学位論文要旨



No 115604
著者(漢字) 新崎,康樹
著者(英字)
著者(カナ) アラサキ,ヤスキ
標題(和) エネルギーおよび角度分解フェムト秒ポンプ・プローブ光電子分光の理論研究
標題(洋) A Tbeoretical Study of Energy- and Angle-Resolved Femtosecond Pump-Probe Photoelectron Spectroscopy
報告番号 115604
報告番号 甲15604
学位授与日 2000.09.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第278号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高塚,和夫
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 助教授 増田,茂
 東京大学 助教授 染田,清彦
内容要旨 要旨を表示する

 近年、化学反応や分子の振動回転の様子を実時間で観測するフェムト秒分光の実験技術が発達してきた。この手法は、ごく短いバルスレーザーによって観測したい状態を作り出し(ポンプ)、時間遅延した二つ目のバルスレーザーによって系を測定可能な終状態へと励起(プローブ)するものである。さまざまな終状態測定法が利用されているが、分子振動波束の研究に特に有効性が期待されるのがイオン化を利用するものである。この場合、イオンそのものの測定のほか、光電子も測定可能である。光電子のエネルギー分布が簡単な系で分子振動波束の様子をよく反映するだろうことが理論的に提唱され、これまでにいくつかの系で実験がなされている。

 これまで行われてきたフェムト秒ポンプ・プローブ光電子分光の理論研究は簡単な系にのみ適用できる近似によるものであらた。光イオン化の遷移双極子モーメントの空間依存性・エネルギー依存性を詳細に計算することが難しく、さらにそれを量子力学的運動方程式に取り入れた場合の実現可能な計算方法がなかったからである。大振幅振動、特に非断熱的効果により振動波束が振動の過程で性質の変化する電子状態の影響を受けるような場合には空間依存性・エネルギー依存性を取り入れることは必須である。

 この論文では、そのような系への適用を念頭に、近似やモデル化によらない現実的な光イオン化の記述を取り入れたフェムト秒ポンプ・プローブ光電子分光の定式化をし、例としてNa2ダブルウェルポテンシャルでの振動の観測に適用し、フェムト秒ポンプ・プローブ光電子分光が分子振動動力学にどのような知見をもたらし得るか、そして光電子角度分布が振動・回転動力学をどのように反映するかを検討する。

 非断熱的効果によりダブルウェルを形成するNa2励起状態(2)1Σu+における振動動力学のフェムト秒光電子分光にかかわるポテンシャル曲線と、ポンプ(ω1)・プローブ(ω2)の役割りを図1に示す。

 まず全系の状態Ψを基底状態Vg、励起状態Ve、イオン基底状態Vionのそれぞれの電子波動関数{φg,φe,φk(-)}とそれぞれに対応する核の波動関数{Xg,Xe,Xk}とで展開するただし、イオン連続状態の添え字〓は光電子の運動量、〓、〓、tはそれぞれ電子座標、核座標、時刻である。これを全系のシュレディンガー方程式に代入し、さらにイオンの波動関数を球面調和関数ηm(θk,φk)で展開し、核についての連立運動方程式を得る。ここで恥は核についての運動エネルギー演算子、丑は核間距離、(θR,φR)が分子の向き、εκが光電子の運動エネルギーである。ポンプによる、基底状態と励起状態、との間の相互作用が

となり、プローブによる励起状態とイオンとの間の相互作用が

となる。θPはポンプとプローブの偏光のなす角、ΔTは遅延時間、E01、E02はポンプ・プローブのそれぞれの強度、f1、f2はそれぞれのエンベロープ関数、degはVgからVeへの遷移双極子モーメントである。イオン化の過程の核間距離。エネルギー依存性をあらわすClmは散乱理論計算により求められる。この量を運動方程式に取り入れることが本研究の大きな特徴の一つである。

 この連立運動方程式を数値的に解くために、イオン連続状態の積分〓をガウス求積法で求める。この離散化により連立方程式の数は数百〜数千となり、対角化による時間発展計算が極めて困難になるが、我々は計算上の工夫によりこれを実現している。波束の時間発展はこのような問題にしばしば使われるsplit-operator法による。計算されたプローブ後の振動波束から、光電子分布などが求まる。

 図2(a)にNa2ダブルウェル励起状態、の振動波束の例を示す。このポンプレーザーのエネルギーでは、電子基底状態、からポンプパルスによって励起された振動波束が、t=100fsほどでR=4.7Å付近のポテンシャルバリアに達し、内側のポテンシャルウェルで振動する低エネルギー成分と、ポテンシャルバリアを越えてR=8.5Åまで達する大振幅振動成分とに別れる様子が見られる。これをプローブすることで得られる光電子運動エネルギー分布が図2(b)である。ΔT=600fs付近ではR=8.5Åからのイオン化により低エネルギーの光電子が、ΔT=200と1000fsではポテンシャルバリアをゆっくりと越える波束からεk=O.7eV付近の大きなピークが生じ、波束の運動の様子が光電子分布に良く見てとれる。また、より低いエネルギーのポンプパルスを使用した場合に、Clmの特異な核間距離依存性によってイオンシグナルが振動する新たな現象が見られた。

 図3には図2と同じ条件での光電子角度分布を示す。ここで(a)は分子軸に並行な偏光のプローブによるもの、(b)は直角なプローブによるものである。偏光によって(a)ではdz2型、(b)ではdxz型に光電子が分布しているのが見られ、この依存性を分子の回転を追跡することに応用できる。なお、角度分布の信号のΔT依存性は分子振動の影響を大きく受けている。

 分子の回転が光電子分布に与える影響を見るために、古典モデルによる回転を取り入れて光電子分布を計算した。分子振動を反映する光電子エネルギー分布は回転の影響を大きくは受けないが、光電子角度分布は回転を反映して分布の形が時間にそって変化する。特に角度分布への振動の影響を除去した場合(図4)にその様子が良く見てとれる。

 これらの結果から、空間依存性・エネルギー依存性を正しく取り入れた光電子分布計算が、従来のモデル計算では予見できない、特に非断熱的効果を感じる大振幅振動系での振動・回転動力学の観測にさまざまな可能性を見せてくれることが示された。今後、非断熱系のより直接的な観測に応用していきたい。

図1: Na2・Na2+のポテンシャル曲線。

図2: (a)励起状態波束|Xe|2と(b)光電子エネルギー分布。

図3: 光電子角度分布。(a)プローブ偏光は分子軸に並行。(b)プローブ偏光は分子軸に直角。

図4: 回転する分子からの光電子角度分布。

審査要旨 要旨を表示するb

化学動力学の1990年代は、フェムト秒オーダー幅のパルスレーザを利用した、分子の高速動力学あるいは実時間ダイナミクスの大発展の時代であった。多様な実験手法の開発と理論解釈の発展が世界的なスケールで行なわれた。この流れにあって、光電子分光法は、エネルギー領域から時間領域へのそれへと大きな変貌を遂げつつある。特に、光電子の角度分布は、励起状態のダイナミクスをより詳細に反映した非常に重要な情報を与えると予想されていたが、フェムト秒領域のパンプ・プローブレーザーの遅延時間を変えながら、光吸収・生成イオン・光電子のエネルギー分布・角度分布等を測定することによって励起状態の超高速ダイナミクスを追跡する実験技術が1999年に相次いで発表された。時間分解光電子分光自体の理論研究は1991年のDomckeらによる時間分解光電子分光の提案を受けて、ヨーロッパを中心に発展してきたが、非常に簡単なモデル計算しか出来ない状況が続いた。特に、従来の理論計算では、イオンヘの遷移モーメントを定数値等に仮定した非常に単純なモデルに基づいており、光電子の角度分布などの計算などは及ぶべきもなかった。一方では、実験の発達に伴って、各種実験パラメータ、例えば、レーザーの振動数・強度・分極方向、などの関数として、物理的内容が表現できる理論と計算が強く求められていた。

 新崎康樹氏は、その学位論文において、散乱理論計算による精度の高い、核間座標の関数としてのイオン化遷移モーメントを繰り込んで、基底状態・励起状態・イオン状態の各ポテンシャル面上にある振動波束とその間の相互作用を同時にとりいれた量子力学的多チャンネル問題を扱う新しい運動方程式の定式化を行い、その実現のための方法論を開発し、振動波束のダイナミクスの理論計算を行った。これにより、エネルギー一角度分解・時間分解の光電子分光の理論計算は実験事実と比較対応することができる新しい時代に入った。具体例として、Na2分子の励起状態でのダイナミクス追跡を具体例にとり、角度分解フェムト秒ポンプ・プローブ光電子分光研究としての最初の報告を行うとともに、幾つかの興味深い結果や理論的問題を解析した。新崎氏の研究は、すでに世界的な注目を集め、国際会議の招待講演に幾度か選ばれている。例えば、本年度の光電子分光法のFaraday DiscussionsのIntroductory Lectureもその一例である。また、この方法は、振動過程のなかで非断熱遷移による電子状態の遷移を直接観測する手段として、極めて有効であることが予想され、今後化学動力学分野に著しい貢献をなすことが期待されている。

以上の理由により、本論文審査委員会は全員一致で、新崎康樹氏を博士(学術)にふさわしいと判断した。

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