学位論文要旨



No 115728
著者(漢字) 小口,達夫
著者(英字)
著者(カナ) オグチ,タツオ
標題(和) アルコキシ、ビノキシ、アルキルパーオキシラジカルの反応性に関する研究
標題(洋)
報告番号 115728
報告番号 甲15728
学位授与日 2000.12.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4824号
研究科 工学系研究科
専攻 化学システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 越,光男
 東京大学 教授 幸田,清一郎
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 助教授 水野,哲孝
 東京大学 助教授 三好,明
 豊橋技術科学大学 教授 松為,宏幸
内容要旨 要旨を表示する

 大気化学や燃焼化学における化学反応を理解するためには、素反応の情報を得ることが必要である。素反応は反応機構を構築する基本的な単位であり、これまでにも膨大な量の情報が蓄積されてきた。そうした中でも、現在に至るまで必ずしも充分な情報が得られていない例や、研究例が全くない未知の領域が存在している。本論文で取り上げた主題は、いずれも大気化学や燃焼化学では重要な反応中間体である、酸素原子を含むラジカルに関する素反応の研究でり、それらのラジカルは、濃度・温度・圧力等の条件により多様な反応経路を持つために、様々な条件・手法による充分な研究が必要である。本論文では、それらラジカルの反応性について、これまでに知られていなかった情報を明らかにした。

メトキシラジカルの熱分解反応

 アルコキシラジカルは低温燃焼中の反応機構において重要な化学種である。そのうちメトキシラジカル(CH3O)についての単分子反応では、水素原子が解離する熱分解反応、

が主であると考えられているが、その分解速度についての過去の報告には大きな開きがある。本研究ではCH3Oをレーザー光分解-レーザー誘起蛍光(LP-LIF)法を用いて直接的に生成・観測し、その熱分解速度を測定した。実験の結果、CH3Oの熱分解速度は実験の範囲内で全圧にほぼ比例し、単分子反応の低圧極限領域にあることがわかった。これを図1に示す。原点を通過する直線に近似しその直線の傾きを2次反応速度定数とした。各温度・全圧毎に得られた熱分解速度定数からCH3Oおよび希釈媒体の濃度に対する2次反応速度定数を得て、アレニウスプロットを行った。これを図2に示す。これによりアレニウス式として、希釈媒体がHe,N2それぞれの場合に対して

が得られた。これらの値は過去に報告された値のいずれにも一致しない。

次に、RRKM理論に基づいて微視的反応速度定数および総括反応速度定数を計算した。計算上のパラメータとして反応障壁エネルギーE0および平均衝突失活エネルギー<ΔEdown>を選び、RRKM計算による結果が実験の結果を再現する値を決定することを試みた。また、水素原子の解離・異性化反応ではトンネル効果の寄与が大きいことが知られており、その寄与を確認する為にトンネル効果を取り込んだ場合とそうでない場合の双方について計算を行った。Heを第三体とした場合で、もっとも良く実験値を再現した結果を図3に示す。トンネル効果を考慮した場合(実線)に対してE0=101.7kJmol-1,<ΔEdown>=210cm-1が得られ、考慮しない場合(点線)ではE0=99.6kJmol-1, <ΔEdown>=358cm-1が得られた。第三体がN2の場合についてはトンネル効果を考慮した場合のみ計算を行い、Heの場合で得られたE0=101.7kJmol-1をそのまま用いて<ΔEdown>=290cm-1が得られた。

 さらに反応(1b)の経路における反応障壁を既知の量子化学計算の結果から133kJmol-1と推定し、反応(1a), (1b)を考慮したRRKM計算により総括反応速度定数の反応(1b)の寄与率を求めた。その結果、実験条件における反応(1b)の寄与は1.4%以下であることがわかった。

 トンネル効果を考慮すると、低圧極限領域にあっても反応速度が全圧に対して比例せず、上に凸の曲線状の変化になる(図3実線)ことがRRKM計算の結果より明らかとなった。すなわち、トンネル効果の寄与がある場合、従来考えられてきたような低圧極限領域での全圧に対する比例関係が成立しない。実験結果を再現するパラメータに関しては、E0については過去の報告値と非常に良く一致し、また<ΔEdown>については、トンネル効果を考慮した場合の結果の方が過去に報告された類似の単分子反応における値と良く一致しており、この反応においてトンネル効果を考慮する必要があることを間接的に示している。さらに図4に示すように、計算された微視的反応速度定数は既報の実験的に求められた値と非常に良く一致しており、RRKM計算で得られた総括反応速度定数は妥当なものと考えられる。

メチルビノキシラジカルと酸素分子の反応

 ビノキシ型ラジカルは、不飽和炭化水素の酸化反応過程で重要な反応中間体の一つと考えられている。このラジカルには不飽和結合と酸素原子の結合との間に共鳴構造が存在し、ラジカルとしての性質がアルコキシラジカル類似であるか、アルキルラジカル類似であるかという点について特に興味が持たれるが、近年行われた量子化学計算の結果は、ラジカル中心が炭素原子側にある、アルキル型に近いことを支持している。本研究では、ビノキシラジカル(CH2CHO)の水素原子がメチル基で置換されたメチルビノキシラジカルについて、酸素分子との反応を直接的に測定し、CH2CHOと比較してビノキシ型ラジカルの反応性に関する置換基効果を検討した。実験はLP-LIF法を用いて、メチルビノキシラジカルを直接的に生成・検出して行った。実験はすべて室温で行った。

 測定された反応速度について擬1次解析を行い、酸素濃度依存性ならびに全圧依存性を観測した。図5に、1-メチルビノキシラジカルの場合の測定例を示す。酸素濃度に関してはいずれも直線的な依存性を示し、この傾きから2次反応速度定数が得られたが、速度定数は全圧に対して依存性を示した。これを図6に示す。既報のCH2CHOと酸素分子の反応速度定数に比較して、メチルビノキシラジカルの場合は4-5倍程度速い事が明らかとなった。また、圧力依存性はビノキシラジカルと同様にFalloffが出現し、この反応過程が再結合過程であることを示唆している。

 CH2CHOと酸素分子の反応では、その生成物として(CHO)2, CH20, CO, OHなどが報告されているが、反応機構については明らかでない。そこで、量子化学計算により反応機構上の各反応経路を予測し検討を行った。その結果、パーオキシラジカルを生成した後に比較的低い反応障壁を経由して分解する経路(1,4H-Shift)の存在が推定された。このエネルギーダイヤグラムを図7に示す。この経路の反応障壁エネルギーは出発点より低く、低温でも反応が進行する可能性がある。

 ビノキシラジカルと酸素分子の反応速度定数は、ほぼ高圧極限の領域ではアルキルラジカルと酸素分子の反応の場合における置換基効果と類似した傾向をもつことがわかる。すなわち、アルキルラジカルと酸素分子の反応においては分子の大きさと再結合エネルギーに対して反応速度定数やFalloff領域の出現の仕方が系統的になっている事が知られているが、ビノキシ型ラジカルの場合にも同様の傾向が見られる。このことは、ビノキシ型ラジカルの反応性がアルキルラジカルに近いものであることを示唆している。

ブチルパーオキシラジカルの熱分解反応機構

 炭化水素の低温燃焼における酸化反応過程の反応機構は未だよく理解されていない。tert-ブチルラジカル(t-C4H9)と酸素分子の反応は、イソブタンの酸化初期過程の一つと考えられ,図1のような反応エネルギーダイアグラムが推定されているが、その反応中間体の存在や反応論的挙動はほとんど未知である。本研究ではそのような反応中間体の素反応を直接的に測定することを試みた。

 反応中間体C4H800Hの分解反応素過程の反応機構への寄与を検討するために、まず、新たな分解生成物の検出とそれらについての反応論的な情報を得ることを試みた。実験は、レーザー光分解-光イオン化質量分析(PI-MS)法およびLP-LIF法を用いて行った。ラジカル前駆体としてCl原子を生成し、C4H9OOHと反応させてC4H8OOHの生成を試みた。実験は室温で行った。

 PI-MS法によりC4H8Oの生成がレーザー光照射直後から観測された。この生成物はレーザー照射によりほぼパルス的に生成し、生成後は安定して存在する事がわかった。従って、この信号安定生成物のものであると考えられる。反応中間体C4H8OOHは観測されず、生成しているとしても観測感度限界以下か観測時間分解能以下で消滅していると考えられ、C4H8OOH由来の分解生成物であるC4H8Oの生成速度と対応している。また、LIF法によりOHラジカルの生成が確認された。OHラジカルのLIF信号は時間と共に増加した後、減少して行く様子が観測された。OHラジカルの生成量はラジカル前駆体の初期濃度にほぼ比例した。解析の結果、OHラジカルの生成と減衰は、C4H8OOHの生成・分解が律速ではなく、ラジカル前駆体およびOHラジカルのC4H9OOHとの反応に依存していることがわかった。これらの結果はPI-MS法においてC4H8Oが直ちに生成していることと対応している。従って、C4H8OOHは室温程度でもほとんど安定には存在せず、単分子分解することを示唆している。

図1 各温度毎の反応速度圧力依存性

図2 反応速度定数のアレニウスプロット

図3 RRKM計算と実験値との比較

図4 計算された微視的反応速度定数

(○はS.Dertingerらによる実験値)

図5 1-メチルビノキシラジカルと酸素分子の反応速度

図6 2次反応速度定数の圧力依存性

(○,●;実験値、□,■;Gutmanら、+;Lorenzら、×;Zhuらによる)

図7 低温でも進行が予想される反応機構

図8 予想される反応機構のエネルギーダイヤグラム

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「アルコキシ、ビノキシ、アルキルパーオキシラジカルの反応性に関する研究」と題して、炭化水素燃料の燃焼過程や大気化学反応で重要な表題の酸素を含んだラジカル類に関する反応速度論的研究がまとめてあり、6章より構成されている。

 第1章は序で、燃焼や大気の化学反応における素反応情報の重要性とその研究背景について述べている。そのなかで、酸素を含んだラジカル類が特に重要な反応中間体であるにも関わらず、そのような反応中間体の素反応情報が十分蓄積されている訳ではない事を指摘している。

 第2章では研究手法について、実験で主として用いられたレーザー光分解によるラジカル生成手法、レーザー誘起蛍光法や光イオン化質量分析法によるラジカル検出手法について述べ、また実験の解析に用いられている理論を背景にした計算化学的手法についても解説している。

 第3章ではメトキシラジカルの熱分解反応に関する実験的及び理論的研究について述べている。熱分解反応の速度定数についての過去の報告値は低温燃焼で重要な温度領域において約2桁のずれがあり、反応速度論的な解決を図る必要を指摘し、直接的な測定手法に依ってより正確な速度定数を決定している。すなわち、メトキシラジカルをレーザー誘起蛍光法により検出し、その減衰速度から速度定数を直接に求めた。また、近年報告されているこの反応へのトンネル効果の寄与について検証し、RRKM計算による実験値の解析結果はトンネル効果の寄与を考慮した方が妥当であると述べている。さらに熱分解反応に競合する可能性のある異性化反応についてその寄与を理論的計算によって考察し、測定した温度領域ではほとんど寄与がない事を確認している。

 第4章では、メチル基で置換されたビノキシラジカル(メチルビノキシラジカル)と酸素分子の反応について述べている。実験は室温で行われ、過去に報告されたビノキシラジカルの場合と比較する事で、メチル基による置換基効果を議論している。測定された速度定数はビノキシラジカルの場合と同様に圧力依存性が観測され、典型的な漸下曲線を呈している事から酸素分子との反応は再結合反応である事を表していると述べている。実験値はRRKM計算によって解析が行われ、高圧極限および低圧極限の速度定数、反応障壁エネルギー、および希釈気体の衝突効果を表すパラメータが評価されている。これにより、ビノキシラジカルの場合より5ー6倍大きい高圧極限速度定数が反応障壁エネルギーの相対的低下と相関がある事を指摘し、メチル基による電子供与効果がラジカル中心の反応性を高める結果になるという従来からの定性的説明と一致していると述べている。さらにビノキシラジカルと酸素分子の反応機構を推定する目的で量子化学計算による反応経路予測を行い、その結果得られたエネルギーダイヤグラムから反応系がもつエネルギーより低い反応障壁の後続過程が存在する事を示し、低温でも後続過程が重要となる可能性を示唆している。

 第5章では、ブチルパーオキシラジカルの熱分解反応とその反応機構についての実験的測定と総合的考察を述べている。t-ブチルパーオキシラジカルの異性化反応における反応中間体と予想されているハイドロパーオキシブチルラジカルの直接的生成を試み、その分解速度は室温でも非常に速く、対応する生成物として2,2-ジメチルオキシランとOHラジカルが観測されたと述べている。i-ブチルラジカルと酸素分子の反応では高温においてOHラジカルが生成する事を見い出している。測定されたOHラジカル生成速度は酸素濃度無限大の極限において一定値に収束するがその値は初期反応の速度とは明らかに異なり、反応速度論的な考察とハイドロパーオキシブチルラジカルの分解速度に関する知見から、その値は反応中間体であるi-ブチルパーオキシラジカルの単分子反応速度に対応していると指摘している。過去に報告されたneo-ペンチルパーオキシラジカルの単分子反応速度定数と比較して測定された速度定数は2倍程度大きいが、これはそれぞれの主要な反応経路が持つ反応障壁の大きさの違いを反映している結果であると推論し、近年報告された量子化学計算による結果から推定された反応障壁の大きさと対応づけても矛盾はないとしている。総じて、アルキルパーオキシラジカルの熱分解反応では主たる分解素反応過程における反応障壁の大きさが速度定数の大きさに重要な役割を果たしている事を指摘している。

 第6章は総括であり、研究成果をまとめ、実際の燃焼化学・大気化学において新たに得られた反応速度定数が重要な意味を持つ事、特に、これまでほとんど議論されていない高温反応におけるトンネル効果の寄与や、反応性に与える置換基効果について今後より発展的な研究が必要である事、などを指摘している。

 以上要するに、本論文は燃焼反応・大気化学反応において重要なアルコキシ、ビノキシ、アルキルパーオキシラジカルの熱分解・異性化反応に関して新たな反応速度論的知見を与えたものであり、化学システム工学の発展に寄与するところが大きい。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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