学位論文要旨



No 115629
著者(漢字) 李,梨花
著者(英字) Lee,Lee-Wha
著者(カナ) リ,リファ
標題(和) 入倫国家論 : 和辻哲郎の『倫理学』に関する考察
標題(洋)
報告番号 115629
報告番号 甲15629
学位授与日 2000.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第294号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 竹内,整一
 東京大学 教授 佐藤,康邦
 東京大学 教授 黒住,真
 川村学園女子大学 助教授 湯浅,弘
 東京大学 助教授 菅野,覚明
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は、和辻のいう「日常」概念の質と幅への考察を通じて、『倫理学』が示す「人間」とその生きる場所としての「国家」を解明することを目的とするものである。論文の構成としては、『倫理学』に提示された人間存在の理法としての「空」の思想的背景を『倫理学』以前の著書から探り出すことによって、和辻のいう「空」の道を明確にし、それをもって「人間存在」と「国家」との関係を「人倫国家」の観点から解明するという手順を踏む。

 『倫理学』を「人倫国家」の観点から捉え直すことを本稿の根本テーマとしたのは、今までの和辻論、とりわけ「国家論」があまりにも批判的な観点からのみ取り扱われてきたということが背景にある。言い換えれば、『倫理学』の国家論への評価が、和辻の思想的体系をその根本から支えている彼の「思想の根」への考慮なしに、主として現実的な観点すなわちイデオロギー的観点からなされれきたという事情を鑑み、本稿では、『倫理学』にみられる人倫組織としての国家の主張を、彼自身の言葉をもって確認しつつ、それをもって和辻が目指した「人間の道」と「国家」との関係に正当な位置を与えることを第一の力点としている。一言でいえば、「人間」とは何かの問題を、「国家」という場との関わりの中で答えていく和辻の思索過程への検討が、本稿の内容となっている。

 論文の内容を簡単に纏めると、次の通りである。

 この論文は、『倫理学』の立場が、人間存在を「無常」「無我」「苦」として捉えている点で、原始仏教との共通地盤に立っていることを認めつつ、原始仏教には収まらない『倫理学』独自の領域を、「人倫」の観点から捉え直された「空」をもって確保することに力を注いだものである。その方法としては、竜樹に代表される「空」の思想への和辻の理解を通じて、和辻のいう「空」の性格を明確に提示することが目指されている。そして、その最後に、和辻倫理学の原型となった国家像として「アショーカ王」の国を提示する方法を取っている。なぜ、和辻の思想が仏教を思想的地盤としながら、しかもそこから分かれていくかは、つまるところは、国家の体系に仏教を取り入れた「アショーカ王」の国家の有り方への考察抜きには、その明確な解明が期待され得ないからである。その意味で、本稿は、「アショーカ王」の国を今ここに実現させようとした、和辻の「学」の体系を明確にすることをもって、なぜ『倫理学』の国家論が「人倫国家論」としての意義を持つかを、和辻の提示する具体的な人倫組織との関わりで解明しようとしたものである。

 つまり、本稿は、『原始仏教の実践哲学』の立場を踏まえつつ、その道をこの世に広げる論理的模索が和辻のそれ以後の仏教研究であり、それの最終的到着点が『倫理学』の国家であったことを明確にすることに焦点をすえたものである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、和辻哲郎の倫理学体系における、「国家」論の人倫的意義を解明する試みである。国家論は和辻の主著『倫理学』の重要なテーマであるが、戦前・戦中の国家主義イデオロギー問題との関係もあって、これまでの和辻研究はこれを避けて通る傾向があり、倫理学的見地から直接和辻の国家論を扱った研究は少ない。本論文は、和辻においてなぜ国家が、普遍的な道の自覚が実現される最大の場所とされたのかを、和辻倫理学の「日常」および「空」の概念の吟味を通じて明らかにしたものである。

 第一章では、和辻の「日常」概念が吟味される。和辻は、道の超越性を否定し、あくまでも日常こそが道の実現態でなくてはならないと主張する。論者は、和辻のいう目常が如何なる意味で、道の実現される動的な場としてのあり方を確保しえたか、そしてまたなぜ道の実現運動には、日常の実践的な了解にとどまらず、理論的認識(自覚)が必要とされたのかを検討する。その結果、和辻のいう自覚は、単なる事実認識でも、また宗教的な悟りへの飛躍でもなく、それ自身が、実践的了解を道へと向かう運動にもたらす不可欠の契機であったことが示される。すなわち、和辻のいう日常は、通常の意味での常識的立場ではなく、理法に無自覚な凡夫と、倫理を自覚した覚者とを構成員とする質差を含んだ動的な領域であったことが明らかにされるのである。

 第二章、第三章では、和辻倫理学の根本発想である「空」の弁証法が、『原始仏教の実践哲学』をてがかりに詳細に検討される。和辻の道の論は空の思想に多くを負っているが、しかし、存在と当為の関係づけをめぐって、和辻と仏教は顕著な立場の違いを見せる。ここでは、仏教思想が凡夫の道への欲求の根拠を覚者の権威に帰せざるをえないのに対し、あくまでも感動の論理的根拠づけを目指したところに、和辻の空の思想の独自性があったことが示される。すなわち、日常の行為連関に道を見る和辻においては、覚者の悟りはそれ自身が他者との関わりとして現れねばならず、それが慈悲という目に見える行いであるとされる。そして、慈悲とそれへの応答としての感動との動的な関係が、和辻のいう日常における空の実現態であったことが明らかにされるのである。

 第四章では、空の実現の現実的な範囲としての「国家」が検討される。論者は、国家論の諸類型に対する和辻の批判を検討した上で、和辻のめざした国家が、アショーカ王の国をモデルとしていることを示し、道の実現態としての運動連関には、道を自覚し提示する覚者と、それに帰依する素朴な凡夫との関係の他に、その関係を認識する立場(学、懐疑の心)が含まれねばならないこと、これらすべてを構成員とする領域は、了解・感動が可能となる最大の「特殊」としての国家であることが示される。

 以上、本論文は、和辻の人倫国家の意味を、和辻倫理学の基本発想と方法的基礎の精密な解析を通じて明らかにしたものであり、従来手薄であった和辻国家論の理論的解明に一定の成果をあげている。論証は精密で、先行研究への目配りも行き届いている。ただ精密な反面、論述にやや重複が目だつなど問題がないわけではない。とはいえ、和辻倫理学の基本モチーフを新たな視点で根拠づけたことの意義はきわめて大きい。

 以上により、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するものと判断する。

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