びずして剣戟の林の中に進んで行く」という絶対平和主義の思想を採択し、これを日本の戦後平和主義の根幹とする立場となった。しかし、朝鮮戦争が勃発したあとで発表された平和問題談話会の第三声明「三たび平和について」では基地化の問題は具体性をもった問題として扱われておらず、通り過ぎてしまっている。戦後平和主義が現実的代案を提示することができない最大綱領主義のユートピア的平和主義と批判される所以である。しかし、その批判は、状況論理であった第三声明の平和主義を普遍的に適用可能な平和主義と解釈し、ドグマ化を進めてきたその後の平和運動の側に向けられなければならない。一方、朝鮮戦争開戦早々、日本の各新聞は社説などを通じて日本国民に「避戦」の態度を呼びかけた。また、朝鮮戦争の時期に行われた世論調査にみるかぎり、多くの国民は「国防国家」も「武装闘争」も拒否し、「基地国家」を現実として容認していた。

 さて、朝鮮戦争と日本の関わりは、総体的であり、そのすべての関わり方に対する分析の総合により、初めてその意味が具体件を帯びてくるように思われる。国際的契機が、それとかかわる一国の国内現状を一変させ、そうした傾向への反発と運動をよび、新しく形成されつつある現実を認識するための思考の枠組みを設けさせる、というのは国際関係の場でむしろ一般的な姿であろう。しかし、大概の場合、これらをお互いに関連を持たないものと暗黙の前置きをおこない、ちぎって分析するところで、現実の歪曲が起こるのである。本稿はそのような歪曲を正すために、こうしたこれまでの研究の限界を乗り越えるところで貢献しようとするものであり、日本と朝鮮戦争との関わりの「総体的な姿」を描き出すことによって、戦後日本の国家運営のキーワードとして新しく「基地国家」論を提起しようとするものである。

審査要旨 要旨を表示する

 2000年6月25日は朝鮮戦争勃発50周年にあたる。朝鮮戦争は日本にとって単なる対岸の戦争ではなかった。戦争の過程で、東側諸国を除いた主として西側諸国との間で講和条約を結んで、国際社会に復帰し、米国との間で安全保障条約を結んで、安全保障を確保し、さらに特需により経済の発展の機会をつかんだ。まさしく、朝鮮戦争は戦後改革に続いて日本の戦後のあり方を決定したのである。

 1947年5月、戦争放棄をうたった第9条を含む日本国憲法が施行された。日本は「平和国家」としての道を歩む、と宣言していた。しかし、著者は、朝鮮戦争の渦中、講和条約を締結し、国際社会に復帰した日本国家の現実を「基地国家」ととらえる。「基地国家」について、著者は次のような定義を与えている。

 「国防としての軍隊をもたず、同盟国の安全保障上の要の位置で基地の役割に徹することで集団安全保障の義務を果たし、これによって安全保障の問題を解消する国家」

 そして、この言葉が、「世界戦争の時代」であった20世紀を生きる上で他の国々が選択した生き方と区別される、日本の独特の生き方を表している、とみる。そうすると、「基地国家」であることと、「平和国家」ということはどういう関係にあるのか。著者は、基地国家であったからこそ平和国家であり得、また、平和国家でありたいということから基地国家という現実を黙認した、と考える。すなわち、両者は補完関係にあり、お互いを必要としていた、とみるのである。

 著者はこのような立場にたって、本論文で、この「基地国家」がいつ誕生し、どのような運営をしてきたのか、説明を加えようとした。

 本論文は、全5章より成っている。冒頭に略語一覧表、表・図一覧表が、末尾に参考文稿用紙に換算して、約1,200ページに相当する。

 第1章(序論)では、本論文の基本的な視点が示されている。あわせて、先行研究の検討、著者が使った資料の検討がなされている。「基地国家」という概念の検討がなされ、その対峙概念は「国防国家」になることが示され、「基地国家」について、「平和国家」にはまだなれず、「国防国家」にはもう戻れない、20世紀後半の冷戦時代に日本で誕生した特異な国家形態であると指摘している。

 ここで、本論文が3つの独立したテーマから成り立っていることが示される。第1は、日本国家の現実としての「基地国家」の誕生、第2が、「基地国家」解体を試みた左右2つの方向からの動き、第3が、「基地国家」の現実に対する「平和国家」理念の創出、である。

 第2章「朝鮮戦争の展開と日本:『基地国家』の誕生」では、戦争勃発とともに「戦闘基地」および「生産基地」として急速に姿を変えていく日本の実情を実証的に描き出している。その上で、「基地国家」と化した日本の国連協力・戦争協力の具体的内容とその意味について考察している。

 日本は朝鮮戦争期間中を通じて米国の戦争遂行のための後方基地となり、1953年1月31日現在で、実に733もの米軍基地があった。著者は地方自治体および各種団体の公刊歴史記録等を駆使して、日本全土に散らばる米軍基地が、1、出撃起点としての前進基地として、2、物資・兵士輸送の中継基地として、3、修理・調達のための補給基地として、4、訓練・休養のための後方基地としての役割を果たし、総じて、全国土がそのまま「戦闘基地」と化した、と指摘している。著者は朝鮮戦争が後方支援が決定的に重要な戦争であり、米国の公式戦史でも、「アメリカが遂行した戦争で軍需品の動員が事実上、初めて強調された戦争であった」とみなされており、「日本は後方支援の要塞」と評されていることを指摘している。また、著者は日本が「戦闘基地」であっただけでなく、「生産基地」の役割を果たしたことを「朝鮮特需」の実態を紹介しながら、指摘している。

 また、日本の戦争協力について、戦争協力の新しいあり方を理解する上で、重要な先例になった、と指摘し、海上輸送における労働者や日本赤十字看護婦の動員、「日本特別掃海艇」の朝鮮水域派遣などの事例を示して、日本が後方支援のあらゆる場面で協力をしていた事実を明らかにしている。著者はこのような日本政府の国連協力方針は、短期的には早期講和の実現を目指したものであったが、長期的には、停戦後の朝鮮問題への積極的な参加と発言力確保のための実績作りという狙いをもっていたことを指摘している。

 第3章「『国防国家』と『武装革命』論:『基地国家』解体の二方向のベクトル」では「基地国家」化に反発して、これを解体することを目標に動いている2つの社会勢力に焦点をあてて分析している。前半では、朝鮮戦争勃発で活動を活発化させた元右翼と旧軍人の動きを「国防国家」再建の動きとして注目し、後半の日本共産党系の武装闘争による「基地国家」解体の努力と対比させて、その意味を検討している。

 前者については、著者はGHQ資料および法務府特別審査局(特審局)作成の『特審月報』、『特審資料』を使って、多くの元右翼と旧軍人が朝鮮戦争の勃発を大日本帝国復活への好機ととらえ、活動を繰り広げていたことを明らかにしている。ただ、著者は旧軍人の一部には警察予備隊が正規の軍隊ではないという認識から、これに参加しようとしない意見が根強く存在していたことに注目し、そこには「基地国家」の門番にはなりたくないという自尊心と、軍隊創設に対する期待感がにじみ出ている、と指摘している。彼らは、政治勢力化を試み、「基地国家」を解体し、正式の軍隊を保有する「国防国家」を創出する方向への変化を促す世論を作りだそうとして活動を強化したのである。

 著者はまた、この時期、特審局が日本共産党と在日朝鮮人団体に対する日本政府側の取り締まりの先兵であり、職務内容においては戦前の特高を思わせるものがあった、と指摘している。

 後者については、著者は朝鮮戦争にはもともと日本をめぐる東西の力相撲として戦われたという側面があることを指摘した上で、1950年1月6日、スターリンがコミンフォルムを通じて、日本共産党の平和革命路線を批判し、積極的な反米闘争を促してきたことに注目している。スターリンは米国による日本の「基地国家」化に歯止めをかけようとして、日本共産党に対し、徹底した対米対決を求めてきた、とみるのである。

 一方、北東アジアでは1949年10月の中華人民共和国の誕生により、南北朝鮮の「分断国家」を間にして、「革命国家」(中国)と「基地国家」(日本)がにらみあう形となっていた。中国大陸を追われた中国国民党政権は台湾に落ち延びていたが、1950年1月から旧日本軍将校は、台湾に渡り、国民党の「大陸反攻」を支援しようとしていた。彼らは「白団」と呼ばれる。時を同じくして、中朝間では朝鮮籍の中国人民解放軍兵士の朝鮮派遣が協議されており、同年4月、6月、彼らは朝鮮に送られた。日本でも、在日朝鮮人はコミンフォルム批判に刺激され、革命運動の先頭に立とうとしていた。著者はこのような事実を記した上で、かつて中国大陸で戦闘を繰り広げた日中朝の兵士が、朝鮮戦争を前に、一方は日本から台湾へ、もう一方は中国から朝鮮へと渡って行き、日中戦争の構図がまた甦ろうとしていた、と指摘している。

 ここでは、コミンフォルム批判を受けた日本共産党の対応についての詳しい検討がなされ、その上で、在日本朝鮮人連盟(朝連)解散後、非合法活動を余儀なくされていた在日朝鮮人党員はおおむね日本共産党の軍事方針を歓迎した、と指摘している。彼らにとって「基地国家」日本の解体は、個人的には生存権を確保し、民族的には祖国を防衛し、階級的には日本人民を解放する唯一の確実な方法であると考えられていた、と指摘している。

 第4章「『戦後平和主義』:『基地国家』のイデオロギー構造」では、現実としての「基地国家」を理念の面で支えた「平和国家」のイメージを初期の「戦後平和主義」の展開のなかから抽出している。特に、「戦後平和主義」の立場で「基地国家」の現状がどう受け止められ、どのように把握されたかに関心をもって分析を進めている。こうした知識人のイデオロギー創出努力に対し、一般国民がどのような対応をみせたかについても分析している。

 ここでは、まず「戦後知識人」の中心に位置していた「平和問題懇談会」の果たした役割に注目している。そして、「戦後平和主義」が「平和問題懇談会」という「聖職者集団」をとりまとめる聖典となった、と指摘している。

 著者はこの「平和問題懇談会」の「第2声明」が基地反対という立場を明確に打ち出していることを重視する。そして、「第3声明」では基地化の問題を具体性をもった間題として扱っておらず、通り過ぎてしまっている、と指摘している。著者は、その上で、「第3意明」は、その後の日本の「戦後平和主義」の理念的・理論的基礎を提供したものとして、高く評価されているが、現実認識の問題で、致命的な欠陥をもっていた、と批判している。著者が問題とするのは、「2つの世界」がまだ完全に分けられていないばかりか、日本はまだ、その一方に含まれてはおらず、選択の強要を拒むことができるとする認識である。現実においては日本はすでに「2つの世界」の中の一方に「基地国家」という形で組み込まれ、戦争の1当事者になっているにもかかわらずである。著者は日本の「戦後平和主義」はその後のどこかの段階でこの「意図的な欠陥」を埋めなければならなかった、それをしないままでは日本の平和主義は、生きたままの化石となる運命を受け入れなければならないだろう、と指摘している。

 ここでは併せて、日本の各新聞が社説を通じて、「避戦」の訴えをしていたこと、世論調査の結果は「軽武装、基地提供の日米安保」の吉田政府の現実主義を支持しており、多くの国民は「国防国家」も「武装闘争」も拒否し、「基地国家」の現実を容認していた、と指摘している。

 第5章「結論」では、これまでの論点を整理して、総括をしている。

 本論文の趣旨は、朝鮮戦争と日本の関わりについて総体的に捉えようとするものであった。伝統的な意味での外交史、国際関係史、政治史、思想史といった単一のスタイルで、全編通して書かれているわけではない。著者は様々な朝鮮戦争と日本の関わり方についてこうした複数のスタイルを駆使して、分析を加えようと企図した。この論文は、朝鮮戦争と日本の関わりについての全体像を浮かび上がらせることに成功しており、国際的契機が、日本の国内現状を一変させ、反発と運動を呼び、さらに新しく形成されつつある現実を認識するための思考の枠組みを設けさせたことを的確に論証している。

 朝鮮戦争と日本の関わり方については個別の問題を扱った事例研究はあるが、その全体像を描ききった研究はこれまで存在せず、本論文は高く評価できる。広い視座から検討を加えているのも論文の質を高めた要因となっている。

 本論文が、日本の外交文書、GHQ資料、特審局文書等の数多くの第1次資料を駆使して、多くの新事実を発掘していることも指摘しておかねばならない、さらに和田春樹、五十嵐武士、ブルース・カミングス、山崎静雄らの先行業績も批判的に吸収して、多くの新知見を導き出しており、朝鮮戦争史研究、戦後日本研究の分野で新たな地平を切り開いたと評しうるであろう。日本が「基地国家」であったからこそ、「平和国家」であり得たとみなす等の論理展開は極めて緻密であり、文章も明晰である。

 しかし、本論文にも不十分な点がないわけではない。朝鮮戦争と日本の関わりについて様々な角度から検討を加えようとした趣旨は理解できるが、各章毎の独立性が高くなっており、論文全体としての纏まりがややみえにくくなっているきらいがある。

 また、一部の資料の読み方について問題の残る箇所がある。例えば、「平和問題懇談会」の「第3声明」について、朝鮮戦争の現実に直接言及していないからといって、リアリティがないと評するのはやや短絡的すぎる、という見方もありうる。

 しかし、このような間題点は本論文の基本的価値を損なうものではない。総じて本論文は朝鮮戦争史研究、戦後日本研究の分野で、卓越した貢献をしており、博士(学術)の学位を授与するのに十分な業績である、と認められる。

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