学位論文要旨



No 115603
著者(漢字) 中道,章欣
著者(英字)
著者(カナ) ナカミチ,ショウキン
標題(和) 盧作孚と民生実業公司 : 中国近代企業経営の形成
標題(洋)
報告番号 115603
報告番号 甲15603
学位授与日 2000.09.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第277号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 教授 柳沢,悠
 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 助教授 高見沢,麿
 帝京大学 教授 高橋,満
内容要旨 要旨を表示する

 中国は,1970年代末からそれまでの社会主義計画経済体制を改革し,封鎖的な経済的体制を開放経済体制へと転換した。この内外の市場経済への移行は,その後20年間にわたる高成長をもたらし,中国経済の奇跡と言われている。このような改革開放経済の成功は,それまでの社会主義体制の見直しや再検討の機運を高めることとなった。中国近代史の再評価の研究がある程度進展してきた。例えば,第1次世界大戦から第2次世界大戦間の経済成長は必ずしも停滞的ではなかったという王玉茄の研究や清末民初の「商会」に関する研究を通ずる近代の中国資産階級の研究,国民政府資源委員会の経済開発における役割の再評価など中国近代経済史研究の新しい動きを示すものである。

 本稿は,前述の観点から,1949年以前の中国の最大の民営汽船会社であった民生実業公司(The Min Sheng Industries,Ltd.)(以下,民生公司と記す)を事例とし,その発展の過程と成功の要因を分析するとともに,その経営者であった盧作孚(Lu Zuo-Fu1893〜1952年)の企業者精神とその経営管理思想を解明し,それは近代中国における近代的企業経営管理システムの形成を実証的に解明しようとするものである。

 中国大陸における民生公司に関する今までの先行研究の視点は,基本的には1949年以前の中国の経済が「半植民地半封建」的性質を持っているという通説の枠組を自明の前提とし,民生公司の発展の歴史を,発生・発展・衰退の歴史のパターンとして捉え,盧作孚については優れた企業者として全面に肯定する論調が支配的である。そこには民生公司の企業としての発展要因分析や近代経営システムという観点は殆ど見られない。本稿は,その偏りに対する批判的研究でもある。

 本稿は,序章と終章のほかに,八章から構成されている。

 序章は本稿の課題と意義,先行研究,研究方法,史料の利用,構成と概要について述べている。

 第一章は,清末以来の中国近代企業の発展と各時期に活躍した企業者について考察した。洋務運動により,中国に初めて資本主義的な近代企業は誕生し,それは,軍事産業企業から民用産業企業,そして民営企業へと発展した。洋務派によって創設された企業は,李鴻章,張之洞などの大官僚が保守派の反対を抑え,国家経済力の一部を動員して実現したものであった。この時期の近代企業の創設と官督商弁企業の経営に買弁の資金力と経営経験によるところが大きかった。第一次世界大戦以来の中国の近代経済と近代企業の発展は株式会社形態が支配的になりつつあった。企業者は主に伝統商人,買弁,華僑,海外留学経験者より構成された。そして,この時期に,先進的な設備の導入と技術の開発や近代的経営管理の導入と経済的効果の重視および観念上の伝統文化からの脱皮などの新しい現象が登場した。1920年代まで近代企業形態も近代企業経営管理システムもなお伝統的な形態を強く帯びていた。その限界を破ったのは盧作孚の民生公司経営だったのである。

 第二章では一知識人から近代企業者への盧作孚の成長過程を辿った。盧作孚は救国思潮の高まりの影響を受け,革命救国から教育救国,そして実業救国へ転身したが,最後に,彼は,救国から脱皮して,近代化の認識を持つようになり,中国にとって必要なのは救国ではなく,近代化であると明言し,近代化による「中国近代化の接近方法」を提起した。そして,身を以って民生公司の経営を通して,その方法を実践した。

 第三章は,民生公司の創立過程をもとに,盧作孚が企業者へ転進した動機および民生公司の創立時の資本金の募集難などの問題点と中国のような後発国における近代企業の創業との関連などについて分析した。教育救国の挫折を味わった盧作孚は,資金も経営経験もないが、実業救国の情熱に燃えた他の十二人の発起人と共に,故郷合川と四川の改造ないし中国の発展のために民生公司を創設した。創業にあたり,中国近代以来の殆どの企業が創業時に直面した資本金の募集難を,彼は血縁・地縁の伝統的人間関係と近代的経営の従業員持株制度によって解決した。船の安全運航のために,軍閥と伝統的組織の団練に相当する武装組織の保護に頼ったが,詳細な市場調査により長江上流の支流における船客の運送を創業期の民生公司の経営方針とし,高利益・高リスクの長江上流航運業における「経済的機会」を掴んだ。

 第四章は,近代的経営方法の導入による民生公司の成長について概観した。創業後の民生公司は,内部請負制の撤廃,定期航路と安定した運賃の定着,原価計算会計制度の導入,マスメディアの利用,従業員の経営参与のインセンティブ・システム,長江上流航運業における独占の実現−外国の汽船会社を含む他の船会社に対する民生公司の買収,ディーゼル船の導入による生産性向上,先進的な設備の導入,航運技術の開発,管理,安全運航,付属企業のレベルの向上などに力を入れ,事業や設備投資の拡大を経営方針とし,船舶の隻数と総トン数の向上による,高い物的生産性を実現した。

 第五章では,所有と経営の分離という近代的経営形態と民生公司におけるそれのあり方及び伝統経営との関係について検討した。民生公司は株主総会における株主の議決権に対する制限により,株主総会と取締役会における大株主の支配を排除した。民生公司における所有と経営の分離の特徴の一つである株式の分散は立ち後れた内陸の経済状況に起因し,民生公司の取締役会における各界の著名人による取締役の構成は中国伝統経営形態の合股制の残滓を帯びていたが,他方,近代航運業の経営には専門家による効率的管理が必要であるという認識により,民生公司は,専門家による企業管理システムを確立する意味ももっていた。

 第六章は,日中戦争前,民生公司は主体的経営の努力と軍閥の地方政府の援助により高収益を確保した上,配当を抑え,積立金や各種の名目による準備金を内部留保し,高自己資本率を実現した。戦時下,設備投資などの必要と戦争による運転資金の増加及び政府の近代産業の発展を促進する金融政策の実施により,民生公司の財務管理方針は融資に依存する方向に変化したが,民生公司は,絶えざる設備投資と効率的な運営により,それらの資金を合理的かつ効率的に吸収し,使用した。そして,民生公司と銀行の関係は,産業と銀行の新しい関係の創出,産業資本的企業様式の形成をもたらした。

 第七章は,多角化経営の理論に基づき,民生公司のそれを考察した。民生公司の多角化経営は,日中戦争前,基本産業の補完,経営ナショナリズムなどの後発的な特徴があるが,戦時下のそれは,航路の短縮と政府による運賃の統制がもたらす航運業における危険を分散させ,その損失を補填することができた。戦後,民生公司は多角化経営の比重を縮少し,中核事業である航運業の発展に全力を尽くし,戦後の近海,遠洋における空白市場に積極的に進出し,1949年には中国最大の民営汽船会社に成長した。

 第八章は,民生公司における文化的要因としての「民生精神」,人間教育としての従業員の職業訓練,福利制度のあり方について考察した。民生公司は「民生公司一家主義」を提唱し,従業員の経営への関心と帰属意識を持たせ,それによる勤労意欲の向上をはかった。民生公司の福利制度と従業員教育について,国際的に見ても画期的なものである。「従業員サービス」は欧米で行われたほぼ同じ時期に民生公司は同じ制度を完備しつつあった。「人的資源管理」が提唱されるずっと以前に,民生公司はそれを先駆的に実践していたのである。

 終章は,結論として,民生公司の発展の要因,企業者としての盧作孚,中国企業経営史における民生公司の意義及び依然として影響している合股との関連について論じた。民生公司の発展は設備投資の高さ,民営銀行,国家銀行,外国銀行による強力な資金力,従業員持株制度などの一連の近代的経営制度の導入などによるものである。1949年以前の中国において工業農業総生産に占める近代経済の総生産の比率は僅か17%しかなかった。その中,近代的経営を試み,しかも一定の成果を収めた近代企業はごく一握りであった。その意味から,特に株式を持たず,経営者として徹底した盧作孚の経営理念と民生公司は極めて特別な事例であるが,近代中国における最も近代的経営システムを確立した典型とも言えよう。

審査要旨 要旨を表示する

I. 論文「盧作孚と民生実業公司―中国近代企業経営の形成」は、近代中国最大の民営航運会社、民生実業公司の創業者である盧作孚の経営思想と民生公司の発展過程を分析し、近代中国における代表的な近代経営制度が形成されたことを明らかにしたものである。これまでの企業家盧作孚と民生公司の研究は、改革開放政策の展開とともに民国期の再評価の動きが顕著になるにつれて、一定の発展を見せているが、甚だ不十分であった。とくに、民族資本(民生公司はその代表的企業である)の扱いについては、民族資本が一定の発展を示すと官僚独占資本に搾取・収奪され、衰退の危機に直面し、それを社会主義によって再生するという、中国共産党の民族資本史観の枠組みに囚われていた。そのため盧作孚の経営思想も民生公司の経営管理の近代性も十分評価できなかったのである。本研究は、こうした制約を打破した画期的成果である。

II. 以下その内容を紹介し、本論文を要約する。

 序章では、問題提起と課題の設定が行われ、先行研究の検討を通じて本論文の方法とその構成が提示される。

 中国におけるこれまでの民生公司の先行研究の視点は、凌耀倫『民生公司史』(1990年)の史観に代表される。基本的には1949年以前の中国の経済体制が「半植民地・半封建制」であるという通説を自明の前提とし、民生公司の歴史を、発生・発展・衰退・社会主義的再生のパターンとして捉えるものである。また、盧作孚の企業家としての評価も民生公司の発展に役立った限りで、その優れた経営管理制の導入を評価し、多くは虚の個人的資質に帰せられ、杜会的、歴史的視点を欠いている。つまり、近代的経営管理思想、近代的管理制度の形成という一貫した視点が欠落しているのである。

 本論文の接近方法は、「企業者史」や「近代的経営管理制度」の研究史の中から、とりわけ、後発国に見られる「近代企業家精神」や「近代経営システム」の枠組みを基準にして、盧作孚の思想と民生公司の経営管理制度の近代性を見ようとするものである。とくに、孫文の新三民主義・実業主義の一つの具体的実践事例として位置付けられる。

 これまで、孫文の民生主義は、「資本節制」や「耕者有其田」として捉えられ、「資本節制」は、国民政府の経済委員会下の経済建設連動、資源委員会下の大後方開発に見られるような、「官僚独占資本主義」に結びつくと考えられてきたが、「実業救国」運動を介して民生公司のような「産業資本企業」の形成を促したという国民革命期の歴史の新しい潮流の形成としても位置付けられる。

 第一章では、いわば民生公司のような近代企業経営の形成以前の「資本主義的企業」を扱い、こうした企業がなお「伝統的」且つ「買辧制」に由来する経営形態をもっていたことを明らかにし、民生公司の近代性解明の予備的考察に当てられている。中国の「近代企業」は洋務運動による「監督商辧」に始まり、第一次大戦中からの中国企業の勃興とそれに続く「五四運動」を契機とする「救国運動」の昂揚は、近代企業に大いなる発展をもたらした。しかし、1920年代までの「近代的企業形態」も経営管理システムもなお伝統的、買辧的要素を濃厚にもっていた。この限界を打ち破ったのが民生公司の経営だったのである。

 第二章では、一知識青年であった盧作孚が近代企業家へ成長する過程を辿っている。盧は五四時期の救国思想の高まりをうけ、まず「革命救国から「教育救国」に情熱を傾けたが、次第に「郷村建設」や「実業救国」に全力を集中していった。つまり、盧の民生公司の創業は「実業救国」、孫文の実業主義が「導きの糸」となったものであり、その創業精神は「実業救国」であり、半植民地的状況にあった中国における民族主義であった。盧の企業家精神は経済合理性ではなく、中川敬一郎の言う「非合理的なるもの」であり、「半植民地」における「ナショナリズム」なのである。

 第三章では、主に民生公司の創業過程の分析を通じて、その企業家的特質を解明している。開明的軍閥の下で「教育救国」に従事していた盧はその軍閥の退潮とともに、事業が挫折し、実業救国の情熱に燃えた他の十二人とともに、故郷合川と四川の発展を期して民生公司を創設した。創業時の資本は盧個人の蓄積によるものは全くなく、地縁・血縁の伝統的人間関係によるところもあったが、盧個人の信用・人望によるところもあり、さらに従業員持ち株制度という制度的革新も行っている。水運の営業に当たっては、詳細な市場調査と的確な市場予測を行い、貨物輸送ではなく、旅客輸送を主とし、それが大成功を収め、民生公司躍進の基礎となった。

 第四章では、近代的経営方法と高性能の船舶、航運技術、長江上流航運業における独占的地位の確立による民生公司の発展構造を解明した。内部経営システムとして、内部請負制の撤廃、従業員試験採用制度、従業員の経営参加のインセンティブシステム、原価計算会計制度の導入などがあり、独占的地位の確立は定期航路と安定した運賃の定着をもたらした。

 この過程は、外国汽船会社を含む他の船会杜の買収の連続であったが、民生公司は単に船舶数の独占によってではなく、ディーゼル船の導入、先進設備の導入、航運技術の開発、管理、安全運航、さらに船舶修理などの付属工場を充実させ、事業や設備投資の拡大を経営方針とし、船舶数と総トン数の増大ばかりでなく、高い物的生産性を実現したのである。

 第五章では、所有と経営の分離という近代的経営形態と民生公司における「所有と経営の分離」のあり方及び伝統的経営との関係について検討されている。民生公司の特徴は、経営者の代表であった盧がほとんど株式を保有せず、経営に徹しており、逆に経営に対する大株主の支配を廃除していることである。これは株主総会における株主の議決権を保有株数に応じて持つのではなく、議決権が最高二十に制限されていたのである。また、取締役会も大株主の支配を廃除する仕組みをとっていた。そのため、株式は高度に分散されていた。その意味では、所有と経営が高度に分離していたということができる。しかし、民生公司の所有と経営の分離はなお「合股」的性格を帯びていた。取締役会は取締役や盧に対しても株式が与えられることがあった。これは合股企業でよく見られた現象であった。他方、民生公司の特徴は、盧をはじめとする専門的経営管理を強めるところにあった。専門知識をもった高学歴層の増大は近代的な経営管理をいっそう拡大したのである。

 第六章は、民生公司の金融的側面の分析に当てられている。日中戦争以前は経営努力と株式の発行で拡大資金を調達してきた。とくに、配当を抑え、内部留保を厚くし、高自己資本率を達成していた。この段階では必ずしも外部金融を必要としなかったが、戦時下になると、設備投資や戦時による運転資金の増加および政府の近代産業育成政策による助成制度などのため、外部資金の依存関係が深化し、これは産業と金融に新しい関係をもたらした。具体的には、民生公司と金城銀行との間に産業融資の関係が構築されるのである。それまでの中国における銀行の投資行動は産業に融資するのではなく、高利回りの公債や商業・不動産投資が普通であったのである。ここに産業と金融の問に近代的な正常な関係が成立したのである。これまで、1930年代に近代的紡績企業に対して、例えば中国銀行が危機に瀕した企業に融資した事例が指摘されているが、積極的な形態としてはむしろ新しい指摘であろう。

 第七章では、民生公司の企業集団の形成と再編の問題を考察している。民生公司は当初航運業に関連した企業を起し、それを中心に多角化経営を行い、戦時下には、五〇社、資本投資額二七五万元に上り、炭坑業、機械冶金業、紡績業、建築業、保険業、貿易業など本業関連以外の業種まで含んだ一大企業集団に成長した。しかし、戦後は多くの移転企業が沿海に引き揚げたことに伴い、投資を回収し、本業に集中するとともに、新たに長江下流域に進出するとともに、東南アジアなどの海外航路を切り開いた。戦時下の多角的な企業集団の形成は、大後方への移転企業の運賃を株式に振り替えて投資したもので、移転企業の資本不足を補い、民生公司の生産的投資を拡大したもので、極めて戦時期の特殊な状況に規定されたものであった。従って、戦後本業回帰の発展こそ民生公司の正常化というべきである。

 第八章では、民生公司における企業文化としての「民生精神」、人間教育としての従業員の職業訓練、福利制度の形成とそのあり方を考察している。「民生公司一家主義」を提唱し、従業員の経営への関心と帰属意識をもたせ、勤労意欲の向上を計った。民生公司の福利制度と従業員教育は、当時の中国の労働事情を考慮すれば、正に画期的なものであり、国際的にも先進的な「人的資源管理」を実践するものであった。

 終章では、結論として盧作孚の経営管理思想と民生公司の経営管理制度の形成は、孫文の民生主義・実業主義を企業者精神とし、産業資本的蓄積方式を基本投資行動とする経営管理システム(専門的経営管理)、産業と金融の関係の正常化、企業内福利、従業員教育の充実による良好な労使関係の形成に見られるように、後発国中国的特徴をもつ「近代的経営システム」を形成するものであり、それが民生公司を発展に導く大きな要因であったと概括している。

III. 以上のように、本論文は民生公司の発展とそれを導いた近代的経営管理システムの成立を通じて、国民革命期の経済発展のもう一つの構造を明らかにしたともいえる。本論文の学術的な貢献と評価しうる論点は以下の諸点である。

 第一に、盧作孚と民生公司の事例を孫文の民生主義のひとつの実践例として位置付けたことである。これまでの民生公司研究では、「実業救国」の気運の中から生まれたことは指摘されていたが、孫文の民生主義、『建国方略』の実業主義との繋がりとして位置付けたものはなかった。孫文の民生主義は、「資本節制」として国民党の国家資本による経済建設として具体化されたと理解されてきた。それを民生主義・実業主義の面から民生的発展の道として提示した意義は大きい。つまり、国民革命期の近代的経済発展の構造を多面的に理解することを可能にしたのである。

 第二に、民生公司の発展過程を民族資本の発生・発展・衰退・再生という“民族資本史観”の限界を打ち破り、近代的経営管理システムの後発国モデルを構成し、一貫した論理のもとに、民生公司の発展要因を分析し、中国における近代的経営管理システムの成立を解明した。このことはこれまでの「官僚独占資本」、「民族資本」という枠組みの再検討を迫るものでもある。

 第三に、その具体的な展開が集中的に表現されているのが、戦後の民生公司の見方である。『民生公司史』は「衰退」として、カナダからの借款による拡大であり、しかもそれまでの外部投資を引き揚げて、債務返済に充てたので、縮小であり、とくに内戦期は経営が悪化したとして、衰退したという「民族資本史観」を採っているのに対し、船舶数の増加、外洋航路への発展、従業員の大幅な増加が基調であること、多角化経営の整理は、債務返済のためではなく、戦時の封鎖的体制の変化による、本来の本業を中心とする企業集団の再編成であることを明らかにして、その史観の克服を進めた。そのほか、「半封建・半植民地」概念の誤った適用のために生じた誤解、例えば「名士の取締役の任命」、「株主総会、取締役会の大株主制限」などの理解がそれである。

 第四に、産業企業としての民生公司と銀行との間の新しい融資関係の形成を金城銀行資料に依拠して解明したことである。これは、中国の産業企業と近代銀行との間の新しい関係の成立を示すものであり、近代企業の要件の一つを備えることになったのである。

 そして第五に、わが国の民国経済史研究に大きく貢献するものである。わが国において、盧作孚と民生公司に関する研究はこれまで空白状態であり、その重要性を啓発すると同時に、その空白を埋めるものである。フォエアーワーカーの『中国の初期工業化―盛宣懐と輪船招商局』につぐ民国国民革命期の経済・経営史と言えるかもしれない。

IV. 本論文の問題点をあげれば、つぎの通りである。

 第一に、民生公司の近代産業企業としての生成が民国後期において、どの程度の代表性を持ちうるかどうかにつての考察に欠けている。つまり、民生公司の企業経営における各種の「革新」について、盧作孚の独創的考えによるばかりでなく、当時の社会状況と関連づけて分析することによって、それがある程度解明できたはずである。例えば、企業内福利や従業員教育の導入でも社会的契機があったはずである。

 第二に、近代企業経営と中国の伝統的経営について、とくに、「合股」形態について、通説に従って伝統的要素としているが、果してそれが近代経営を阻害する性質を持つのか、或いはそうでないのかの吟味が不十分である。例えば、日本の財閥、韓国のチェポルは非近代的か、後進的近代性と伝統との間に曖昧性を残しており、それが方々に影響しているのである。

 第三に、国民政府の航運政策について、まとまったかたちで扱われていない点である。とくに、戦後の国民政府の航運政策は民生公司の経営に大きな影響を与えたはずである。また、中国共産党政権の民生公司に対する政策、或いはその航運政策に言及がない。

 第四に、資料の取り扱いについて、殊に民生公司企業文書は『民生公司史』に依拠せざるをえなかったことは止むを得ないが、その著者たちの見解を峻別すべきで、不十分なところがある。

V. このように、指摘すべき問題点もあるが、それは多くの場合、より望ましい種類のもので、大きな欠陥というべきものではなく、大筋において著者が独立した研究者としての十分な資格を備えていると認められる水準にある。

 以上の理由により、審査委員会は、全員一致して、本論文の著者に博士(挙術)の学位を授与することが適当であると認定した。

 (以上)

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