学位論文要旨



No 115710
著者(漢字) 嶋津,光鑑
著者(英字)
著者(カナ) シマヅ,テルアキ
標題(和) 培養液の溶存酸素濃度がニンジン不定胚形成に及ぼす影響
標題(洋)
報告番号 115710
報告番号 甲15710
学位授与日 2000.10.02
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2198号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物・環境工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 蔵田,憲次
 東京大学 教授 瀬尾,康久
 東京大学 助教授 後藤,英司
 東京大学 助教授 富士原,和宏
 筑波大学 教授 西村,繁夫
内容要旨 要旨を表示する

1.序論

 不定胚誘導系の大量種苗生産への利用が期待されており、不定胚の増殖能力を充分に活用するためには、バイオリアクターなど大型の培養装置を利用した液体培養が適している。

 培養液中の溶存酸素濃度は、充分な酸素供給が行われない場合、培養植物体の酸素消費によって急激に低下するため、液体培養では培養植物体の生育や物質生産が抑制されないレベルに溶存酸素濃度を維持する必要がある。好気的従属栄養生長をしている不定胚に関しても、溶存酸素濃度との関係を明らかにすることは、液体培養における不定胚の生産効率を高めるために極めて重要であり、溶存酸素濃度制御が可能なバイオリアクターを利用した研究がいくつか報告されている。しかし、バイオリアクターはフラスコ培養と比較して容量が大きいため、通気や攪拌などによる強制的な酸素供給操作が不可欠であった。通気や攪拌などの操作は、Figure1に示すように、溶存酸素濃度だけではなく力学的ストレス、酸素移動容量係数、発泡、粘性特性などの培養条件も変動させる。そのため、バイオリアクターを利用した既往の研究では、前述の培養条件の影響がノイズとして含まれている可能性が高く、溶存酸素濃度のみの影響を得られる実験系の確立が必要とされてい不定胚誘導系を大量種苗生産に応用するためには、不定胚形成の同調化技術が不可欠である。しかしながら、種苗生産に適した省力かつ効率的な手法はまだ確立されておらず、培養期間中に不定胚のマニピュレーションや植物ホルモンの添加などを必要とするものが多い。そこで、いくつかの培養環境要因を計測・制御できるバイオリアクターの利点を利用した培養環境制御による不定胚の同調培養方法が期待される。

2.本研究の目的

 本研究では、液体培養の物理環境の中でも溶存酸素濃度に着目し、不定胚形成に及ぼす影響を検討した。また、その結果を元にして、溶存酸素濃度制御による省力的な不定胚の同調培養方法を検討した。

3.液体培養における溶存酸素濃度とニンジン不定胚形成の関係(1)はじめに

 本章では、力学的ストレスが小さく、しかも、溶存酸素濃度制御において力学的ストレスが変動しない装置を使用して、液体培養における溶存酸素濃度がエンブリオジェニックカルスからの不定胚形成に及ぼす影響を調査した。

(2)材料及び方法供試材料として、不定胚形成のモデル植物として誘導手順が最も確立されているニンジン(Daucus carota L.Kinko-yonsun)を使用した。高頻度に不定胚が誘導されるように、メッシュを用いた篩い分けとFicoll溶液を用いた密度勾配遠心分離処理によって、比重とサイズのそろったエンブリオジェニックカルスを準備した。Figure2に装置の概略を示す。本システムは、フラスコ内の培養液上気相空間に通気する酸素ガス分圧を調節することで溶存酸素濃度を制御する。よって、攪拌速度の調節や気泡通気を行う必要はない。設定通気酸素ガス濃度は、4%、7%、20%、30%、40%とした(以後、これを試験区の名称とする)。不定胚は3、4日おきにサンプリングし、発育ステージごとに分類して経時変化を測定した。

(3)結果及び考察各試験区における培養期間の平均溶存酸素濃度は、2.0mgL-1(4%),2.8mgL-1(7%),7.1mgL-1(20%),10.8mg

 L-1(30%),14.0mgL-1(40%)であり、溶存酸素濃度の大幅な低下は生じず、5段階の溶存酸素濃度レベルを維持することが出来た。Figure3に培養期間中の不定胚形成数の経時変化を示す。総不定胚形成数及びその経時変化パターンは、本実験における溶存酸素濃度の範囲内では影響を受けなかった(Figure3A).しかし、発育ステージが進行するに伴い各ステージの不定胚形成が抑制を受ける溶存酸素濃度レベルは上昇した(Figure3B〜E)。特に、酸素富化の効果は、発育ステージ後期の不定胚形成数に顕著であった(Figure 3D,E).高溶存酸素濃度において、発育ステージ後期の不定胚形成が促進されたのは、不定胚の個体サイズの拡大によって抑制される体内への酸素供給が酸素富化によって補われたためと思われる。

4.溶存酸素濃度制御による同調的な不定胚誘導の試み (1)はじめに

 不定胚を利用した種苗生産では、種子内の受精胚と類似の形態である魚雷型胚が大量に必要となる。前章の結果を元にして、溶存酸素濃度を一定の低レベルに設定して不定胚誘導を行い、魚雷型胚ステージ以降の発育を遅延させることによる同調的な不定胚誘導を試みた。

(2)材料及び方法

 供試材料及び不定胚誘導方法、実験装置は前章と同じである。試験区としては、低溶存酸素濃度区として、7%の酸素濃度ガスを通記する区(7%O2区)と、培養室内空気を通記する区(空気通気区)を設け、不定胚を誘導した。また、低溶存酸素濃度で誘導された不定胚から正常に植物体再生が生じるかどうか、弱乾燥処理を施した後に、固形培地上に接種して調査した。

(3)結果及び考察Figure4に各試験区の不定胚形成の経時変化を示す。空気通気区では、魚雷型胚のピークは最大で58個mL-1であり、子葉期胚形成数の増加と共に減少した。これに対して、7%02区では,魚雷型胚の形成は空気通気区よりも遅延したが、子葉期胚は形成されず、培養30日目に100個mL-1となった。7%02区における魚雷型胚の増加は、子葉期胚への発育を抑制した結果であり、魚雷型胚の同調性は高まった。不定胚からの植物体再生率は、両試験区とも70〜80%であり、低溶存酸素濃度条件下で魚雷型胚を誘導しても、植物体再生率への影響はなかった。

5.発育状態に対応した溶存酸素濃度制御による不定胚の同調培養(1)はじめに

 全培養期間を通して溶存酸素濃度を低レベルに設定した場合、魚雷型胚の形成率は向上したが、不定胚培養期間が長くなり、しかも、まだ球状胚や心臓型胚が残存した。そこで、さらなる同調性の向上を実現するために、培養液中の不定胚集団の発育状態に対応した溶存酸素濃度制御(Developmental-stage dependent Dissolved

 Oxygen Control;DDOC)を行った。

(2)材料及び方法

 発育状態を効率的にモニタリングするために、培養器内不定胚集団の画像撮影を利用した(Figure5)。また、培養液pHの経時変化も測定し、不定胚の発育に関するモニタリング情報として利用できるか検討した。

(2)発育状態に対応した溶存酸素濃度制御(DDOC)の概念Figure6に、DDOCの概念を示す。DDOCは、画像撮影によって得られた不定胚集団の発育ステージ別の不定胚形成率を元にして、設定溶存酸素濃度を制御する。これによって、不定胚集団において、目的の発育ステージの形成率が高くなるように調節する。

(3)結果及び考察Figure7に、各試験区の発育ステージ別の不定胚形成率、pH、溶存酸素濃度の経時変化を示す。DDOC区は第1フェーズの8日目までは、空気通気区と同程度の魚雷型胚形成率を示した。魚雷型胚が観察された8日目以降、6%酸素ガス通気による第2フェーズに移行した。第2フェーズでは、魚雷型胚が形成されてから数日が経過しているにもかかわらず、子葉期胚の形成は観察されなかった。魚雷型胚形成率が一定になった19日目に通気02ガス濃度を10%にして第3フェーズに移行した。22日目以降の魚雷型胚形成率は3試験区の中で最大になった。DDOC区の魚雷型胚形成率は、最終的に45%を占め、残存する球状胚形成率は最も少なかった。pHは、各試験区とも、8〜12日目に最低になり、その後上昇したが、空気通気区が最も早くpHの再上昇が開始した。また、空気通気区は、培養の後期において子葉期胚形成率の増加に伴う大きな日周期変動を示すようになった。これは、培養装置の遮光が不充分であったため、侵入した光によって子葉期胚が光合成により酸素を放出した結果と思われる。pHと溶存酸素濃度の変動はほぼ培養室の明暗周期と同調していた。これに対し、6%02区とDDOC区における溶存酸素濃度とpHの日周期変動は観察されなかった。よって、pHの経時変化と日周期変動は、不定胚形成の指標のひとつになると思われる。

6.総括

 大量液体培養において最も重要な物理的培養環境要因の一つである溶存酸素濃度が不定胚形成に及ぼす影響を明らかするために、攪拌速度や通気量を変更せずに溶存酸素濃度を調整できる装置を作成して実験を行った。溶存酸素濃度は、不定胚形成に大きな影響を与え、培養液中の溶存酸素濃度を最適に制御することの重要性が示唆された。更にその結果を利用して、溶存酸素濃度制御による自動化で省力化が可能な不定胚の同調培養方法を検討し、その有効性を示した。溶存酸素濃度制御による同調培養方法は、不定胚集団を画像撮影によってモニタリングし、不定胚集団の発育状態に対応した溶存酸素濃度制御を行うことで、魚雷型胚形成率の向上を実現できたがさらなる検討が必要であった。また、培養液pHの経時変化も状態把握の1指標として利用できる可能生が示唆された。

Figure 1 Relational diagram showing relationship of the environmental factors and operating variables within a liquid culture system. Rectangle symbols denote environmental factors within liquid culture. Ellipse symbols denote operations for environmental control.

Figure 2 Schematic diagram of the experimental system.

Figure 3 Time courae of the mean number of somatic embryos per unit volume of the culture medium. (A) Total somatic embryos, (B) Globular-stage embryos, (C) Heart-stage embryos, (D) Torpedo-stage embryos, (E) Cotyledonary-stage embryos : Cumulative number of cotyledonary-stage embryos harvested by straining through a 85O-μm steel mesh. Bar represent standard errors (n=4).

Figure 4 Time course of the number of somatic embryos per unit volume of the culture medium. A: ambient air aeration. B: 7% oxygen aeration. Bars represent standard errors (n = 4).

Figure 5 Schematic layout of image acquisition of somatic embryos population.

Figure 6 The aspect of Developmental-stage dependent Dissolved Oxygen Control (DDOC).

(1) Time course of somatic embryogenesis, which started differentiation at early culture period.

(2) Time course of somatic embryos, which started differentiation later than a type of(1).

Phase 1: Developmental promotion of globular and heart-stage embryos.

Phase 2: Suppression of progress from torpedo-stage to cotyledonary-stage, however, promotion of development from globular-stage to heart-stage.

Phase 3: Suppression of progress from torpedo-stage to cotyledonary-stage, however, promotion of development from heart-stage to torpedo-stage.

Figure 7 Time course of DO, pH and the proportion of each developmental stage embryos, (a) ambient air aeration during culture period. (b) 6% oxygen aeration during culture period. (c) Developmental stage-dependent DO control.

審査要旨 要旨を表示する

 植物の不定胚の培養は、他の組織培養法と比較して増殖効率が飛躍的に高いこと、バイオリアクターなどの大型の培養装置を用いた液体培養に適していること、培養手順を機械化しやすいことなどから、大量種苗生産への応用が期待されている。液体培養において、溶存酸素濃度は最も重要な培養条件の1つである。しかし、今までに高溶存酸素濃度が不定胚培養に適しているという報告と、低溶存酸素濃度が適しているという矛盾する報告があり、溶存酸素濃度の不定胚培養への影響に関しては定説がなかった。そこで、本論文では、その影響を明らかにし、その結果を利用して不定胚培養の効率を高める省力的な培養方法を開発することを目的とした。

 まず、矛盾する報告が存在することの原因が実験方法の不備にあることを指摘し、せん断応力など、他の要因の影響を受けずに溶存酸素濃度だけを制御できる実験方法として、通気ガスの酸素濃度制御による方法の有効性を示し、その装置を組み立てた。

 通気ガスの濃度を4%、7%、20%、30%、40%に設定し、ニンジン不定胚培養実験を行った結果、次の点が明らかとなった。1.総不定胚形成数の経時変化は、溶存酸素濃度の影響を受けなかった。2.発育ステージの進行に伴い、各ステージの不定胚形成が抑制を受ける溶存酸素濃度は上昇した。通気ガス酸素濃度が4%の場合は魚雷型胚は形成されなかった。逆に、高溶存酸素濃度によって発育ステージ後期の魚雷型胚やその後の子葉期胚の形成が促進された。これらの現象は不定胚の大きさと不定胚内部での酸素の拡散の関係から説明できた。

 以上の結果から、大量に魚雷型胚を生産するためには、低溶存酸素濃度によって、魚雷型胚より先の発育ステージ(子葉期胚)への進行を抑制することが有効であると考えられた。そこで、通気ガス酸素濃度7%と室内空気(酸素濃度21%)通気の比較実験を行った。その結果、室内空気通気の場合、魚雷型胚形成数のピークは58個mL-1であったのに対し、7%酸素通気の場合、100個mL-1であった。しかし、魚雷型胚の形成は室内空気通気の場合より遅延した。なお、7%酸素通気で形成された魚雷型胚は幼根部の伸長が抑制されていたが、植物体への再生率は80%で、室内空気通気の場合の87%と大きくは変わらなかった。

 そこで、全培養期間を通して同一酸素濃度のガスを通気するのではなく、不定胚の発育状態に対応した溶存酸素濃度制御方法を考案し、DDOC(Developmental-stage dependent Dissolved Oxygen Control)と名付けた。不定胚の発育状態をモニタリングするため、不定胚の画像を1日ごとに撮影するとともに、培養液pHの経時変化を測定した。培養期間を3つのフェーズに分け、それぞれで異なった酸素濃度のガスを通気した。第1フェーズでは、室内空気を通気した。培養8日目に魚雷型胚が観察されたので、魚雷型胚から子葉期胚への進行を抑制するために、通気ガスの酸素濃度を6%とし、第2フェーズへ移行した。第2フェーズに移行して数日が経過しても子葉期胚は観察されなかった。魚雷型胚形成率が一定になった培養19日目に、魚雷型胚の形成を促進するために通気ガス酸素濃度を10%にした。その結果、DDOCでは、魚雷型胚形成数は対照実験として行った室内空気通気の場合の2倍、6%酸素通気の場合の1.4倍であり、魚雷型胚の率も高かった。植物体再生率はDDOCで70%であり、室内空気通気の71%、6%酸素通気の75%と大差なかった。このように、DDOCの有効性が確認された。また、pHは第1フェーズから第2フェーズのころに低下し、その後上昇した。この結果から、モニタリングの方法として簡易なpH測定が有効であることが示された。

 以上のように、本論文は不定胚形成に及ぼす培養液溶存酸素濃度の影響を、新たな実験方法を開発することにより、体系的に検討するとともに、大量種苗生産に不定胚形成を応用することを念頭に、魚雷型胚の形成を促進する培養液溶存酸素濃度制御法を開発したものであり、学術上、応用上貢献するところが大きい。よって、審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文に値するものと認めた。

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