No | 115601 | |
著者(漢字) | 田辺,夕由子 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | タナベ,ユミコ | |
標題(和) | 現代インド・オリッサにおける女性の身体・セルフ・エージェンシー | |
標題(洋) | Body, Self and Agency of Women in Contemporary Orissa, India | |
報告番号 | 115601 | |
報告番号 | 甲15601 | |
学位授与日 | 2000.09.14 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(学術) | |
学位記番号 | 博総合第275号 | |
研究科 | 総合文化研究科 | |
専攻 | ||
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 本論文は、現代インド・オリッサの女性が文化・社会的に規定された枠組みのなかでいかにエージェンシー(行為主体性)を発揮しているか、そして女性のエージェンシーが現代の社会的・経済的・政治的状況によってどのような制限を受けているかにについて、エージェント(行為主体)の身体的基盤とセルフ(自己)の構成との関連において検討する。 第1章の序論においては、女性のエージェンシーを検討するにあたって、「自己反省的な身体=人格」(self-reflexive body-person)という概念を導入することを議論する。身体は食や性の物質的・社会的交換において構築される。そこにおいて身体は個的性格とともに連関的性質を有する。そうした身体が自己反省的であるというのは、個が、自らを関係性の中にある結節点として認識し、関係性をすでに内包した存在として自己を反省的に対象化していることを指す。 第2章では村の空間的配置とそこにおけるジェンダー区分の意味について論じる。オリッサ村落におけるジェンダーによる領域分離には、ソト(bahara)とウチ(ghara)の区別がある。ウチは主に家の中を指し、女性の活動領域であるとされるのに対して、ソトは状況に応じて家の外または村の外を指し,男性の活動領域であるとされる。こうしたウチとソトという空間の区分の枠組みは、単なる宇宙論的な枠組みではなく、植民地経験とその後のポスト植民地的状況のなかで新たな意味付けが付与されたことに注目する必要がある。単純化して言えば、ソトとウチという二分法は近代と伝統の二分法に重ね合わされたのである。さらに女/男というジェンダー区分が伝統/近代という時間認職と内/外という空間認識に重ねあわされた。このような植民地的二分法において、ソトにおいて変化する近代に対して対応していくべき男性に対して、女性はウチにおいて伝統を保持するものとしての役割を担うべきこととされたのである。 このような状況において、女性は家の中という伝統化されたウチの領域において家族を維持し家系の再生産に携わるが、これは、単に無意識に行われるのではなく、共同体成員及び女性たち自身によって「自らの伝統」を支えるものとしての、反省的な意味付けを与えられている。彼女たちが行う生活文化の中での日々の家事、交換関係や儀礼などは、身体動作としては反復的であるが、同時に自らのアイデンティティの基盤として意識的な意味を持つものである。 第3章では、女性の身体=人格が人生儀礼のなかの交換関係をつうじて、いかに構築されているかを検討する。人生儀礼は、ある個体としての女性の社会的・身体的変化であると同時に、それを契機としてさまざまな相互行為や交換が行われる機会である。そうした交換行為の中で女性の身体=人格を中心的な結節点とする多元的な社会関係の束にも変容が起こるさまに注目する。そこでは、女性とさまざまに関係する多様な人間が儀礼の過程に直接的または間接的に参加し、種々の贈与交換に関わることによって、彼女を中心とする社会関係の網の目が変容するのであり、それはひいては、そうした網の目を形成している諸身体の変容の過程をも伴うものである。 第4章では、女性の身体が初潮を契機に自らを統御し、また統御される対象となる過程を分析する。初潮儀礼の主人公である少女を中心として形成される関係性の一つとして重要なのは、豊穣性と吉祥性を有する集団としての女性共同体である。こうした女性の豊穣力は、女神として表象される大地の生産力と隠喩的につながるものである。成熟を迎えた少女を中心として、社会的ネットワークが水平的に広がるだけでなく、そうした社会全体の再生産を可能にする大地の女神の生産力と、少女が獲得するに至った豊穣性は、地上と大地を貫いて垂直的に照応するのである。女性の生殖力も大地の豊饒力と同じく、シャクティという女性的な聖なる力の現れであると考えられている。シャクティは女神の別名であり、あらゆる豊饒・生産の源であるとされる。女性の個のセクシュアリティーは、こうした大地の女神との照応関係を通じて、宇宙的な広がりをも獲得するのである。 しかし、ポスト植民地的現代というより広い歴史社会的背景における初潮儀礼の意味論に注目してみると、女性の社会的・宇宙的なつながりは、実体的な集団の形成と共にその広がりを失い、そのセクシュアリティーは集団によって統御され、境界の内側に閉じ込められる対象となってしまう。そこでは女性は、ある実体化された集団の伝統を守るべき存在とされ、そのウチの純粋性の継続を保証することに奉仕することが求められるのである。ここにおいて、道徳的に退廃し利己主義のはびこるとされるソトとの対比において、ウチたるコミュニティ集団は実体化され、そのウチの閉鎖的空間のなかにのみ女性は存在意義を認められるのである。こうした状況下では、個としての女性を中心とする関係性の社会的な広がりやシャクティとの宇宙的な照応性の意味は無視ないし否定され、むしろコミュニティの内的部分として女性の個は全体のなかに埋没し、ただその継続性に奉仕するだけの存在となる。これは、女性が「伝統」を保持するべき存在だという言説の形成と結びついている。 第5章では、ブランコ歌の分析を通じて、女性の聖なるエロスがこの世を相対化する可能性に満ちていることを論ずる。ブランコ歌においては、断片的でとりとめもないイメージの連鎖のなかで、恋愛への淡い憧れや将来の結婚への期待と不安が交差するのがみてとれる。このブランコ遊びは、身体の反復的な揺れによる微かな酩酊状態において、未だ見ぬ「永遠の恋人」との想像上の逢瀬による自己遊離あるいは自己拡大の過程と理解することができる。ロマンティシズムのなかの「永遠の恋人」との関係は、世界の再生産に結びつく性愛(カーマ)に基づくものではなく、あらゆる規範や権力関係に拘束された身体を超えたエロスに基づくものであるということができよう。ここでエロスとはある現実態に対する欲望ではなく、むしろ現実のかなたに想し描かれる幻想的な「美なるもの」への希求である。その最高の形態は、最高神クリシュナヘの愛(プレーム)として表象される。 しかし現代オリッサの都市部においては、女子の儀札的な遊びの意味は、新たな変容を被っているようである。それは聖性との再接続を果たす身体化された伝統としてはすでに力を失いかけており、むしろ「かつて行われていた」あるいは「村落部で行われている」といった形で、自らの身体からは時間的あるいは空間的に疎外された伝統として語られる。またテレビで放映され、「伝統文化」として解説される。ここにおけるノスタルジアのまなざしは、自らの身体や意識の変容を伴わない、一方向的な認識論的ディスコースに回収されるものである。客体化され固定化された伝統文化は、むしろ自他の世俗的権力関係あるいはアイデンティティを語るイディオムとして用いられる。 第6章では、現代の村落女性が、植民地的二分法を引き受けた上で、ウチという限られた領域に自らの活動を限定することにより、その領域での活動を通じて、男性の領域とされている村落の派閥政治に影響を及ぼしていることについて論じる。日常的な場面においては、派閥関係は、社会的儀礼的な行為関係をつうじて確認されるが、特に重要なのは、女たちが家や裏庭で行う、交換や共同行為である。派閥の構成は流動的なため、どの世帯がどの世帯と交換や共同行為をなすかは村落政治上の重大事であり、相手方との微妙な駆け引きを含んでいる。女性が中心となって行う世帯間交換は、村落の政治関係を構成する重要な政治行為なのである。現代オリッサ村落の女性は、変わらない伝統を代表するとされるウチ領域を担うことにより、逆説的にエージェンシーを獲得しているのである。 第7章は、都市の中間階層の女性がいかにして新たな女性の身体技法の美学をつくりあげているかを述べる。村落女性が自らの活動領域と位置づけをウチに限定するのに対し、都市の女性は、ウチとソトあるいは伝統と近代の対立的二分法を超えた新しい行動様式を作り出そうとしている。都市女性にとっては、西洋的「個人主義」も、遅れた田舎の「伝統的共同体に埋没した個」も、避けるべきものである。現代の都市的状況では、女性は学校へ通い、働きに出かけることが要求されている。しかし、家の外で女性が振る舞うべきふさわしいモデルがないため、実際の活動を通して、まわりに「正しい」または「スマート」として認められるかどうかを試行錯誤しながら実現しなければならない。 現代インド都市における女性が、個としてのエージェンシーを有することは間違いないが、それは共同体から自立した個人の成立を意味しない。むしろここでいう個は自分を関係性のなかにおいて反省的に認識し、状況に応じて適切な行為を選択していく「自己反省的な身体=人格」である。現代インドの地方都市状況においては、共有される構造的な規則や社会的規範がない状況で、個々のエージェントが特定の状況に応じて「正しく」また「美しく」行為することを志向しつつ、新たな行為の文化的パラダイムを形成する試みがなされているといえよう。 第8章の結論においては、現代インドにおいてウチ/ソトや伝統/近代という植民地的二分法が現在も社会状況を強く束縛している面があることを指摘し、そうしたポスト植民地的条件を克服する必要があることを論じた。植民地的二分法からの脱却への道のひとつの可能性として、絶対的外部たる聖性の存在への感受性によって、形式化・固定化した伝統のダイナミズムを取り戻す必要があると提案した。 | |
審査要旨 | 田辺夕美子さんの論文(英文)、『Body,Self and Agency of Women in Contemporary Orissa, India(現代インド・オリッサにおける女性の身体・セルフ・エージェンシー)』は、インド・オリッサ州、プリ(Puri)行政区の現代女性が、農村(Garh Manitri村)、また都市(Bhubaneswar市)の、文化・社会的に規定された枠組みの中で、いかに行為主体性(エージェンシー)を発揮しているか、また現在の社会的状況の中でどのような制限を受けているかを、行為主体としての女性の身体的基盤と、自己(セルフ)との構成との関連において検討している。調査は1993年3月から1995年3月の間に、合計14ケ月間行われた。 本論文は、第一章で、女性の行為主体性を検討するための、「自己反省的な身体=人格」(self-reflexive body-person)という概念を導入する。身体は食や性の物質的・社会的交換において構築される。そこにおいて身体は個的な性格とともに、他との連関的性質を有する。そうした身体が自己反省的であるというのは、個が、自らを関係性の中にある結節点として認識し、文化と社会の規範の中で、他者との関係性をすでに内包した存在として自己を反省的に対象化していることを指す。 第2章では村の空間的配置とそこにおけるジェンダー区分の意味について論じる。オリッサ村落におけるジェンダーによる領域分離には、ウチ(ghara)とソト(bahara)の区別がある。ウチは主に家の中を指し、女性の活動領域であるとされるのに対して、ソトは状況に応じて家の外または村の外を指し,男性の活動領域であるとされる。こうしたウチとソトという空間の区分の枠組みは、単なる宇宙論的な枠組みではなく、植民地経験とその後のポスト植民地的状況のなかで新たな意味付けが付与されたことに注目する必要がある。単純化して言えば、ウチとソトという二分法は近代と伝統の二分法に重ね合わされたのである。さらに女/男というジェンダー区分が伝統/近代という時間認識と内/外という空間認識に重ねあわされた。このような植民地的二分法において、ソトにおいて変化する近代に対して対応していくべき男性に対して、女性はウチにおいて伝統を保持するものとしての役割を担うべきこととされたのである。しかし、このことはたんに女性が、そうした役割に盲従するよう押しつけられた、というのではない。女性たちは日常の家事や交換、儀礼といった生活文化の中で、表面的には反復的に見えても、実際は意識的にそれを取り返し(self-reflexive)行為することで、自分たちのアイデンティティを構築している。 このことを、第3章では、女性の身体=人格が人生儀礼のなかの交換関係をつうじて、いかに構築されているかを探ることによって、検討される。人生儀礼は、ある個体としての女性の社会的・身体的変化であると同時に、それを契機としてさまざまな相互行為や交換が行われる機会である。そうした交換行為の中で、女性の身体=人格を中心的な結節点とする、多元的な社会関係の束にも変容が起こるさまに注目する。そこでは、女性とさまざまに関係する多様な人間が、儀礼の過程に直接的または間接的に参加し、種々の贈与交換に関わることによって、彼女を中心とする社会関係の網の目が変容するのであり、それはひいては、そうした網の目を形成している諸身体の変容の過程をも伴うものである。 第4章では、女性の身体が初潮を契機に自らを統御し、また統御される対象となる過程を分析する。初潮儀礼の主人公である少女を中心として形成される関係性の一つとして重要なのは、豊穣性と吉祥性を有する集団としての女性共同体である。こうした女性の豊穣力は、女神として表象される大地の生産力と隠喩的につながるものである。成熟を迎えた少女を中心として、社会的ネットワークが水平的に広がるだけでなく、そうした社会全体の再生産を可能にする大地の女神の生産力と、少女が獲得するに至った豊穣性は、垂直的に照応するのである。これは、女性のライフサイクルと大地の年間サイクルには顕著な平行性がみられ、大地も「初潮」「妊娠」「出産(産出)」のプロセスを経るとされることからも見て取れる。女性の生殖力も大地の豊饒力と同じく、シャクティという女性的な聖なる力の現れであると考えられている。シャクティは女神の別名であり、あらゆる豊饒・生産の源であるとされる。女性の個のセクシュアリティーは、こうした大地の女神との照応関係を通じて、宇宙的な広がりをも獲得するのである。 とは言え、現時点でこの地域において進行していることを見つめれば、伝統の存続の核であり続ける役割を女性たちは担わされることで、コミュニティの一部分であるウチに閉じこめられ、彼女たちが作る集団も、その境界の内側の原理でコントロールされ、彼女たちが持っている可能性としての社会的な主体としての振る舞いや、それが作り出す宇宙的な意味は軽視され、さらには否定される危険がある。しかし、第6章では、そうした伝統の実体的な位置に押し込められ、沈黙させられかねない彼女たちが、逆に自分たちの活動をウチ、具体的には家や裏庭に限定しながらも、共同的な儀礼を行い、食物を交換しあう活動によって、男性たちによる、ソトにおける、「近代」に属する村の派閥政治に、大いなる影響を及ぼすことが描かれている。そうした限定された活動によって、女性たちは、逆説的にエージェンシー、行為の主体性を獲得していることを、本論文は適切な具体例を提示しつつ、卓抜な議論によって明らかにする。 では都市部の女性たちはどうだろう。彼女たちは、近代・伝統の二分法の近代の側に移動して、いわば近代的な主体性を獲得しているのだろうか。当然出て来るであろう、その問いに、本論文は、彼女たちが主体性を獲得していることは間違いないが、単に共同体から自立した個人としてではない、新たなかたちの模索の内にあることを伝える。すなわち、現代インドの地方都市に住む女性たちにとって、もちろん、村における女性の埋没した生き方は避けるべきであるが、首都におけるような、まったく西洋の近代に同化したかのような考え方や振る舞いもその行動のモデルたりえない。むしろ彼女たちは、日々の状況の中で自分たちの振るまいが、周囲の眼によって「正しい」あるいは「スマート」として判定されるかどうか、という「美学(aesthetics)」を基準として、新たな、行為に関するパラダイムを作り出そうとしているのである。 このように、それぞれの女性たちが、そのおかれた状況の中で、村落部では伝統の担い手としてウチに閉じこめられながらもソトに働きかけていく有様を、都市部では新たな構造的な規則が無いままに、二分法のはざまを、自らの新しく形成されつつある主体性を意識化しながら生きている現状を、すぐれた記述と分析に基づいて明らかにしている。この点に、本論文の価値の大半は存する。 これらに加えて、第5章のブランコ歌の分析では、女性の聖なるエロスがこの世を相対化する可能性に満ちていることを論ずる。ブランコ歌においては、断片的でとりとめのないイメージの連鎖のなかで、恋愛への淡い憧れや将来の結婚への期待と不安が交差するのがみてとれる。このブランコ遊びは、身体の反復的な揺れによる微かな酩酊状態において、未だ見ぬ「永遠の恋人」との想像上の逢瀬による自己遊離、あるいは自己拡大の過程と理解することができる。ロマンティシズムのなかの「永遠の恋人」との関係は、世界の再生産に結びつく性愛(カーマ)に基づくものではなく、あらゆる規範や権力関係に拘束された身体を超えたエロスに基づくものであるということができよう。ここでエロスとはある現実態に対する欲望ではなく、むしろ現実のかなたに想い描かれ看幻想的な「美なるもの」への希求である。その最高の形態は、最高神クリシュナヘの愛(プレーム)として表象される。ここには、今後の論者の、新たな研究の展望を予感させるものがある。 また、このような高い評価と共に、審査委員からは、本論文の基本概念である、「自己反省的な身体=人格」(self-reflexive body-person)は、その斬新さの一面、概念として未だ不明確であること、このオリッサという特定の地域のモノグラフとしてみると、女性たちが持つ個別の困難と、それに向けての意志的な努力の姿に、十分な肉付けがなされていない憾みが残ること、などが指摘された。また、村落部で扱っている対象の女性たちが支配的な高位カーストに属する女性であることから来る、ウチとソトという二分法の枠組みへの、過度の依拠があるのでは、という疑問も出された。しかしながら、上述の概念はこの複雑な状況を解いていくために、より精妙に鍛え上げていくことによって、またモノグラフの記述に関しては、この成果の公表の際に留意すべきこととして、本論文をより良きものとする可能性が示されたものと判断された。また、あるカーストやどちらかの性の視点に依っていることに関しては、伝統的インド社会の現地調査では、完全には避けがたいものであり、本論文の成果をさらに他の研究成果と比較することで、より広いパースペクティブに立つ研究を行うことを要望することとした。 | |
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