学位論文要旨



No 115600
著者(漢字) 孫,于正
著者(英字)
著者(カナ) ソン,ウチョン
標題(和) 大韓帝国における中等学校教育課程の形成 : 統監政治期の「模範教育」による統合を中心に
標題(洋)
報告番号 115600
報告番号 甲15600
学位授与日 2000.09.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第70号
研究科 教育学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,学
 東京大学 教授 土方,苑子
 東京大学 教授 佐藤,一子
 東京大学 助教授 広田,照幸
 東京大学 助教授 志水,宏吉
 神奈川大学外国語学部 教授 尹,健次
内容要旨 要旨を表示する

 本研究の主題は、19世紀末の韓国において成立した多様な中等教育における教育課程が、統監政治期(1906年〜1910年)の「模範教育」政策によって統合されていく過程を描き出すことを通して、中等教育の基本的な性格がどのように変貌させられたか、またその変貌がどのような意味を持っていたかを検討することにある。

 「模範教育」とは、統監政治期の教育を称する言葉であり、統監府の業務開始(1906年2月)より日韓併合後の第1次朝鮮教育令の施行(1911年11月)までの約5年間、韓国学部の実権を握っていた日本人官吏によって推進された近代教育である。「模範教育」は、統監政治期における韓国の近代教育の形成過程を象徴する言葉である。

 この主題を追究するにあたり、本研究では次の三つの課題を設定した。

 第1は、統監政治期以前の中等教育の諸相を教育課程の特徴に即して明らかにすることである。統監政治期以前の大韓帝国の中等教育では、一種類の官立中学校と三種類の私立学校(ミッションスクール、「日語学校」、民族系私立学校)が、それぞれ独自の教育課程を組織していた。統監政治期以前の多様な中等教育の様相を明らかにするのが、第1の課題である。

 第2は、統監政治期の「模範教育」に焦点をあて、中等教育の教育課程の変貌を明らかにすることである。「模範教育」とは、第1の課題において設定した「韓国政府系」「欧米型」「日本型」「民族系」の四つの中等教育様式を「模範」によって統合する政策であり、またその統合を正当化する概念であった。本研究では、その「模範」の構成原理を教育課程の類型とその具体的な変化を分析することによって解明した。

 第3は、統監政治期における「模範教育」による中等教育の変貌の意味を教育課程の変化に即して分析し、近代韓国の中等学校教育課程の歴史的性格を解明することを課題とした。

 これまで、韓国の教育課程史研究では、政府によって定められた官制や規則を中心とする制度史中心の教育課程研究(劉奉鎬)と近代学校の設立を中心とする学校史研究(韓国教育開発院)が主流をなしてきた。そして、その対象は、初等教育が焦点化され、中等学校教育課程の成立や変化に関しては検討が不十分である。さらに、韓国では、統監政治期を植民地期に含め、植民地教育政策の一部として扱うことによって、統監政治期の教育それ自体が持っている構造や特徴については充分に分析していないものが多い。一方、日本の研究は、統監政治期の教育政策が、日韓併合後の政策に連続的に接続しうる体制を形成し、植民地教育政策の原型を形成していたことを前提として、統監政治期の固有の特徴を明らかにしてきた。しかし、研究の関心が教育思想史(尹健次)や教育政策史(駒込武)、そして「日語学校」のような特定の学校(渡部学・稲葉継雄)に焦点化され、その思想や政策が学校教育にどのように反映、展開されたかについては具体的に明らかにしていない。また、韓国中等学校教育課程をどのように変貌させたか、その変貌によって中等学校教育課程の性格がどのように特徴づけられたかに関しては、問われていない。

 本研究は、統監政治期と植民地期を分けてとらえると同時に、統監政治期の「模範教育」による統合過程に着目して、中等学校教育課程の変遷を検討する。

 第1部第1章では、大韓帝国の「官立漢城中学校」を対象として、韓国政府系の中等教育の展開過程と中学校教育課程の運営の実態を光武改革との関わりに着目して検討した。

 韓国政府の最初の中等教育機関である「官立漢城中学校」は、「朝鮮」が「大韓帝国」を宣言し、産業振興を国家の重要改革政策とかかげた「光武改革期」(1897年〜1907年)の1900年に創設された。

 「官立漢城中学校」の高等科の教育課程には「工業、農業、商業、医学、測量」など、産業振興政策に合わせた実業科目が並んでいた。また、「官立漢城中学校」は、創設の当時に「日語」であった外国語を「英語」に変更するが、その変更も、光武改革の中心勢力が親日派から新露守旧派に変わったこと及び当時の改革の利権がアメリカに多く譲られていたことによる。

 第2章では、欧米型教育における中等教育課程を、アメリカ人宣教師によって設立されたミッションスクールを対象として分析した。宣教師は、韓国政府の近代教育の推進過程において重要な英語教育と、それを教える教師を提供することを条件として、韓国政府より「教育事業」の許可を得ていた。一方、一般民衆は、開港後、英語の解読を新たな身分上昇の手段と見なしており、宣教師が民心をつかむ最大の手段もまた英語教育であった。しかし、ミッションスクールの英語教育は、宣教のための学校事業を運営する手段であり、一般教養教育の実施よりむしろ、韓国人の宗教指導者の養成を意図していた。

 第3章は、日本型教育における中等教育を、日本の民間団体や宗教団体及び民間人によって設立された「日語学校」を対象として分析した。「日語学校」は、1894年岡倉由三郎によって提案された「朝鮮国民教育新案」によって、その端緒が開かれた。岡倉は、「朝鮮国民教育新案」の中で、「日本語を外国語とし・・・我国の高等小学と中学との間に位すべき簡易なる官立中学校にして、最も速成を旨」とすると述べている。この構想は、京城学堂を設立した「大日本海外教育会」の本多庸一の「朝鮮教育論」における同校の位置づけとほぼ同じである。「日語学校」は、日本語の普及だけを目的とする学校ではなく、日本型教育を移植する学校であった。教育課程においては、「実業」と「日語」が重視され、日本の経済活動にとって有用な人物の育成が図られた。

 第4章では、韓国民間人によって設立された民族系私立学校を、その登場の背景と教育課程を中心に検討した。1900年前後に登場した民族系私立学校は、語学(英語と日本語)を中心に教育課程を編成し、多くの学校が中等以上の教育を実施していた。1900年前後に設立された民族系私立学校は、教育の近代化の一端として登場した学校であり、1905年保護条約以降の愛国救国運動の拠点となっている私立学校とは、設立の背景を異にしていた。

 第2部では、統監政治期(1906年〜1910年)における中等教育の変貌を、「模範教育」による教育課程の統合に着目して分析した。

 第5章では、「模範教育」の基本政策と「模範教育」における中等教育の性格づけ、そして私立学校の教育課程に対する統制の三つの側面から、「模範教育」の展開を分析した。「模範教育」は、韓国学部によって展開された統監政治期には、幣原坦、俵孫一、三土忠造らの日本人官重が韓国学部の首脳を占めており、実質的には植民地的形態の教育政策であった。「模範教育」は、モデルとなる学校の設置を通して従来の学校教育を均質化する政策であり、植民地化によって国民教育の統合を図る教育であった。

 ここでは、模範教育体制が二つの政策によって構築されたことを解明した。一つは削除することによる排除政策である。官立漢城中学校は、「高等学校」と改称された上で、「中等普通教育」を行う機関から「高等普通教育」を行う機関へと変更され、韓国における最高レベルの教育とされたのである。もう一つは加えることによる差別政策である。「高等普通教育」に変更させられた中等教育は、新たな内容を加えることによって正当化される。高等学校では、教育課程に「日語」をはじめ「修身」「漢文」を加えていた。

 「模範教育」政策は、官立中学校を「高等学校」の教育課程に再編して「模範教育」を構成した上で、その再編された「模範」を通して、第1部において取り上げた三種類の私立学校(欧米型のミッションスクールと日本型の「日語学校」、そして民族系私立学校)の教育課程を統合してしている。次のように具体的な政策が取られた。日語学校は、統監政治の開始と共に、官公立学校への転換が行われ、中等実業教育機関の「模範」として機能した。一方、ミッションスクールには宗教教育を許容する漸進的な統合を図ったのに対して、民族系私立学校に対しては教科書の検閲通して教育内容を統制する統合が政策の中心を成していた。

 第6章においては、統監政治の最後の年(1909年)に行われた改正「高等学校令及び同施行規則」(1909年)に基づいて、高等学校における実業教育の制度化を分析し、明治日本の「実科中学」の概念によって植民地化されつつ形成された韓国型中等教育課程の特徴を明らかにした。1909年7月、統監府傘下の学部は、高等学校教育課程への実業科の設置を認める改正「高等学校令施行規則」を公布した。この改正は、当時の学部次官俵孫一によって押し進められ、中等普通教育に「実科中学の精神を多く挿入」することを目的としたものであった。改正に従い、中央の官立漢城高等学校では商業が、地方の官立平壌高等学校では農業が実業教科として設置される一方、官立漢城女学校においては裁縫が教科として設置された。しかし、俵孫一の力説した「実科中学」とは、あらゆる教科内容及び教育課程の運営を実業の「実用性」を高める方向に再編成することであった。すなわち、高等学校における実業科は、農業や商業分野における単純な底辺労働力の確保を目的とし、専門知識や技術を要する工業分野や実業分野の教育は行われなかった。

 高等学校における実業教育の制度化は、日本の「実科中学」の概念を導入して遂行された中等教育の植民地化であった。そしてこの実業教育の制度化は、普通教育を空洞化させると同時に、実業教育も実用教育に傾斜させて矯小化する機能をはたしたのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、旧韓国(大韓帝国、1897年から1910年)における中等学校教育課程の形成を、官立の中学校と諸種の私立学校における教育課程の多様な編成の系譜と統監政治期(1906年から1910年)における「模範教育」による統合の過程に則して考察している。その探究によって、本論文は、日本の植民地化政策によって中学校が「高等学校」として最終段階の学校に再編され、教育内容の「実用」的性格の強調によって、普通教育が空洞化され実業教育が矯小化される歴史的な経緯を描き出している。

 本論は2部6章で構成されている。第1部では、大韓帝国樹立から統監府設置までの中等学校の展開を、韓国政府による官立の中学校(第1章)、アメリカ宣教師によるミッション・スクール(第2章)、日語学校(第3章)および民族系私立学校(第4章)の4つの系譜に分けて、それらの教育課程の変遷を分析している。第1章では、韓国最初の中学校である官立漢城中学校が、産業振興政策に合わせて高等科に工業、農業、商業、医学、測定などの実業科目を含んで設立され、光武改革の主体勢力が親日派から親露派に変化するのに応じて外国語が「日語」から「英語」へと変更した点が示されている。第2章では、アメリカ宣教師のミッション・スクールの教育課程が、植民地化の意図により英語による宗教教育を中心的内容としていたことを示し、第3章では日語学校が、キリスト教を標榜する大日本海外教育会によって設立され、「実業」と「日語」を重視する教育課程によって次第に日本型中等学校の「模範」として植民地化の機能を強化する過程が示されている。そして第4章では1900年前後に成立した民族系私立学校が、英語と日本語を中心とする教育課程を編成し、近代的な中等学校の性格を帯びていたことが示されている。

 第2部では統監政治期の学部の日本人官吏によって推進された「模範教育」の政策によって、上記の4つの系譜の中等学校が統合される過程を教育課程の変化に即して考察している。第5章では「模範教育」の政策の意図が開示され、「中学校」が「高等学校」へと改称されることによって最終段階の学校へと改編され、日語学校を「模範」として諸種の中学校の教育課程が統制される過程を叙述している。第6章では「模範教育」における中等学校のモデルが日本において頓挫した「実科中学」に求められた経緯を解明し、統合の過程で普通教育の機能が空洞化し「実科的内容」も単純労働の実用的な技能の教育に収斂したことを各学校の教育課程の実例に即して提示している。

 本論は、近代韓国の中等学校教育課程に関する最初の実証的研究であり、日本の植民地化政策によって編制された中等学校教育課程の特異な構造を解明し、旧韓国の中等教育の輻輳する展開とその統合過程を跡づけることによって近代化と植民地化の両義的な展開を示し、この分野における日韓両国の今後の研究の礎を築いている。上記の諸点において、本論文は、博士論文の水準をみたすものとして評価された。

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