学位論文要旨



No 115602
著者(漢字) 朴,眞秀
著者(英字)
著者(カナ) パク,ジンス
標題(和) 日本語物語テクストにおける「視点」 : 前近代の〈超越的・重層的視点〉と近代の〈中心的視点〉
標題(洋)
報告番号 115602
報告番号 甲15602
学位授与日 2000.09.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第276号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大澤,吉博
 東京大学 教授 神野志,隆光
 東京大学 教授 三角,洋一
 帝塚山学院大学 教授 川本,皓嗣
 東京大学 助教授 齋藤,兆史
内容要旨 要旨を表示する

 物語研究は、「何が語られるのか」という作品の内容に基づいた研究もあれば、「いかに語られるのか」というテクストの表現様式に関する研究もある。この意味で語られる作中世界や出来事が「いかにして捉えられるのか」を探る「視点」の問題は、「向が語られるのか」にではなく、「いかに語られるのか」に属する。本論文は日本の物語文学における叙述様式の特徴を、テクストに内在する視点の分析により解明しようとする試みである。方法としては、ナラトロジー的分析を中心としながら、表現史的観点から接近した。

 これまで視点が理論上の問題として取り上げられたのは、おもに近代小説を対象とする研究においてである。近代以前の物語諸ジャンルの視点については、ほとんど無視されるか、論じられるにしても、近代小説に見られる視点の一変種または例外としてしか扱われなかったそれは一点としての位置関係が確立する、近代小説南な視点のみが、視点に関する議論の唯一の中心となった文脈があるからである。論者は、視点論がもっぱら近代小説のみの議論になっては重要な部分が切り落とされてしまうと思う。視点はそもそも、物語の叙述を支える作中世界への認識方法の問題で、近代小説において確定された一個の点的位置以上のものだからである。

 一般に物語の叙述様式の基本構造は、テクストのなかの言表主体である語り手が作中世界や出来事、またはそれについての自分の考えを、体験談または伝聞談の形で提示してゆくものとなっている。語り手は、(1)作中世界に入って自ら出来事を捉えることもあれば、(2)ある作中人物の眼を借りて、その眼に映った出来事を語ることもある。比喩的にいえば語り手は口であって、視点は眼である。あるいは語り手をスピーカー、視点をカメラにたとえても差し支えない。語り手に「語り」の材料を与える視点は、作中世界や出来事を捕捉する認識・解釈上の位置、と定義することができるだろう。

 ラボック以来、欧米における視点論の展開の様相は、おおよそ英米圏・フランス・ドイツ・ロシアの四つの地域に分けて、その特徴を考察することができる。小説の創作や研究において視点そのものが意識されるようになったのは、それほど古くはない。作家が自覚的に視点的技法を小説創作に用いたのは、ギュスターヴ・フローべール、ヘンリー・ジェームスあたりからのことである。また「視点」が、小説論の方法として使われるようになったのは、おおよそ1920年代のパーシー・ラボックからである。それ以後、構造主義以前の小説論では視点の概念を、語り手の作中場面や作中人物に対するかかわり方として理解し、語りの一側面として扱ってきた。

 ところが、視点に関する従来のこのような考え方は、構造主義の登場以後、フランスのジェラール・ジュネットによって大きく修正された。ジュネットは「誰が見ているのか、という問題と、誰が語っているのか、という問題とが混同されている」と指摘し、「視点」と「語り手」とは、それぞれ叙法と態に属する、まったく別の問題として扱われるべきだといった。また、「視点」point de vueといった用語には、あまりにも視覚的なものがまとわりついているので、そうした視覚性を払拭すべく、「焦点化」focalisationという、より抽象度の高い用語を使うことを主張した。そして彼は、情報の選別のための視野の制限を基準にして、この「焦点化」を「焦点化ゼロ(非焦点化)」、「内的焦点化」、「外的焦点化」の三つのタイプに分類し、「内的焦点化」をさらに「内的固定焦点化」、「内的不定焦点化」、「内的多元焦点化」に分けている。

 このようにみると、ジュネットは自分が提起した問題、つまり「誰が語るのか」と区別すべき「誰が見ているのか」の問題を、真っ正面から扱ってはおらず、視点の概念を「対象の内部を見ているのか、外部を見ているのか」に置き換えてしまったことが分かる。確かに「誰が見ているのか」と「どこを見ているのか」の問題は、視点の構造分析においては避けて通れない重要な問題である。この二つの問題に、同時に答えつつ、視点の働く機能のダイナミックな特性を、適切に分析し表す方法はないのだろうか。ここで筆者は、視点の主体を「視点」、対象を「焦点」と呼び、作中人物の〈作中視点〉・語り手の〈外部視点〉、意識を描く〈内面焦点〉・行動を描く〈外面焦点〉という新しい用語を提案し、視点研究における概念を明確にした。

 この枠組みにより、視点構造を分析すると、『古事記』『日本書紀』の冒頭の創世神話は、〈外部視点〉が〈外面焦点〉を捉える〈超越的視点〉に属することが分かる。『竹取物語』『源氏物語』『平家物語』など中世物語はこの四つのタイプが全部現われる、しかも視点の位置が常に錯綜する〈重層的視点〉である。これに比べ、『浮雲』『蒲団』以降の近代小説は見るものの位置が確定できる〈中心的視点〉となっている。またこの枠組みを使い夏目漱石の『心』と『夢十夜』を分析し、視点と小説におけるテーマや創作技法などをさぐった。

 近代以降の物語における〈中心的視点〉は、ある地点から見られる世界を描く絵画空間のアナロジーである。物語の作中空間では、ある作中人物の視点を「中心」に、あるいは作中世界の外の語り手を「中心」に、あらゆる出来事が収斂する。その結果、物語の作中世界は、単一の原理が通用し、一つの権力が支配する、秩序づけられた透明で純粋な等質的空間と化する。これが近代の物語の作中空間であろう。しかし、複雑で豊かな現実世界が作中世界として再現表象されるとき、はたしてどこまで一つの点に「中心化」できるものなのだろうか。パノフスキーの指摘どおり、このように「中心化」された作中世界は、ある意味で重要な現実を捨象するのではないだろうか。

 小説や詩など近代的文芸の美学概念に慣れている現代のわれわれにとって、全体を一貫するテーマをもたず、複数の人によって創作される日本の連句などは、一見突拍子もないジャンルのように思われがちである。しかし連句は、近代以降の遠近法による物語諸ジャンルのパースペクティヴの問題に、まったく別の角度から新しい観点を提供している。付け句を自在に付けるということは、物語の作中世界を認識する正位置の地点からつねに逸脱して他の視点を取らなければならないということを意味する。連句とは、中心化されようとする作品の視点を最後までずらして行かねばならないジャンルである。このような脱中心化の美学を連句はもっているように思われる。

 近代小説の視点は、近代の科学や線遠近法の思考が文学にそのまま反映されたものである。しかし、物語における古代からのさまざまな「視点」の問題は、はたして近代小説におけるように語り手やある特定の作中人物の一点に中心化されうるものなのだろうか。物語が物語として成り立つためにも、作中世界に対するさまざまな角度からの把握が必要である。物語は中心化されるように見えながらも、いつのまにかその中心からずらされ、捉えられ、語られる。物語はさほどたやすく均一空間化されるものではないだろう。論者は本論文のなかで、視点そのものに対する理論的考察および実際の物語テクストの視点分析を通して、長い歴史をもつ日本の物語文学の多様な視点のあり方を確認した。

 物語はそもそもそれなりの内容構造と伝達構造をもっているが、物語の本質に近づくためには、「構造」とともに、時間軸に沿った物語に内在する「過程」をも考慮しなければならない。「構造」は空間的・三次元的で、「過程」は時間を考慮した四次元的方法論である。物語本来のあり方はまさに時間にそって流れるものではなかろうか。世界中のあらゆる物語は結局、絶え間なく変化する宇宙のなかで、休まず動き回る地球上の出来事の表象だからである。出来事自体が変化であり、その表象も変化のさなかで行われるレベルを異にする「出来事」である。それゆえ、前近代と近代とを問わず、物語そのものは〈過程の芸術〉であるといえる。

 20世紀以後、物語研究における視点に関する議論は、ほとんどがこの変化を無視し、静止した空間のなかで物語現象を考えようとする「構造主義的」傾向を帯びていた。これからは物語本来の性質を復元し、物語の多様なあり方を認める広い意味の「視点」研究が行われなければならない。そうした研究は、物語研究の新しい地平を拓き、世界中のさまざまな民族や地域の物語テクストへの理解を深めることになるであろう。本論文はそうした新しい研究への一つの試みとして行われたものである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、日本文学における叙述様式の特徴を、テクストに内在する視点を分析することによって解明しようとする試みである。それ故に、本論文で分析されるのはテクストをテクストとして成立させている構造的特性であり、それをいわば「ナラトロジー」的観点から明らかにしようとしている。分析の対象となっているのは『古事記』、『日本書紀』という古代日本の神話・歴史書、『竹取物語』、『源氏物語』、『平家物語』という平安時代、鎌倉時代の物語、そして『浮雲』、『蒲団』、『心』、『夢十夜』という近代日本の小説である。今日、そうした広い範囲を博士論文で取り扱うことは稀であるが、氏は視点構造という一点に議論を集中させることで、そうした広い範囲のテクストを扱うことを可能にした。ナラトロジーは「物語論」、「物語学」とも訳されるが、テクストの内部的構造を明らかにしようとする学問であり、主としてフランス・アメリカにおいて精力的に研究されてきた。しかし、欧米の学者が取り扱う範囲は、西洋文学が中心であり、さらにその中でも近代の小説に焦点があてられている。氏はそうした現状を不満に思い、ナラトロジーが扱う対象を広げることで、この学問に対する貢献をしようとした。そのために氏が取った研究方法は二つある。まず日本文学という、西洋文学とは違う伝統を持つ文学についても、これまでのナラトロジー的接近方法がどれほど有効だろうかという検討、さらに近代日本文学と前近代日本文学とを比較することで、それぞれの特徴がどれだけ明らかになるだろうかという考察である。そのため氏はまずこれまでの視点論について研究史的概括をし、その上で氏なりの分析のための道具を用意した。氏によれば、視点論が往々にして混乱するのは、見ている位置と見られている対象とを同じ用語で説明しようとするためであり、その混乱を回避するためには、見ている位置を視点という用語で、見られている対象を焦点という用語で説明し、その区別を明確にすることが何よりも必要であるとされる。そのことでも明らかなように、氏は、専門家の特殊な造語を用いるのではなく、日本語の日常言語を再定義し、自分の研究に使える道具を準備した。それにより本論文はより広い読者にも読みやすいものとなった。そうした氏の態度は、これまでの研究を踏まえながらも、氏独自の観点をわかりやすく打ち出そうとする研究者としてのあるべき姿をも示している。

 以下、論文の構成に即して、氏の議論を要約する。

 本論文本体は大きく2部に分けられている。第1部は「視点論と日本の物語ジャンル」と題されて、その序章「物語における視点とは何か」・第1章「視点の文法」においては、本論文の問題設定、さらに、これまでのナラトロジーにおける研究史が概括される。氏が直接十分に参照できる文献は日本語、英語、韓国語研究書に限られるが、その限りで氏はこれまでの研究動向を丹念に追っている。特に英語による文献(翻訳書を含む)によって、欧米の研究を咀嚼し、特にジェラール・ジュネットとシーモア・チャトマンのナラトロジー研究を参照することで、氏は自己の考察を深めている。その結果として、氏が独自に提案するのは、分析における視点と焦点の分離の主張、そして、テクストにおける視点の位置を、作中世界との関係から、視点が作中世界の中に位置する「作中視点」と外に位置する「外部視点」に二分し、テクストにおける焦点の位置を、描写の特質から、焦点が対象人物の内面にまで届く「内面焦点」と外部に留まる「外面焦点」に二分することであった。その4つの要素を組み合わせることで、氏はテクストの作中世界の認識を4つに類型化し、テクスト分析の道具としている。

 第1部第2章以下はその概念を用いた、テクスト分析となる。第2章は、「古代神話と歴史叙述の<超越的視点>」と題され、『古事記』、『日本書紀』を扱う。これらのテクストは述べられていることが確かなことであると読者に保証する必要上、「外部視点」・「外面焦点]をとることになる。その点で『古事記』と『日本書紀』の視点構造は共通している。ただし、ナラティヴの特性の差異はあるが、どちらもその語りに正当性を与えるため、現実を越える超越性をテクストに付与し、それを実現するために「超越的視点」を設定しているのである。

 第3章は、「中世物語の<重層的視点>」と題され、『竹取物語』、『源氏物語』、『平家物語』とを扱う。この段階において、いわばフィクションとしての文学という観念が表われ、語られていることを事実とする立場からの離脱が見られる。そしてその虚構文学としての性格を明示するための文体、藤井貞和氏の用語を用いれば「日本叙事文」が登場し、その虚構性が保証されることになる。そうした虚構としての物語における視点構造を分析してみると、依然として「外部視点」・「外面焦点」が大枠をなしているが、その中に「内面焦点」も見られるようになり、古代において統一されていた視点構造が揺らぎ、重層的な視点構造が見られるようになることが確認される。

 第4章は、「近代小説の<中心的視点>」と題され、二葉亭四迷の『浮雲』と田山花袋の「蒲団」が分析される。この時期は文体に関しては言文一致運動が行われ、近代日本語文体が形成された時期であるが、そうした文体的革新についてはこれまで議論が多かったが、視点についてはそれに比して研究が進んでいたとはいえなかった。氏は、近代日本文学初期作品である『浮雲』のテクストを丹念に分析し、その中の視点が物語の進行に従い「外部視点」・「外面焦点」から「作中視点」・「内面焦点」に移行していくことを明らかにする。それは物語で描かれる世界が次第に縮小する過程と見事に呼応している。ただし、その転換は前近代の物語に比べるとより明示的であり、視点の位置はより安定的に確立されていると言うことが出来るであろう。それに対して『蒲団』はすでに近代日本口語文がかなりの程度確立された時期に書かれたものであり、すでに視点確立の問題は『浮雲』で決着済みであった。ただし、「内面」の描写という原理的問題とその具体的表現の問題はまだ解決されなければならない問題であった。

 第2部は「<視点の構造>から<視点の過程>へ」と題されており、その中は4章に区分けされている。第5章「『心』のテーマと視点」は夏目漱石の『心』を扱った章である。氏は、『心』のテクストを分析し、そこにおける視点の位置について論ずる。『心』は複雑な時間構造を持つ作品であるから、そこにおける視点構造も複雑であり、氏が提唱する4つの視点構造の類型がそこにはすべて見られる。しかしその視点構造の変化は、作中の時間構造の変化と対応しており、決して重層的なわけではない。『心』は近代日本文学作品としての「中心的視点」を備えてはいる。それに対して、時間的には前になるが、漱石の『夢十夜』は夢を描くという作品の性質上、そうした「中心的視点」から離脱する部分が出てくる。初めは全く「作中視点」から構成されていたものが、途中から「外部視点」が導入され、その枠内で「作中視点」も採用されることになる。

 第7章「遠近法と視点」、第8章「構造から過程へ」は、そうした日本文学における視点構造の変化がどうして起こったのかという一考察であり、またこれまでのナラトロジーが軽視していた時間という要素に関する問題提起である。氏は、そこで、そうした近代日本文学における視点構造の変化、「中心的視点」への変化がヨーロッパに発生した遠近法とどのような関係にあったのかを考える。そしてその考察の後に、静的な性質を帯びざるをえない「構造」に時間的な要素を加え、「過程」という観点から文学作品を読み直すことを提唱し、日本文学の中に見られる非西欧的な要素の重視を主張するのである。例えば、連句のような視点構造はこれまで非近代的なものと見なされることが多かったが、そうした非中心性も文学作品の重要な要素として評価することを提案する。

 もちろん、本論文はその扱う範囲の広さゆえに、個々のテクスト分析に関して言えば、たとえ視点構造という一点に絞られているにしても、まだ充分に行われてはいないという批判が審査委員の中から出た。またナラトロジーという、欧米で精力的に研究が行われている分野において、決定的な説を若い一研究者が提示すること自体、きわめて難しいことは明らかである。

 しかし、本論文が、そうした問題点を抱えつつも、力作であることは疑いえない。以上述べたような大きな視野と展望とを示すため、氏は地道に文献を読破し、特に総合文化研究科で授業を担当する多くの研究者の関係する業績を学び、自分なりに考え、自己の主張の根拠とした。そこには、大学院で学び、そして自分なりのオリジナルな考えを提出するという課程博士として称揚すべき美質が認められることは明瞭であった。また審査員から指摘された欠点の多くは最終版を用意する時に十分手直しできるものであったから、審査員の指摘を踏まえ、欠点を補正すれば本論文は学界に学問的貢献をすることは確かであるというのが審査委員の一致した意見でもあった。

 以上の点を総合的に判断して、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。

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