No | 115605 | |
著者(漢字) | 木村,純二 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | キムラ,ジュンジ | |
標題(和) | 『栄花物語』の入間観 | |
標題(洋) | ||
報告番号 | 115605 | |
報告番号 | 甲15605 | |
学位授与日 | 2000.09.18 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(文学) | |
学位記番号 | 博人社第290号 | |
研究科 | 人文社会系研究科 | |
専攻 | アジア文化研究専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 本論文は、『栄花物語』の人間観の考察を通じて、王朝期の精神的基底に迫ろうと試みるものである。 第一章では、道長の栄花の根拠に関する考察を通じて、『栄花物語』が、この世の事象は、人間の意志や力を越えた「宿世」により決められていると見る運命論的な世界観を持っていたことを、「おのづから」などの言葉を手がかりに論じる。 第二章では、「栄花物語」の歴史叙述の視点が、各事象の「今」にあること。そのため、従来「栄花物語』の特性として指摘されていた摂関家の発展の讃美という通念も、時間的前後関係を倒錯して持ち込まれるてはいないこと。摂関家の発展は、主題として叙述の前面に出ているというよりは、基底をなすものであり、そのことによって、栄花から疎外された者も、共感的に描き得ていること。などを論じる。 第三章では、人間には己れの運命は不可知であり、宿世が最終的には否定的なものとしておとずれるものであること。そうした己れの不幸を宿世として受け入れることが、『栄花物語』において、当為として認識されていること。また、それを拒否した顕光や元方らが物の怪と化していること。などを論じる。 第四章では、道長にとっては、子への情愛を成就することが、そのまま栄花をもたらすものであったこと。子への情愛が、「子のかなしさ」という言葉で、人間の本質として捉えられていること。また、道長が、天皇の子への情愛を実現するがゆえに、後見として重視されていること。などを論じる。 第五章では、子への情愛と宿世の受け入れとの関係を公任、斉信、道長のケースに従って考察し、子への情愛を捨てきれず、無常を悟りえないと諦める公任や斉信に「栄花物語」が共感していること。道長の往生は、隔絶した栄花への満足によっていたこと。そのため、他の人間には往生は可能とされていないが、むしろ、極楽が子への情愛という具体的生の場からの抽象として、本質的には願われておらず、仏教思想も抽象として退けられていること。などを論じる。 第六章では、子への情愛というモチーフが、日本の思想史に潜在しつつも、親の背後に天を見る儒教、イザナキ・イザナミを始原と見る国学、仏の慈悲を親の愛になぞらえる仏教といった従来の思想では、相対化されえなかったものであり、「栄花物語』の提示する人間観は、思想史的、倫理学的考察において、今後の課題となすべきものであることを論じる。 | |
審査要旨 | 本論文は、平安時代の歴史物語『栄花物語』の倫理思想を、その人間観に即して読み解く試みである。『栄花物語』の思想史的な研究はきわめて少なく、また、従来の思想史的なアプローチの多くは、政治思想史的、乃至浄土教史的観点からの外在的な言及にとどまり、『栄花物語』そのものの倫理思想を内在的に捉えようとする研究はほとんど存在しないのが現状である。こうした中で、本論文は、『栄花物語』がその叙述自体において何を捉えていたかを内在的に解明し、『栄花物語』の主題論と、日本思想史における人間観の一様態について新たな仮説の提起を試みるものである。 第一章では、『栄花物語』の栄華観の特徴が分析される。すなわち、『栄花物語』においては、栄華の根拠に関して、『大鏡』などとは異なる特有の把握がなされていることが指摘され、ここから、栄華をめぐる人々の具体的ありようを、人間に内在する力や働きにおいてではなく、超越的な働き(宿世)への態度のありようとして把握する『栄花物語』の特性が明らかにされる。 これに基づいて、第二章では、従来『栄花物語』の主題を構成すると見なされてきた「摂関家の賛美」という事態の内実が再検討される。ここでは、摂関家の発展は、それ自体が物語の主題をなすのではなく、むしろそれをめぐって一喜一憂する人々の心情にこそ物語の主要な関心があったことが論ぜられる。 第三章、第四章では、『栄花物語』の倫理が、政治的な諸関係における責任ではなく、超越的な宿世に対する受容・拒否の様相において描きとられていることが示される。ここから、『栄花物語』の描く人間の端的なイメージが情的な存在者としてのそれであり、その心情の根源像が親から子への情愛であったことが明らかにされる。 第五章においては、子への情愛と宿世の受容という二つの志向の狭間にある『栄花物語』の登場人物たちの具体的なありようが、「子の死」というモチーフを通じて分析される。ここでは、登場する入々のありようが、浄土教の救済論理とも、現世の全的な肯定とも行き方を異にする第三のありようをとっていることが確認され、さらにそれが、和辻哲郎によって王朝時代の精神の特質として指摘された“Halbheit”とも通じる質を持つことが指摘される。 最終章では、儒教の「孝」の観念や仏教の親子観などをふまえつつ、「子のかなしさ」として見いだされた『栄花物語』の人間観の、倫理学的・思想史的な意義が検討され、親子間の情愛を鍵とした倫理思想史の構想が模索されている。 このように、本論文は、内在的なアプローチによって『栄花物語』それ自体の入間観を明らかにしたものである。特に、親子の関係という倫理学上の重要な課題に、新たな思想史的知見を付け加えたことの意義は大きい。他方、栄華や物語をめぐる構造論的なアプローチとの対質が十分になされていないこと、細部における用例挙証に不十分さが残ることなど、問題点がないわけではない。とはいえ、日本倫理思想史上の空白部分に新たな知見を補った点は十分に評価できる。 以上により、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するものと判定する。 | |
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