学位論文要旨



No 115724
著者(漢字) 若林,由記
著者(英字)
著者(カナ) ワカバヤシ,ユキ
標題(和) デンドリマーの分光化学的研究
標題(洋)
報告番号 115724
報告番号 甲15724
学位授与日 2000.11.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4822号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北森,武彦
 東京大学 教授 澤田,嗣郎
 東京大学 教授 二瓶,好正
 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 教授 相田,卓三
 東京大学 講師 久本,秀明
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1. 緒言

 デンドリマーは、1985年にTomalia等によって始めて合成された3次元樹枝状構造の高分岐高分子である。1997年、Jiang等はアリルエーテルデンドリマーの中心に組み込んだアゾベンゼン(L5AZO)のcis-trans転位が、ニクロム光源からの赤外光照射(波長:6.26μm,エネルギー:0.2eV)で誘起されること、この反応速度が照射光強度の5次に依存することを見出した。しかし、通常アゾ基のcis-trans転位(Ea=0.82eV)は、可視光照射または加熱によってのみ起こる。また、分光器のニクロム光源で5光子過程を誘起することは殆ど不可能である。このようなデンドリマーの特異な光化学特性を明らかにするためには精密分光化学測定が必要であり、特にエネルギー緩和過程の評価には無輻射過程を直接観測することのできる光熱変換分光法が必須であると考えた。そこで本研究では、1)精密赤外吸収測定システムの開発およびデンドリマーの赤外吸収光子数の評価2)熱レンズ測定システムの開発および吸収・蛍光・熱レンズ測定によるエネルギー収支の評価3)光熱変換効果の変調周波数依存測定によるエネルギー貯蔵時間の検討4)過渡レンズ分光測定システムの開発および時間分解分光計測によるエネルギー移動・貯蔵機構の検討など、様々な分光化学測定法を開発および改善し、デンドリマーの光特性を測定して、特異な光化学挙動を明らかにすることを目的とした。

2. 実験

 2-1.試料 デンドリマーには球やコーン形などの形状があるが、デンドリマーの光反応特性とその構造は密接に関係しており、L5AZOのcis-trans異性化は幾何異性体でも球形のみで観測された。本研究において、赤外照射による吸収光子数測定にはL5AZOのCHCl3溶液を、その他の実験では中心にアゾベンゼンを含まないアリルエーテルデンドリマー(L4(Ar)2)の異性体三種のCH2Cl2溶液を用いた[Ln(Ar)m;nはデンドリマーの世代(層)数、Arはデンドリマーのモノマーユニットの種類(アリルエーテル)、mはコア分子に結合しているアリルエーテルデンドロンの数を表す。]。

 2-2. 赤外光子束および絶対吸収光子数の精密測定 一般に波長6μmの中赤外域では光子エネルギーが小さいので光電効果が起こらず、光子のカウントは非常に難しい。そこで、絶対校正された真空熱伝対と、赤外光ビームが試料溶液全体に照射される小型セル、赤外光度計から構成される精密赤外吸収測定システムを開発した。L5AZO分子1個の平均吸収光子数は、試料溶液から溶媒のみの信号を引くことで、試料の吸収量を求め、試料セル内の分子数から計算した。

 2-3. エネルギー収支測定 通常、化学反応など他にエネルギーを消費する経路の無い場合、光吸収エネルギーは輻射緩和と無輻射緩和を合せたエネルギーに等しくなり、ηr+ηnr=1(ηr:輻射緩和の量子収率,ηnr:無輻射緩和の量子収率)の関係が成り立つ。そこで、本実験では球形と2種のコーン形の計3種のAr(L4)2異性体を用いて、エネルギー収支の分子形状依存性を検討した。赤外励起での検討は実験的に非常に困難であること、また、後に検証するが、励起状態の寿命がエネルギー貯蔵に関与しているのではないとの仮定から、6.26μmの振動励起(芳香環の骨格振動)の代わりに、244nmの電子励起(芳香環のπ-π*)遷移を励起波長とした。吸収量を一定にするため、試料溶液は厳密に調製した。用いた試料は本実験条件下では燐光を出さないので、輻射緩和の量子収率は蛍光から解析した。無輻射緩和の量子収率は熱レンズ分光測定装置を作製し、熱レンズ信号から解析した。吸収および蛍光は各々吸光光度計及び蛍光光度計で測定した。熱レンズ測定はAr+レーザーの第二高調波(244nm)を励起光、He-Neレーザーの633nmをプローブ光とした。

 2-4. 熱レンズ分光法による無輻射緩和速度の測定 励起光の変調周波数を変化させて熱レンズ信号を測定することで、無輻射緩和過程の速度に対する情報を得ることができる。そこで、本実験では2-3.と同じ実験条件下で熱レンズ信号の変調周波数依存性(4Hz〜1kHz)を測定した。

 2-5. 時間分解分光測定 輻射緩和についてはナノ秒蛍光寿命装置(励起光:266nm,280nm)を用いてナノ秒領域における蛍光寿命を測定した。無輻射緩和についてはポンプープローブ法を用いた過渡レンズ法を用いた。励起光にはTi:SapphireレーザーのOPA出力(532nm,560nm)を用い、2光子吸収を利用した。

3. 結果と考察

 3-1. 吸収光子数の精密測定 作製した絶対吸収測定システムにより、ニクロム光源からの光子束およびL5AZOの絶対吸収を精密に測定した。本測定結果から算出したL5AZOの吸収断面積は1.2×10-9cm2/分子、吸収光子数は、3.7×10-3光子/分子/秒であり、通常の分子と変わらぬ値であった。さらに本測定結果から、1分子のL5AZOが5光子を吸収する時間を計算したところ22分であった。この貯蔵時間は、L5AZO中のアゾ基のcis-trans転位が飽和に達する時間と良く一致した。以上の結果から、5光子同時吸収の可能性は無く、赤外光子が1光子ずつ逐次的にcis-L5AZOに吸収され、5光子吸収された時点でその全エネルギーを用いてcis-trans転位が起きるという過程が考えられた。しかしこの場合、吸収した光子のエネルギーが分オーダーで散逸されず分子内に貯蔵されるという、通常では考えられない機構が必要であると結論した。

 3-2. 吸収・蛍光・光熱変換測定によるエネルギー収支の評価上記吸収光子数測定の結果より、L5AZOは吸収した光子のエネルギーを分子内に貯え、そのエネルギーを分子内化学反応に供給している可能性があることが示された。また、5光子吸収によるcis-trans転位は、球形のL5AZOにしか観測されなかったことから、この機構にはデンドリマーの形状が重要な役割を果たしていると考えられる。そこで、中心に化学反応を起こすような分子を持たないアリルエーテルデンドリマーの3種の立体異性体o-、m-、ρ-Ar(L4)2について、形状が輻射・無輻射過程に与える影響を調べた。ここでρ-Ar(L4)2の分子構造は3次元的に球形であり、他はコーン形である。

 波長244nmの光に対して光吸収量を一定にした時、o->m->ρ-の順の蛍光強度が観測された。一方、熱レンズ信号はm->o->ρ-の順であった。o-およびm-Ar(L4)2の輻射・無輻射エネルギーの和が吸収光エネルギーに等しいと仮定してエネルギー収支を解析した。その結果、ρ-Ar(L4)2では、吸収エネルギーに対して緩和エネルギーが約50%欠損していた。熱レンズ分光測定では、分子外に放出されたエネルギーにより熱レンズ信号が発生するので、この欠損はρ-Ar(L4)2、が分子外にエネルギーを放出せず分子内部に貯蔵しているエネルギーであると考えられ、紫外光で芳香環を励起した場合でも、球形でサイズが大きいアリルエーテルデンドリマーは分子内部にエネルギーを貯蔵することが示された。

 3-3. 熱レンズ分光法によるエネルギー貯蔵時間の検討 次にエネルギー貯蔵時間を検討するため、1kHz〜4Hzまで変調周波数を変化させてo-、m-、ρ-Ar(L4)2溶液およびCH2Cl2の熱レンズ信号の周波数依存測定した。ρ-Ar(L4)2の熱レンズ信号は、全周波数領域でo-およびm-Ar(L4)2に比べて小さかった。この傾向は濃度を変えても同じであった。これより、ρ-Ar(L4)2から放出される無輻射緩和エネルギーは少なくとも125ms以下では溶媒に伝わりにくいと考えられた。さらに、本測定の熱レンズ信号強度と3-2,の蛍光強度比から分子内エネルギー貯蔵率を計算し、周波数依存解析したところ、8Hz〜200Hzの周波数では約0.5でほぼ一定であった。このこともエネルギー貯蔵が長時間継続していることの証拠となる。ここで、ρ-Ar(L4)2でも微小ながら無輻射過程が観測されたことより、1msより十分速い無輻射緩和過程がρ-Ar(L4)2にも存在すると考えられる。本熱レンズ信号の周波数依存測定より、ρ-Ar(L4)2には、1msより十分速い緩和と、無輻射緩和が125msより長いエネルギー貯蔵という2つの過程が存在することも示された。。

 3-4. 時間分解分光計測 吸収光子数、エネルギー収支、エネルギー貯蔵時間の評価から、球形で世代の大きなAr(L4)2は長時間・高貯蔵率の分子内エネルギー貯蔵能を有することが示された。本実験からこのエネルギー貯蔵は、赤外光照射による芳香環の骨格振動励起でも、紫外光照射による芳香環のπ-π*電子的励起でも起きることが示された。これより、見出された特異な分子内エネルギー貯蔵の機構について、1.ρ-Ar(L4)2分子の励起状態の寿命が長く緩和が遅い、2.ρ-Ar(L4)2分子の緩和は速いがエネルギーが分子系外に放出されない、という2つの可能性が考えられた。そこで、時間分解蛍光寿命測定により双極遷移の緩和挙動を、過渡レンズ分光測定によりその他の無放射過程の緩和挙動を検討した。その結果、o-、m-、ρ-Ar(L4)2の蛍光寿命は〜2nsで、全て等しいことがわかった。また・過渡レンズ分光測定結果もo-、m-、ρ-Ar(L4)2で違いは見られなかった。これより、ρ-Ar(L4)2分子の緩和挙動のみが特殊ではないことが示され、エネルギー貯蔵は緩和の後に起きていると考えられた。

 これまで光捕集タンパクやエネルギー貯蔵錯体に知られているエネルギー貯蔵は長くても〜100nsレベルである。また、分子全体が電荷分離や共役系のモデルには〜100msのエネルギー保持も報告されているが、アリルエーテルデンドリマーは分子全体が非共役である。つまり、本研究で見出したような125ms以上という長時間の分子内エネルギー貯蔵の報告はこれまでに無い。サイズの大きい球形のアリルエーテルデンドリマーは、最外層が非常に密で結合の回転がほとんど起こらないにも関わらず、分子中心に向かうに連れ急激に疎と成り、原子は溶液中同然、自由に動けることがわかっている。この構造特異性から、長時間分子内エネルギー貯蔵はデンドリマー内部の原子群が非線形結合振動子系を構成するモデルで説明できるのではないかと考えた。このモデルはFermiにより1950年代に提案された理論的な力学モデル(Fermi-Ulam-pasta;FPU理論)を3次元に拡張したものである。

4,結言

 本研究では、アリルエーテルデンドリマーの特異な光化学特性を明らかにするため、中赤外光子束、熱レンズ分光システム、過渡レンズ測定システムおよび試料調製システムを作製し、L5AZOの絶対吸収光子数およびo-、m-、ρ-Ar(L4)2のエネルギー収支、貯蔵時間、緩和ダイナミクス、貯蔵機構を評価した。その結果、球形でサイズの大きなアリルエーテルデンドリマーが分子内にエネルギーを貯わえることを明らかにした。エネルギー貯蔵機構については、分子内におけるソリトン様の散逸しないエネルギー伝播機構を考えた。本研究で得られた知見を基に、今後、新たなエネルギー伝播・貯蔵機構の解析や、新たなエネルギー貯蔵物質の構築や低品位赤外光の分光分析への応用など、基礎的、応用的研究が大きく発展して行くものと期待される。

* 論文提出者が提出したものを添付する。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、デンドリマーの特異な分光化学特性およびエネルギー貯蔵能について述べたものであり、6章から構成されている。

 第1章は序論であり、本研究の背景と共に、本研究の学術的意義および目的を述べている。通常、分光学的見地からインコヒーレント光源による5光子過程は考えられず、これはアリルエーテルデンドリマーが有する構造特性に基づく光特異性に起因すると考えられた。そこで、第2章より分光化学的実験を行い、デンドリマーの分光化学特性を評価・検討している。

 第2章では、中赤外精密測定システムを開発し、5光子過程を誘起したニクロム光源からの6.3μmの赤外光子束およびアゾデンドリマー(L5AZO)の絶対吸収測定を報告している。その結果からL5AZO分子の吸収光子数は10-3個/秒であり、5光子過程に基づく化学反応を誘起するためには、吸収した赤外光子のエネルギーを分子内に貯える必要があることを示している。

 第3章では、通常分子では放射・無放射緩和量子収率の和が1になることに基づき、アリルエーテルデンドリマーのエネルギー貯蔵の可能性とその構造依存性を検討している。ここで無放射緩和過程は、光熱変換分光法の1つである熱レンズ分光測定システムを開発し、直接評価を行っている。本実験においては、励起法は振動励起でも電子的励起でもエネルギー貯蔵過程には影響せず、球状ではないo-,m-Ar(L4)2はエネルギーを貯蔵しないとの仮定の元に、吸収・蛍光・光熱変換測定によりエネルギー収支を評価している。その結果、球状のρ-Ar(L4)2が溶媒に無放射緩和による熱を伝えにくく、吸収した光子のエネルギーの約50%を分子内に貯えることを明らかにした。

 第4章では、熱レンズ分光測定の変調周波数依存測定を行い、光熱変換効果の応答時間を評価している。第3章と同様の手法でエネルギー収支を評価し、ρ-Ar(L4)2が少なくとも125msもの長時間、吸収した光のエネルギーを分子内に貯えることを明らかとしている。また、ρ-Ar(L4)2による分子内エネルギー貯蔵率は約50%と高く、変調周波数および濃度に依存しないことを示している。

 第5章では時間分解分光測定により、分子内エネルギー移動および貯蔵機構に関する検討を行っている。第4章までに示されたρ-Ar(L4)2、の分子内エネルギー貯蔵に対し、1.ρ-Ar(L4)2の励起状態の寿命が長く、緩和が遅いためにエネルギーが保持されている、2.ρ-Ar(L4)2の緩和自体は速いが、何らかの要因でエネルギーが分子外に放出されていないという2つの可能性を挙げ、評価を行っている。3種のAr(L4)2の構造異性体についてナノ秒時間分解蛍光寿命測定を行い、双極遷移過程の緩和挙動および緩和時間を検討した結果、ρ-Ar(L4)2の緩和時間および緩和挙動はo-,m-Ar(L4)2と同じであることを明らかにしている。また、高速光熱変換効果をとらえる過渡レンズ分光測定を行い、双極遷移以外の無放射緩和過程についてもo-,m-,ρ-Ar(L4)2で差異が無いことを示している。これらの結果から、ρ-Ar(L4)2の特異な分子内エネルギー貯蔵は励起状態の持続によるものではなく、励起状態にある分子が緩和した後にそのエネルギーが分子内に貯えられることに依るものだと結論している。最後に本研究結果と他のエネルギー貯蔵に関する知見とを比較・検討を行い、ρ-Ar(L4)2の分子内エネルギー貯蔵はこれまで検討されている光捕集モデルの貯蔵機構とは全く異なり、長時間減衰せず且つ等分散しないエネルギー移動過程が不可欠であると考えている。世代が大きく球状のアリルエーテルデンドリマーでは、最外層が非常に密で原子がほとんど動けない一方、分子中心に向かうに連れデンドリマー構造が急激に疎と成り、溶液中同様動きやすい。これより、Fermi-Pasta-Ulam理論を3次元に拡張したエネルギー貯蔵機構を提案し、ρ-Ar(L4)2内部における、非線形結合振動子系の力学的エネルギー伝播に基づく新たな分子内エネルギー貯蔵機構の存在を示している。

 第6章では、本論文を総括すると共に、本研究の展望を述べている。基礎的研究としては、提案している非線形系結合振動子系のモデル化や分子内化学反応機構の検討が、エネルギー貯蔵機構の解明に大きく寄与するであろうと述べている。また、発展的研究としてはエネルギー貯蔵物質や赤外ラベル分子としての利用を挙げ、新たな化学および分析法へ展開して行くであろうと期待している。

 以上のように、本論文では、これまで知られていなかったアリルエーテルデンドリマーの分光化学特性を明らかにし、その構造特異性がもたらす、新たな機構に基づく分子内エネルギー貯蔵を見出すと共に、化学および分光化学の発展に重要な知見を与えるものである。

 よって本論文は、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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